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2010年7月18日 (日)

(きゃ#43) 『ぐるぐる!ぐるぐる!』(>_<)! (今現在)

休憩時間の、お終いの方にですが、ベンチャー君が、1枚の図柄が描かれた紙を取り出しまして、それを、ずっと観ていました。

そこで彼は、

『げっ! 気持ち悪り~! 眼が回るぅ! やっぱり、気持ち悪い!』

と、何やら、叫んでおりました。(^^;

一体全体、何をやっているのだろうと、その紙を見せて貰いました。

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何やら、デザイン画の様でありました。(^-^)/

そこで、それをどうしたのかと聞きましたら、

『小野寺先輩に貰った。』

と言うのです。

『タケちゃん』が、そんなにも気の利いた物を、元々、持っているはずがなく、彼が持っているとしたら、ゲーム機か、ゲームソフトぐらいのもので、一体全体、どうしたのかと、ベンチャー君に聞くと、

『何でも、桃沢(ベンチャー研修所)で、貰って来たみたいです。』

との、応えでした。

それで、ベンチャー君に、

『一体全体、どの様に回って見えるんだ?』

と聞きますと、

『何て、言ったら好いのか判らないけれど、全体的に、うにぃ~って、回るんですよぉ。それで、勝手に、自由な方向に、回っているって言うか・・・。』

う~~ん。(^^;

ですが、私には、全く、回って見える事はありませんでした。

本当に、感覚が無いと言うか、年寄りと言うのか、とにかく、右に向けたり、左に向けたりしても、全く、変化は起きませんでした。

そこで!(^o^)/

『きゃさりん副長。』にも、見てもらう事にしました。

Img_0676

『どう? この絵だけど、回って見える?』

の、私の問い掛けに、『きゃさりん副長。』は、

『何が?』

との、応えだけでした!(^^;

私は内心、『やった!』と、心の中ででガッツポーズをしまして、

『これは、回って、見えるんだってよ! 回って見えない?』

と、さも自分が、回って見える様な口振りで言ってしまったのですが、直ぐに、『きゃさりん副長。』の逆襲に遭ってしまいました。(^^;

『本当は、自分だって、回って見えないんでしょ!』

確かにまぁ、図星でありました。(^^;

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それからは、『きゃさりん副長。』と二人で、あ~でもない、こ~でもないと、図柄の描かれた紙を、あっちに向けたり、こっちに向けたりとしていましたが、結局は、何も変化は起きませんでした。(^^;

二人とも、単なる、時間の無駄遣いと、徒労に終っただけでありまして、本当に、『回らない』つまらなさと、ただ単に、『歳』を感じるだけで、ありました。(^^;

結局、最後には、

『ふ~~んだ! こう言うのは、若い人にしか見えないのよ! 私達、年寄りには見えないのよ! それで好いの! 世の中はそうなっているの!』

と、『きゃさりん副長。』の叫びで、この図柄の絵は、仕舞われてしまう事になりました。

ですがまぁ、本当に、年寄りには見えないのかなぁ?(^^;

と、思っていましたら、世の中には、とても親切な方が、数多く、いらっしゃるものです!

早速、その情報を、教えて頂く事ができました!(^o^)/

何でも、『錯視』と言うのだそうです。

それでそれは、

『北岡明佳の錯視のページ』

http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/

と言う所に、載っているとまで、教えて頂いてしまいました!

そこで早速、ホームページを観に行きましたら!(^o^)/

『ぐるぐる! ぐるぐる!』

回るではないですか!(^o^)/

どうやら、『歳』は、関係が無かった様です。

どうも、印刷の具合で、色合いが良く無かった様でありました!

ですが、いや!

待てよ!

どの道、色合いが悪くても、ベンチャー君が回って、私達が回らなかったと言う事は、結局は!

『歳』のせいなのでしょうねぇ。(^^;

『きゃさりん副長。』は、

『さぁ、休憩終わり! 次に進みま~す!』

との、事でありました。(^^;

(つづく・・・。)

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2010年7月11日 (日)

(きゃ#36) 『手旗の起源!』(^o^)/ (今現在)

『きゃさりん副長。』の、感動的な『スカウツオウン』が終りまして、次は、『技能訓練』の時間となりました!(^o^)/

今回の『技能訓練』は、何と!

『手旗』なのです!(^-^)/

『きゃさりん副長。』から、強~~い、ご希望がありまして、『手旗通信』を、行なう事となりました。

ですが、一体全体、インストラクターを、誰にするのか?

そこは本当に、大問題であります!

ですが、身近で、『手旗』を行なえる者は、極々、限られております。

それに、『手旗通信』となりますと、殆ど、ほぼ、一人しかおりません!

但し、その人間は、左半身片麻痺の、身体障害者であります。

それでも、その人間を扱き使おうと言うのですから、インストラクターになる人間は、堪ったものではありません!(>_<)!

