カテゴリー「住まい・インテリア」の13件の記事

2010年4月29日 (木)

『暑い? 暖かい?』(^^; (今現在)

昨日は、午後から天気が回復をしました。

そこまでは、本当に好かったのですが・・・。(^^;

久々に、太陽も顔を出してくれて、日差しも、本当に、爽やかに感じました。

やっぱり、春は、好いなぁ、と!

自然は、本当に有り難いものだと思ったのでした。

自宅の庭にある、躑躅や、皐月も、ここぞとばかりに、花を開かせて、本当に、五月らしく感じました。

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そう言えば、躑躅が、こんなに一挙に、花を咲かせたのは、久し振りに、観た様な気がしました。

父親が亡くなって、13年でしょうか。

自宅の庭の手入れは、誰も行っていなかったので、かなりの背丈になってしまいました。

ただ、三男の叔父が、たまに、庭の手入れに来てくれて、それで、多少は綺麗になっていたのですが、それでも、随分と伸びてしまったものです。

その叔父なのですが、最近、体調を崩しまして、

『もう、庭の手入れは無理だ。』

と、母親に、伝えて来た様でありました。

仕方の無い事であります。

みんな、歳を取ってしまうのです。

それは、平等なのだから、仕方の無い事です。

逆に、今まで、庭の手入れをしていてくれた、叔父には、相当、感謝をしなければ行けない様にも感じます。

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昨日は、早朝に、『きゃさりん副長。』と、『IPPEI副長』が、ボーイスカウト日本連盟 那須野営場に、風雨の強い中を、出掛けて行きました。

『ウッドバッジ実修所 ベンチャースカウト課程 第19期』

に、参加をするためでした。

その早朝の様子からは、、天気が回復するなどとは、とても想像ができませんでした。

雨は多く、風もあって、これでは那須も、相当、酷いのではないのかと思っていました。

案の定、那須塩原駅に到着しました『IPPEI副長』からは、電話連絡で、

『降っています! 結構、降っています!』

との、情報を貰いました。

実修所の入所日に、雨に降られてしまうのは、精神的にも、体力的にも、相当な、ダメージを受けてしまいます。

果たして、大丈夫なのか?

とも思っていましたが、どうやら、天は、彼等に味方をした様でありました。

この天候ならば、那須にもきっと、五月晴れが訪れる事でしょう!

那須の青空は、とっても素敵です。

本当に、透き通った様な青空が、一杯に広がります。

また、那須野営場内で、木々の梢の間から望むことができる青空は、本当に、ほっとする、安心感も与えてくれます。

この好天が、ゴールデンウィークの、最終日まで、続いてくれる事を、祈りたいものです。

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ところで、私の方ですが、暖かいのか?

それとも、暑いのか?

さっぱり、見当が付きません。

とにかく、体温調整ができないのと、気温の変化に、全く、対応ができていません。

昨晩も、布団を掛ければ暑いし、掛けなければ、寒く感じるし、かと言って、座ってテレビを観ていれば、暑くも寒くも何とも無い。

とにかく、気温を、肌で感じられなくなってしまっています。

その昔、ボーイスカウト駿東地区には、班長・次長になるための、『幹部訓練』と言う、スカウトのための集合訓練がありました。

3月の、とても寒い時期に、長泉町の桃沢で行われていました。

とても寒かったので、私は、『寒部訓練』だと、信じ切っていました。(^^;

その時に、地区コミッショナーから言われた言葉は、

『気温を、肌で感じろ!』

でした。

また、陸上自衛隊少年工科学校にいた時にも、

『温度を、肌で感じるんだ! 野外の射撃では、気温・湿度・風向きなどが、全て、影響をして来る!』

そんな事を、区隊長や助教に、言われていた覚えがあります。

また、ボーイスカウトの指導者訓練コースであります、『研修所』や、『実修所』に参加をした時などには、『班報告書』の記載内容に、『気温』・『湿度』、と言う項目がありました。

そんな事、判る訳が無いだろうと思い、空欄で提出をしますと、

『肌で、体で感じて、書き込んで下さい。』

と、言われていました。

今考えてみますと、『大自然』と言う環境は、どうにも変える事ができないと言う、その様な、教えであったのかも知れません。

元々から、人間は、大自然の一部なのである。

計測器(温度計)などに頼る事無く、自らが自然の一部となり、溶け込み、感じろ!