ですが、仕方が無いのです。

今現在の、指導者の技能は、相当、低下をしております。

どうしようもない位に、低下をし切っています。

ですが、それで、通用させてしまっています。

当団の、ボーイ隊は、果たして、本当に『手旗訓練』を行っているのでしょうか。

いや、多分、無理な相談でしょう。

ですので、ボーイ隊指導者に、お願いをする訳にもいきません。

ですので、そこは仕方がありません。

『解っている人間が行なう!』

それは、『スカウト技能』教育の、大鉄則であります。

決して、『嘘』や『中途半端』な技能を教えてはなりません!

教えるならば、『本物』を、伝え教えなければなりません。

また、見学をするならば、『本物』を観る!

体験をするならば、『本物』に触る!

それは、本当に、『鉄則』であります。

それを行わないからこそ、スカウティングは、指導者の能力の低下を招き、プログラムの愚劣化を引き起こし、魅力が無い物に、成り下がってしまったのであります。

本当に、何と言う、愚かな事でしょう!

本当に、情けなく思います。

スカウティングの衰退の原因の一つには、その様な事もあるのです。

と、まぁ、愚痴を言っていても何も始まりません。

私は、中学校1~2年生の頃に、海軍出身の、初代駿東地区地区コミッショナーに、地区で行われていました少年幹部訓練で、嫌と言うほど、体に叩き込まれました。

ですが、『カタカナ手旗通信』の実技は知っていても、その歴史は、全く知りませんでした。

その前に、『欧文(アルファベット)』ですが、ボーイスカウトの創始者である、ベーデン・パウェルが、今から100年以上前に『スカウティング・フォア・ボーイズ』と言う著書を著しました。

その著書は、ボーイスカウトを、爆発的に発展させる切欠となったものですが、その著書の中には、『アルファベット』の『手旗信号』が記されていました。

調べてみますと、『セマフォア信号』と言うものらしいです。

『スカウティング・フォア・ボーイズ』は、中学時代に読み漁っていたのですが、どうしても、『カタカナ手旗通信』の歴史は、知る事ができませんでした。

また、駿東地区の初代コミッショナーは、多くを語る事無く、鬼籍に入られてしまいました。

今現在は、インターネットの時代であります。

何かを調べようとしますと、直ぐに、見つけ出す事ができます。

『手旗の起源』。

この事に付きましても、直ぐに発見をする事ができます。

ですが、私がボーイスカウトを拝命した25年前は、少なくとも、

和文タイプライターからワープロへ、

感熱式コピーから、熱転写(カーボン:トナー)式コピーへ、

と、移りつつあった時代だと思いました。

通信の先端と言えば、FAXが、席巻していた頃だったと思います。

インターネットも、電子メールも、まだまた、登場してはいなかったと思いました。

そんな頃、防衛庁で勤務をしていた頃ですが、一人の、海上自衛隊生徒出身者と出会うことができました。

それも、同期の21期生でした。

彼とは、大学も同じで、尚且つ、工学部電子工学科の、同じ同窓生でもありました。

そんな彼に、無理を承知で、お願いをしてしまったのでありました。

『手旗の起源を、教えてくれ!』、と!(^^;

自衛隊の文書規則は厳しく、おいそれと簡単には、文書などを出す訳には行きません。

その文書が、流出してしまっても大丈夫な物かどうかなどは、とても判断か付くものではありません。

そこで彼は、『自分の知識』として、FAXで私に、知らせてくれました。

本当に、有り難かったと思いました。

自衛隊生徒の同期って、本当に、何と有り難いものか!

同期生のみんなに対しましては、本当に、いつもいつも、『感謝!』ばかりであります。(^^;

さて、そんな事も含めながらでありますが、『きゃさりん副長。』と、ベンチャー君に対しまして、偉そうに、『手旗の起源』に付きまして、お話をしたのでありました。(^^;

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私は、ついつい、『手旗通信』と申してしまいますが、どうやら、『手旗通信法』と言うのが、正しい呼称の様です。

ですが、とりあえずは、海上自衛隊の同期に頂いた資料を基に、話を進めて行きました。

その、内容によりますと。

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『手旗は、日清戦争(1894年)の直前、当時海軍中尉であった釜谷忠道(かまたに ただみち)氏が部下と共同して考察したものであり、カタカナの裏文字を、両手に旗を持ち、書いてみせたところ、十分読み取れることがわかり、近距離用における実用信号として使えることで海軍省に進言したところ、正式に採用され、海軍の手旗信号法となった。』

と言う、ことでありました。

要は、時代は、明治時代だったと言う事なのですね。

それで、海軍軍人の方が、考案したと言うこと。

また、『カタカナの裏文字』に、着目をしたと言うこと。

近距離用の実用信号として、十分に使える。

海軍が一番最初に始め、海軍の手旗信号法として、成り立った、と言う事の様です。

つまり、海上自衛隊の同期に聞いてみて、正解だったと言う訳なのです!(^-^)/

それで、現代は、どの様な扱いになっているかと言いますと、

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『手旗は、最も容易な視覚信号で、艦艇に、短艇に、陸上にと、この使用範囲は極めて広く、また、実用の機会は最も多く、電波機器が発達した現在においても、近距離用において、簡単に交信できうるものである。』

と言う、ことだそうです。

つまり、現在でも、しっかりと、『手旗信号法』を、用いていると言う状況の様です。

ここでのポイントは、

・最も容易な視覚信号である。

・私達、ボーイスカウトにとっては、海に、山に、川に、野原にと、どこでも使う事ができる。

・使用範囲が、極めて広い。

・実用の機会も多い。

・電気が無くても使える。

・近距離において、簡単に交信ができる。

と、まぁ、私達ボーイスカウトにとりましては、本当に、持って来いの通信法なのではないのでしょうか!(^o^)/

それを、見事に訓練もしないで、また、見事に使いこなせない。

本当に、現代の指導者達は、情けなくって情けなくって、仕方がありません。

この『手旗通信法』の話を聞きました、『きゃさりん副長。』ですが、俄然、やる気が湧いて来てしまった様でありました。

早く、『手旗』を手にとって、旗を振ってみたくて、仕方が無い様でありました。(^^;

ここで、ちょっと、補足をしておきたいと思います。

海軍省に、採用されてからでありますが、

・種々改良を加えた上で海軍信号規程として整備された。

・国民皆兵時代になり全国的に普及された。

・商船、漁船を問わず『手旗信号法』が一般船舶間で利用された。

・1931年(昭和6年)逓信省が告示し、日本船舶手旗信号法が制定された。

・1952年(昭和27年)運輸省が告示し、日本船舶信号法が公布され現在に至る。

とまぁ、様々な変遷はありますが、海軍省~逓信省と渡り、自衛隊は軍隊ではありませんから、防衛庁に返す訳にも行かず、結局、運輸省に落ち着いたのでしょうね。

今現在で言いますと、『国土交通省』になるのでしょうか。

そうしますと、今現在の『手旗通信法』の管轄は、『海上保安庁』と言う事になってしまいますね。(^^;

なかなか、本当に、厄介な話です。

元は、海軍ですから、海上自衛隊が歴史を持っているのに、それを管理しているのは、『海上保安庁』であると言う、とても、嫌~な、話になってしまいますね。(^^;

この辺りは、戦後の日本の、官僚主義の政治による、とっても捻れた、湾曲してしまった、おかしな現実の中に、『手旗信号法』が、捲き込まれてしまっていると思います。

それもまぁ、今現在の、日本の政治を観ていれば、仕方が無い事なのでしょうね。

本当に、この国は、何処まで、馬鹿な国になってしまうのでしょうか!

ボーイスカウトの指導者と同様に、情けなくって仕方がありません!(>_<)!

おっと、話がずれてしまいました。

実は、『海上保安庁』にも、同期生がいます。

と言う事で、今度は、『海上保安官』に、話を聞いてみたいと思います。

ですが彼は、1級無線技術士だからなぁ。(^^;

何となく、様相が異なる気がしています。

さぁて、超、やる気になりました、『きゃさりん副長。』ですが、『手旗』の実技は、一体全体、どの様な感じだったのでしょうか!

実は、『手旗』の『技能訓練』ですが、この後、延々と終わり無く、続いてしまう事になってしまうのでありました。(^^;

(つづく・・・。)

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2010年3月 9日 (火)

『ご訪問。』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅦ)

小学校3年生も、終わりに近付いて来た頃、川口先生に、

『家に遊びに来ない?』

と、突然、誘われてしまった。

私は、一体全体、どの様に対応をしたら良いのか、本当に、解らなかった。

先生は、何人かの児童に、声を掛けた様であった。

日頃、えこひいき、などをする様なお人では無かったが、それでも、声を掛けられた児童は、極、少人数であった様である。

私は、詳しくは、掌握はできなかったが、元々は、何人かの女子が、先生の所に遊びに行きたい、と言い出したのが、始まりの様であった。

それならばと言う事で、先生が、日頃気になっていた児童に、声を掛けた様であった。

私は母親に相談をしてみたが、母親の方も、戸惑っていた様であった。

一体全体、どの様な服装をして行ったら良いのか?

何か、お土産を、持って行かなければならないのか?

母親も私も、あれやこれやと思案をしてみたが、結局、何も良い考えは、浮かんでは来なかった。

母親は、様々なお宅と、連絡を取ってくれていた様であった。

結局私は、母親に、何かを持たされたのであったのであるが、今となっては、その記憶が無い。

ひょっとすると、野菜でも、持たされたのであろうか?

先生のお宅に伺った日、みんなで、何処かに集まって、一緒になって、行ったと言う、その記憶も無い。

私は先生から、

『もう、沼津は、判るわね?』

と言われて、ご自宅の場所を書いた、簡単な手書きの地図を渡されていた。

母親からは、バス代を貰い、一人で沼津に向かったと思った。

初めて、一人で向かった、沼津駅。

とにかく、沼津駅までは、行かなければならなかった。

そこから、今度は、西に向かう。

と言っても、大きな通りを、西に向かうのではなくて、細い路地を西に向かうのであった。

そこは、全くの初めての路であった。

沼津駅のロータリー。

そこを横目で見ながら、細い路を探した。

多分、この辺りだろうと思っていたが、なかなか見付からないでいた。

若干の、人の流れがあった。

それにつられる様にして、歩いて行った。

先生の、手書きの地図上では、途中で、北側の線路側に、鋭角に曲がって行く事になっていた。

しかしながら、その鋭角の路地が、また、判らない。

私は、何回か、その路地を見過ごしていた。

何往復ぐらい、したであろうか?