と言う事であったのかも知れません。

そう言う点では、感性を磨く。

感覚を、研ぎ澄ます。

と言う事に、通じていたのかも知れません。

私は、かなりの割り合いで、気温や湿度を、当てる事ができました。

とは言え、そんな事は、常々考えている人は少ないのでしょうから、気にも留めないでしょうが、それが、意外と当たるものなのです。

人間は、その様な感覚を、どなたも、持ち合わせている様です。

ですので、少し、気持ちを落ち着かせて、心を緩やかにすれば、『体感』は、しっかりと働いてくれる様であります。

とは言え、身体障害者には、とても厳しい、気温の変化であります。

『体感』。

何とか、戻って欲しい、体の機能の一つでもあります。(^^;

(読み切り、です。)

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2010年3月19日 (金)

『プロジェクト報告書!』(^o^)/ (今現在)

リトアニアに、『国際ソロプチミスト』の皆様に随行して、と言うか、正確には、お婆様にくっ付いて行ってしまった女子スカウトですが、『プロジェクト報告書』で、大苦戦をしております。

実際に、リトアニアに行って来たのは、昨年のことでありました。

膨大な資料を、持ち帰って来たのですが、また、多くの写真も撮影をして来たのでありますが、なかなか、報告書をまとめる糸口が見付かりません。

実際、海外へ頻繁に出掛けられる人が、身近にいれば良いのですが、そうすれば、その方にご相談をしてみるなど、何か方法があるのでしょうけれども、やはり、なかなか、見付からないものです。

それに、『リトアニア』となりますと、尚更のことであります。

と言う事で、ここは、致し方ありません。

実際に、訪問をして来たのは、女子スカウトですので、彼女から、ヒアリングをすると共に、その膨大な資料の山を、一つずつ確認をして、報告書を作成するしか無いのでしょう。

やはり、『楽』を、狙ってはいけないと言う事なのだと思います。

しっかりと、自分の行なって来た事を確認する。

そこから、必要事項を抽出して、纏め上げて行く。

それが、プロジェクトと言う、ものなのでしょう。(^^;

と言う事で、資料の山を、崩し始めました。

当初、目標に掲げていた事項を再確認し、その目標に対しての、『実施・展開』事項を、拾い上げます。

それは、スカウト本人が、記録を、しっかりと残っていましたので、とても良かったし、大変、助かりました。

それは、高評価です!

あとは、その『実施・展開』事項について、自らが、『評価・反省』を加え、そして、必要な資料・写真を添付すれば、大体の形は、作り上げられると思います。

そこまでの確認ができたところで、イントロダクションとして、『国際ソロプチミスト』の内容を、外す訳にはいきません。

従いまして、当初、報告書の中には、『国際ソロプチミスト』については、触れる予定がありませんでしたが、それを早速、書き加えてもらいました。

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これは、かなりの作業でした。

報告書は、その報告書を初めて見る人でも、全く判らない人でも、ある程度、理解して頂く必要があります。

自分や、隊指導者が見て、それで理解ができて、満足をすれば良いと言うものではありません。

要は、第三者が見ても、ある程度は、理解できる様に、仕上げなければなりません。

単純に、書き写すだけなら、誰だって、できる訳です。

そこを、工夫して、作成していくと言うのが、報告書の姿です。

『プロジェクト企画・計画・報告書』には、一応、定まった様式があります。

ですが、他の方々に理解を求めるためには、とてもではないですが、その様式内には、収まりきるものではありません。

とにかく、ひたすら書いて行くしか、方法が無いのです。

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このスカウトは、結構な、根性の持ち主の様です。

かなり粘って、報告書の書き込みをしていました、

実際、メモを取っておくと言うのは、本当に、重要な事であったようです。

また、膨大な資料も、役に立ったようです。

『リトアニア』に行って来ましてから、かなりの時間が、経過をしていました。

ですが、メモを見て、資料を確認しますと、人間と言うものは不思議なもので、扉が開かれたかの様に、記憶が、戻って来る様であります。

それと、集中力も、かなりのものの様です。

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隣と言いましょうか、直ぐ近くで、『IPPEI副長』と、もう一人のスカウトが、盛んに話をしておりました。

その、雑音と言うのか、話し合いの声も、耳には入っていたのでしょうが、集中力は、切らさないでいたようです。

まぁ、大したものです。

私だったら、あんなには、続かなかったと思います。

それから、上の写真の、スカウトの右脇には、分厚いファイルがあります。

それが、全資料です。

かなり、多いですね。

私は、とてもではありませんが、太刀打ちできそうにもありませんでした。

しかしながら、それでは、絶対的に、まずい、ので、

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私も、できるだけ、資料に眼を通してはみたのですが、『国際ソロプチミスト』から始まって、『バルト3国』のことや、その歴史。

また、『リトアニア』の、首都『ビリニュス』が、世界遺産になっていること。

また、『命のビザ』の、『杉原 千畝』の事など、多くの事が、次から次へと出て参りまして、とても頭の中に納める事は、できずにいました。

とにかく、『国際文化』・『国際理解』と言うものは、しっかりと学習をしないといけないと言う事を、痛感させられたと思いました。

その国を、正しく理解する。

その事が、どんなにか、大変な事か!