ふと見ると、『テーラー川口』と言う文字が、眼に飛び込んで来た。

(かわぐち・・・。)

私は、ひょっとしてと思い、そちらに歩を進めた。

(テーラー?)

私にとっては、全く意味が解らなかったが、地図からすると、確かにその方向になる。

線路の直ぐ脇である。

クリーム色の、3階建ての建物であった。

大きなガラス張りの、部屋が、1階部分の、半分位を占めていた。

中を覗いてみると、男の人が、アイロンを掛けていた。

どうやら、違うようだなぁ、と思っていたら、その男の人が、手招きをした。

そして、大きなガラス窓を開けて、

『清水小学校の子?』

と聞いてきた。

私は、思わず頷いた。

するとその男の人は、

『こっち、こっち。こっちへ回って!』

と、建物の東側の方へ、行く様に、手を振った。

私は促されて、その方向に向かった。

すると、引き戸が開けられ、中から、川口先生が、顔を出した。

『いらっしゃい! よく来たわね。さぁ、どうぞ!』

と言って、家の中に、招き入れてくれた。

そこは、アイロンの独特の臭いと共に、洋服の臭いも充満していた。

川口先生のお宅は、紳士服のオーダーメイドのお店であったのである。

眼の前には、小さな靴が、沢山並んでいた。

もう既に、多くのクラスメイトが、来ているらしかった。

玄関、と言う訳ではなく、仕事場とお店と、居間とが、一緒になっている様な感じであった。

ガラスの障子戸が開けられると、そこには、炬燵に入った、多くの女子達がいた。

男子は?

と、見回してみたが、見当たらない。

あれっ?っと思っていたが、まぁ、仕方が無い。

とりあえず、炬燵の隅に、入れて貰った。

川口先生は、直ぐに、紅茶とケーキを運んで来てくれた。

みんなは、既に、頂いた、後らしかった。

後から遅れて来て、直ぐにケーキを頂くと言うのも、何となくと言うか、随分と、恥ずかしいものであった。

それに注目もされている。

なかなか、厄介であった。

そんなにも、こちらを見なくったって、良いだろうにと、思っていた。

『いいのよ。ゆっくり食べてね。寒かったでしょ? それにここは、判り辛かったでしょ?』

と、先生は聞いてきた。

私は、ショートケーキを、どの様にして食べようかと、必死になっていたが、そこに質問を受けて、かなり焦っていた。

結局、先生の質問には、答えることは、できなかった。

女子達は、盛んに何かを話していたが、良くは覚えてはいない。

ただ、先生のアルバムや、初心などを見せて貰って、それで盛り上がっていた様であった。

男子が一人と言うのは、どうにもやり辛い。

何をして良いのか?

何を話したら良いのか?

まるで、見当が付かないのである。

仕方無く、キャピキャピ言っている、女子達を、見守るしか無かったのであった。

そんな時に先生が、

『ねぇ、トランプでもやろうか?』

と、言ってくれた。

ババ抜き・7並べ・神経衰弱などをやっていたが、先生が、

『セブンブリッジをやらない?』

と言い出した。

私は、叔父から教わっていたが、多くの子は、知らない様であった。

先生がルールを説明し、とりあえず、やってみる事になった。

人数が多かったので、見学に回る子もいた。

段々と、みんなが慣れて来ると、かなりの盛り上がりを見せた。

『トランプの中でも、セヴンブリッジが、すきなのよねぇ。』

そう、先生は言っていた。

それに、

『一人じゃできないし、こうして、みんなと一緒に、トランプをやるのが、夢だったのよねぇ。』

とも、言っていた。

楽しい時間は、当然の如く、あっと言う間に過ぎてしまう。

段々と、夕暮れが近付いて来た時、

『寿子、そろそろ、子供達を返してやらんと、暗くなっちまうぞ。』

と、先生のお父さん、あの、紳士服に、アイロンを掛けていた男の人が、障子の間から、顔を出した。

一瞬ではあるが、先生も含めて、誰もが、止めたくないと思った、と感じた。

それは本当に、何れやって来る事とは解っていながらも、来ては欲しくない、言っては貰いたくない事であった。

ちょっとした、沈黙があった。

先生は、流石だった。

『あと1回で、終わりにしましょう。』

と、区切りを付けた。

楽しい、本当に、楽しかった『ご訪問』は、いとも簡単に、終焉を迎えてしまった。

あっという間の、出来事の様であった。

何をしたと言う訳でもない。

とにかく、先生のお宅で、遊んだだけである。

だけれども、とにかく、楽しかった。

いとこ達と遊んでいるよりも、叔父に、遊んで貰っている時よりも、全く違った感覚で、本当に、楽しかったのである。

私達は、後ろ髪が、惹かれっ放しの状態であったが、それでも、お礼を言って、家路につくこととなった。

先生も、その先生のお父様も、

『また、遊びに来てね!』

『また、いらっしゃい!』

と、私達には、声を掛けて下さったが、残念ながらそれ以降、先生のお宅には、遊びに行く事は無かった。

最初で、最後の事であった。

その後、先生のお宅は、引越しを、余儀なくされてしまう。

それは、駅前の、区画整理の為であった。

小学校3年生の時は、本当に、様々な出来事が、多過ぎた!

もっともっと、色々な事が、あったのかも知れないが、とにかく、面倒な事もあったけれども、かなり、印象の強いことが、多かったと思う。

それに、一番の大きなことは、『優しさ』。

川口先生の、『優しさ』に、触れたことであったろう。

その事が無かったら、どうなっていたのだろうと、ふと、思ってしまう。

川口先生は、私の1回目の結婚披露宴には、大喜びで、ご出席して下さった。

本当に、有り難かった。

年賀状も、欠かした事は無い。

本当に、児童思いの、優しい先生であったと思う。

今年の年賀状であったろうか?

『大平幼稚園を最後に、定年退職、致しました。』

とあった。

最後は、幼稚園の園長先生を最後に、その、教諭人生に、幕を引かれた様である。

誠に、お疲れ様でした。

そして、ありがとうございました!

今となっては、川口先生に出会っていなかったらと思うと、ぞっと、してしまう!

ただただ、『感謝!』の言葉に、尽きる。

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2010年3月 8日 (月)

『スポーツ万能?』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅥ)

旧家の庭の、西側に引っ越して来た、三女の叔母の旦那様は、結構な、『スポーツマン』であった様である。

野球は、本当に良く知っているし、野球以外でも、ゴルフなど、様々なスポーツを、堪能している様であった。

また、職場でも、自らが企画・計画をして、みんなを、引っ張って、連れて歩いていた様であった。

叔母は?

と言うと、何となくではあるが、運動と言うものには、縁が無かった様な、そんな気がした。

その叔父であるが、ウィンタースポーツもご他聞に洩れず、スキーやスケートを、軽く、こなしていた様であった。

考えてみたら、大体、私の父は、運動が、まるっきり、駄目である。

苦手、と言うか、その域ではない!

運動音痴、と言った方が、適切である。

かろうじて、『剣道』をやっていたと豪語していたが、持っていた木刀は、素振りの為ではなく、私達兄妹の、脅しに使っていたのであるから、全く、信用はできない!

次男坊は、ソフトボールとか言っていたけど、あの動きは、どうにも怪しい。

三男は、これまたソフトボールと言っていたが、こちらは、企業チームに入っていたので、まぁ、信用ができる。

四男は、野球。

一応、高校球児でもあったし、試合も観ているので、大丈夫である。

長女・次女・三女の、叔母達だよなぁ~。

こちらは、誰にも聞いてはいないし、看た事も無いし、どうにも信用ができないよなぁ。

母方の方は、と言っても、今回は、叔母の関係であるから、特には、関係が無いであろう。

それにしても、父方の方で、『スポーツマン』と言ったら、誰が、該当するであろうか?

家の中には、『運動をする』とか、『スポーツをする』と言った、そう言う風潮は、まるで無かった様に思った。

従って私も、『走る』事に関しては、そこそこであった様に思ったが、『体育』全般に関しては、全く、自信が無かった。

跳び箱とか、鉄棒とか、かろうじて、人並みにはできた様に思ったが、特にこれと言って、得意なものは、無かった様に思った。

『運動』ができる子は、とにかく、目立つ。

そして、人気者になる。

それは、私からしたら、とても羨ましい事だらけであった。

私は、休日になると、未だ子供が居なかった、叔母と叔父の所に、よく遊びに行く様になっていた。

その叔父は、遊び人、と言う訳では無かったが、とにかく、『遊ぶ事』は、とてもよく様々な事を、知っていた。

とにかく、何を聞いても、応えてくれたのである。

私にとっては、全てが新鮮であり、全てが、憧れ、であった。

『トランプ』から始まって、『花札』や、『将棋』。

メンコだって、ビー玉だって、付き合ってくれた。

それに、話が上手いし、その話が、とても面白かった。

『野球』は、NHKで、パ・リーグの試合をやっていても、それを、面白く、解説をしてくれた。

多分、オープン戦か、何かだと思った。

その頃の『野球』は、大体が、『巨人軍』主体で、まず、『巨人』以外は、テレビで観ることは無かった。

全てが、『ジャイアンツ』、いや、『王』・『長嶋』、中心で、回っていた様に思った。

第一、『巨人・大鵬・卵焼き』、と言う言葉さえ、生まれた位である。

『巨人』以外の球団を、知らなくたって、それが、当然であったと思う。

逆に、パ・リーグのチームを知っているなんて子供がいたならば、相当、マニアックだったと思う。

でもまぁ、大体が、父親などの、影響を受けていたとは思う。

その叔父は、知識も豊富であった。

『阪急の山田の投げ方は、アンダースローって、言うんだよ。』

とか、

『南海の野村は、苦労をして、三冠王を獲ったんだ。』

とか、その三冠王について、解り易く、説明もしてくれた。

この選手は、何処の出身だとか、何処の高校だとか、甲子園はとか、多少、私が、付いて行けない部分も多かったが、それでも、かなりの事を、教えてくれた。

家には居なかったタイプの、全く新しいタイプの人間である。

私は、結構、叔父に、のめり込んで行った様にも思った。

『野球』については、話が、途切れなかった。

話は、打撃法とか、特に、『王貞治』と『長嶋茂雄』の話は長くって、あれには、参った。

投球法は、『村山実』のザトペック投法とか、スタルヒンの話や、それも、終いには、訳が解らなくなって、少々、嫌気が差していた。

最後には、ルールの話であった。

結局、話し相手が居なかったのか、叔母と、遊びに行く事も無かったので、誰か相手をして欲しかったのか、それは判らないが、とにかく、延々と話が続いて、流石の私も、参ってしまった。

叔父の話が、段々とつまらなくなり、そこに通うのが、億劫に成り出した頃に、『スケート』の話が、いきなり、飛び込んで来た。

『すけーと?』。

その頃の私にとっては、ウィンタースポーツなどは、全くの、『無縁』であった。

第一、『スケート』自体を知らない。

ただこの頃、『冬のオリンピック』が開催をされ、多少は、盛り上がっていたらしい。

そこで、『スケート』は、一つのブームに、なっていたらしかった。

その当時は、今とは、気候が全く異なり、冬になると、とてつもなく、寒かった。

氷は、毎日の様に張り、霜柱は、かなり固い土でも、持ち上げた。

私達は、通学の時に、水溜りに張った氷を、こぞって足で踏み割り、霜柱を、踏み潰した。

それに、通学途中に、大きな工場の社宅があったが、そこの防火水槽に、氷が張る。

結構な、厚さであったと思った。

それをまた、割って歩いて行くのである。

それがまた、通学時の、楽しみでもあった。

柿田川からは、湯気が沸き立ち、その水温と気温との差を、その湯気の量で、私達に、知らせてもくれていた。

また、周辺の湖、と言っても、近くでは無いのであるが、箱根の芦ノ湖や、そして、富士五湖などには、氷が張った。

何cm、氷が張った。

スケートができる。

ワカサギ釣りができる。

などのニュースが、テレビからも流れていた。

今から、40年ぐらい、前の話である。

叔父は、

『山中湖に行こう!』

と、話を持ち掛けて来た。

(やまなかこ?)

私は、まだまだ、周辺の事が良く解っておらず、大体、富士山自体が、どの位の高さがあるのかさえ、知らずにいた。

その富士山の向うに、何があるのかさえ、知らずにいた。

その、富士山の、向こう側に、行こうと言うのである。

話は、母親の元に、届いた。

私は、ワクワクして、母親の、許可が下りるのを待っていた。

しかしながら、母親からは、許可が、下りる事は、無かった。

とにかく、『遠い』、と言うのである。

それに、母親が、付いて行ければ良いのであるが、そうもいかないと言う。

出掛ける時刻も早く、帰って来る時刻も遅い。

それに対応が、できないと言うのである。

そんな理由であったが、一番の心配は、『湖』、と言う事にあったらしい。

その当時の山中湖は、軽く、20cm以上は、結氷していたらしい。

それでも、氷の厚さ自体は、湖全体では、一様ではなく、厚さは、まちまちであったらしい。

母親は、『割れたら?』と言う事と、男児が、私一人だけである。

祖母から、何と言われるか?

どうやら、それが、一番の、嫌がる理由であった様である。

私が、諦めかけていた時であったが、叔父が、今度は、別のカードを抜いて来た。

今度は、『強羅』だと言う。

(ごおら?)

私は、その場所も、全く知らなかった。

『箱根の、強羅だよ。』

と、叔父は、言っていた。

私は、またまた、ちんぷんかんぷんであった。

まぁ、良いや、と思って、地図を見る気にもならずにいた。

どうせ、母親は、許してはくれないであろう。

そう、思っていたからである。

しかしながら意外なことに、今度は、母親の許可が下りた。

どうやらやっぱり、地上の上であれば、良かったのであろう。

私は、喜んで、叔父に、連れて行って貰った。

しかしながら、行きのバスも、帰りのバスも、眠りこけていて、何処をどの様に行って来たのかは、全く覚えてはいない。

かなり、楽しみにしていたのである。

車窓から、景色が、どんどんと変わって行くのが、本当に、一つの楽しみであったのである。

だけれども、残念な事に、眠りこけてしまった。

何も、覚えてはいない。

富士山の横を通って、富士山が、とても綺麗に見えると聞いていたのに。

実際のスケートは、と言うと、叔父は何と!

マイ、スケート靴を持っていた。

それで、腰を屈めて、優雅に滑って行くのである。

その上、私を肩車して、それでも、滑る事ができたのであった。

私は、初めての体験に、ただただ、驚くばかりであった。

氷の上を滑る。

自由にならない体を、何とか、維持をしようと思ってみたが、どうにもならないでいた。

その内に、体中、びしょびしょに、なってしまった。

叔父は、私の着替えを、持って来てくれていた。

それで私を着替えさせ、休ませてくれた。

結局、私の、初めての『すけーと』は、それで、終ってしまった。

借りたスケート靴が、びしょびしょになり、とても履ける状態では無かったのである。

靴紐も緩まず、そのせいで、足が入らない。

私は、再び濡れるのが嫌だったので、いとも簡単に、諦めてしまった。

その後の私は、スケートは好まなかった。

足は痛くなるし、顔面から氷面に、突っ込んだ事もある。

スケートは、やらなくなってしまった。

その分、スキーに、夢中になってしまった。

その後の叔父であるが、その当時、導入をされたばかりの、コンピュータ関係の業務を、行っていた様であった。

仕事の帰りも遅く、私へのお誘いも、段々と、少なくなってしまった。

その結果、胃潰瘍を患ってしまった。

無理をして、仕事を続けていたせいであろう。

最後には、入院。

そして、手術となってしまった。

叔父が退院をしてきた時、別人、かと思ってしまった。

頬はこけ、あんなに、筋骨隆々だった叔父が、別人の様になってしまった。

体が衰えると、気力も、衰えるのであろうか?

その後の叔父は、遊びに出かける事は、少なくなってしまった。

私は、まだまだ、色々な事を、教えて欲しかった。

様々な体験を、してみたかった。

だけれどもその願いは、叶う事は無かった。

ただ、世の中には、本当に、様々な物や事があると言う事は、その叔父によって、知らされたのかも知れない。

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2010年3月 6日 (土)

『勝負師!』(^-^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅣ)

新しい家が建てられ、旧家の納屋が取り壊された跡は、とてつもない、『広場』に、変身をしてしまった。

子供達にとっては、ちょっとした、遊び場に、なってしまっていた。

その頃は、公園や、広場などと言う、きちんとしたものは無く、車も、非常に少なかった為に、『道路』で遊んでいたり、ちょっとした『空き地』などで遊んでいた。

それか、『幼稚園』まで行って、そこで遊んでいた。

昔は、遊び場が、きちんと整備をされていなかったので、『幼稚園』や『小学校』は、そのグラウンドが、開放、とまではいかなかったが、ある程度は、遊ぶ事が、許されてはいた。

但し、怪我などについては、勿論、全部、自分持ちであった。

旧家の中を、次第に整理をしていったら、叔父に急に、呼び出された。

『いいか! これを、今からお前にやるけど、これは、俺達が、頑張って勝ち取った物だから、絶対に取られるなよ! 逆に頑張って、増やせ!』

と言われた。

一つは、柿の種の、空き缶に入っていた。

もうあとの二つは、焼き海苔の、平たい、金属の空き箱に入っていた。

『柿の種』の中身は、『メンコ』、であった。

それも、とてつもなく古くって、何だか良くは判らなかったが、灰色の、あまり程度の良くない厚紙の上に、絵を描いた薄い紙を、貼ってある様な物であった。

その絵は、その当時では、全く、通用しない様な『絵』ばかりであって、恥ずかしくて、使える様な物では無かった。

その頃はもう、ウルトラマンなどの写真が、プリントされている物ばかりであった。

その上、あまり使わなかった、『角メン』も、多量に入っていた。

ただ『角メン』は、殆どが、長嶋や王や、プロ野球選手の、物ばかりであった。

小学校には、『メンコ』は、持って行ってはいけなかったので、小学校で遊ぶとすれば、『牛乳メン』であった。

牛乳のビンの蓋を、平らにして、乾燥をさせるのである。

それで、小学校では、遊んでいた。

『焼き海苔』の平たい缶であるが、それは、片方は、『ビー玉』であった。

もう片方には、『ベーゴマ』が、わんさかと、詰っていた。

とにかく、父親や叔父達が、遊んでいた物の、遺物であった。

メンコや、ビー玉、ベーゴマなどは、その当時の、駄菓子屋さんにも、置いてはあった。

ただ、メンコは、直径が5cmぐらいの、50銭メン。

10cmぐらいの1円メン。

15cm程度の、2円メン。

それらが主体であった。

直径20cmぐらいの5円メンもあったが、それは、『煽り』と言う、戦いに、用いられていた。

メンコの遊びは、『嘘っ気』と言う、勝ても負けても、元の持ち主に返す方法と、『本気』と言う、勝ったら、そのメンコをそのまま貰えると言う、二通りの方法があった。

やり方は、『いき(いかす)』と言う、裏返しにすれば、勝ちと言う方法。

『箱出し』と言う、枠や、台の上から、相手のメンコを、はじき出す方法。

『煽り』と言って、大きいメンコで、小さいメンコを煽って、裏返しにしてしまう方法などがあった。

叔父がくれたメンコは、様々な細工がされていた。

メンコの裏側に、ろうそくのろうを垂らして、重くした物や、メンコを張り合わせて、厚くした物。

もっと酷いのは、鉄板を、挟み込んだものまであった。

それらは、『嘘メン』とか、『偽メン』とか、『いんちき』と言われ、使用が禁じられた。

私達は、大体が、『嘘っ気』であったが、『箱出し』は、結構、『本気』でも戦っていた。

みんなが、メンコが入った、それぞれの、お気に入りの『箱』を持って来る。

そこで、ご自慢のメンコを見せ合う。

それで欲しいメンコがあったりすると、1枚対5枚とかで、交換もした。

だけれども、それではつまらなかったので、相手の持っているメンコの中で、欲しい物を、お互いに指定する。

それを賭けて、10番勝負などをやっていた。

当時は、部落部落で、ルールも、随分と違っていたので、ルールをきちんと確認しないと、よく喧嘩が起こった。

大喧嘩になる事もあった。

だけれども、幸いな事に、私の家の、下の段の家には、器用で、様々な遊びを知っている、お爺さんが住んでいた。

そのお爺さんが、よくやって来てくれて、私達の面倒を、看ていてくれた。

だから、あまり大きな喧嘩は無かった様に思ったが、それでも、小さないざこざは、沢山、あった様に思った。

メンコは、とにかく、主流であった。

だけれども、そのお爺さんのお陰で、ベーゴマも、よくやった。

子供だけでは、とにかく、樽に、土俵を作れないのである。

布を、と言うか、キャンバス地の布を、きちんと、張れないのである。

それを、お爺さんが、作ってくれた。

それからビー玉。

これは、『当て球』だとか、『遠当て』とか、『野球』とか、そんな遊び方を、教えて貰った。

『当て球』は、自分と相手と陣地を作り、そこに、適当にビー玉を散らばせる。

自分の陣地内からビー玉を弾き、相手のビー玉に当たれば、ビー玉を貰えると言うもの。

『遠当て』は、ある程度の距離の所にビー玉を、幾つか出しておいて、それを遠くから、当てると言うもの。

ビー玉が弾けて、幾つかに当たれば、当たったビー玉が、みんな貰えると言うもの。

まぁとにかく、旧家の地面は、メンコにも、ビー玉にも、本当に良く、適していた。

てとても良く、聖地をされていたので、まず、石ころが無かった。

それに、竹箒で掃けば、直ぐに、綺麗な面が出て来る。

本当に、最高であった様に思った。

それ以外に、『釘刺し』の陣地取りもやったし、放棄で掃いて、溜まった砂で、棒倒しなどもやって、遊んでいた様に、思った。

そう言えば、妹達、女の子達も、よく遊びに来ていた。

ゴム跳びや、ゴムのテニスボールで、素手でやる、ハンドテニスなどもやっていた様に思った。

何せ、柿田川の辺にある、柿田川児童公園に続く道の、途中に有る、家である。

みんなが、気が付かない訳が無い。

一時期は、本当に多くの子供達が、遊びに、来ていた様に思った。

それに、下の段のお爺さんの所には、竹とんぼや、竹鉄砲や、弓矢や、凧や、そんな物の作り方を教わりにも、来ていた様であった。

そんな賑わいを見せていた場所であったが、何時の間にか、その場所も、結構知れ渡り、知らない者と言うか、あまり近所では、顔を見かけない者も、出没する様になっていた。

そ奴等は、『メンコ』が、滅法、強かった。

一人の場合もあれば、何人かで来る事もあったのであるが、とにかく、強かった。

ルールも守り、いんちきも、決してしなかった。

だけれども、少々、粗暴で、強引な所は、あった様に思った。

近所の小さい子達は、結構、餌食になっていた様であった。

私も、結構、やられていた。

だけれども、仕方が無かった。

本当に、強いと思った!

奴等は、『勝負師!』と呼ばれていた。

(しょうぶし?)

私は、その意味が、良くは解ってはいなかったが、メンコが強い者の事を、そう呼ぶのだと思っていた。

実際は、学年が、上の様であった。

それで、良い戦いの場があると、そこまで出掛けて行って、戦いを、挑んでいた様であった。

なんともはや、逞しい奴等が、いたものであった。

ただ、何となく、ではあるが、果たして、清水町内の子供で、あったのであろうか?

町内であれば、大体の人間が、柿田川で、顔を合わせている事になる。

だけれども、知らないと言う事であれば、町外か?

それとも、柿田川で、遊んでいなかった、子供達なのか?

ただ、何れにしても、とても逞しい『勝負師』達は、存在を、したのである。

それからもう一つ。

あの、一生懸命になって集めた『メンコ』・『ビー玉』・『ベーゴマ』の類。

一体全体、何処に行ってしまったのであろうか?

私が、この家を離れていた10年余り。

その間に、姿を消してしまった。

できればもう一度、お目に掛かりたいものである。

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