一つの方向から見ているだけでは、決して、真実は得られません。

あらゆる方向から見てみないと、解らない事は、沢山あると思います。

また、実際に、その土地に、足を運んでみないと、理解し得ないものもあると思いました。

ただ、私の理解力には、限界があったようです。

とにかく、はっきりと言って、難しい!

どの様にまとめて行ったら良いのやら、非常に、発想が、乏しかったようです。

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流石のスカウトも、相当、バテて来た様でありました。

私の方も、頭の中が、膿んで来る様な感じになってしまいましたので、とりあえず、ある程度の目処が付いた所で、一段落としました。

それにしても、ボーイスカウトは全世界共通とは言われますが、それは、ボーイスカウト、すなわち、スカウティングを通して観ると言う事であって、スカウティングと言う、眼鏡を外しますと、本当に、何も見えなくなってしまいます。

その国の実情、その国の実際。

それらについては、眼鏡を掛けて観てはいけない、と言う事なのだと思いました。

確かに今回は、『国際ソロプチミスト』と言う組織を通じての活動だったとは思いますが、それでもなかなか、アプローチが、難しいと感じました。

スカウティングであれば、親善訪問の仕方や、交歓会などの方法は、ある程度、決まったものがあります。

また、接待や応対も、懇切丁寧に行なってくれます。

ですがそれは、大きな弊害も産んでしまいます。

『良い所だけしか、見えない、見せない。』

と言う事です。

今回、彼女は、世界遺産である、『ビリニュス旧市街』の中でも、『落書き』があったと言っていました。

随分と、マイナスの部分も見て来たようです。

その様な、真実と言いましょうか、事実も確認できて来た事は、良かったのかも知れません。

さてさて、それらを、どうやってまとめて行くのか?

指導者の、手腕も問われるところであります!(^^;

(つづく・・・。)

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2010年3月 7日 (日)

『借家?』(^^; (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅤ)

私達の、格好の遊び場所と化していた、旧家の、広くなっていた庭も、何時までも、そのままで、と言う訳にはいかなかった。

ある日のこと、多量の木材が、運ばれて来た。

それらが、どんどんと、組立てられていった。

それが、家の形になってしまうのには、本当に、時間が、掛からなかった。

本当に、あっと言う間の、出来事であった様に思った。

今まで、納屋が有った場所に、それぞれ1軒ずつ。

また、お餅でも撒くのかなと思っていたが、全く、違っていた。

お餅などは、撒かず、何もしなかった。

それでも、とにかく、ちゃんと人が住む、家だと言う。

こんなにも簡単に、家が建てられるものなのかと、それに、こんなにも小さくて、良いものかと思っていたが、その2軒の家の住人は、もう既に決まっていた。

建てられた2軒のうち、西側に建てられた家には、三女の叔母夫婦が、入る事になっていた。

もう一軒は、下の段のお爺さんの、戦跡筋が、入る事に、なっていた。

何と!

何と早い、話であった事だろうか?

本当に、話が、とんとん拍子で、進んでいた。

尤も、私如きに、話をしても、何も始まらないのであるのだが。

実は私は、少々、嫌であった。

何れ、私達は、ここから、新築の家に引っ越す。

とは言え、またあの叔母に、会うのである。

卵を独り占めされ、ラーメンもろくに分け与えてくれなかった、あの叔母が、再び、戻って来ると言うのである。

幾らなんでも、それは無いだろうと、本当に、心が痛かった。

また、あの叔母が帰って来る。

それだけでもう、日々、憂鬱であった。

一体全体、何時になったら、新しい家に、行けるのであろうか?

それと、何時になったらあの叔母と、縁が切れるのであろうか?

そんな場かな事ばかり、考えていた。

そうこうしているうちに、東側の家に、先に、とある一家が引っ越して来てしまった。

それは本当に、あっと言う間であった。

親子4人。

女の子と、男の子であった。

女の子は、私より、一つ下であった。

男の子は、上の妹より一つ下。

私達兄妹の間に、すっぽり入ってしまう、年齢であった。

私は、何となく、ウキウキしていた。

まるで、兄妹が増えたかの様で、これでまた、しっかりと遊べると、そう、思っていた。

それに、男の子である。

その子を連れて、柿田川に行ったり、木登りをしたり、色々な遊びができそうに思えた。

とても楽しみに思っていた。

女の子も、可愛らしくって、仲良くなれそうに、そう思っていた。

だけれども、現実は違っていた。

何かが違っていた。

どうしてなのか、ちっとも、歯車が、合わなかった。

その二人の子供達は、どうしてか、何故か、遠慮がちと言うのだろうか?

私達兄妹を避けていた。

それに、お父さんにしてもお母さんにしても、何となくではあるが、私達兄妹にでさえ、やたらと、丁寧な言葉を使っていた。

私は、本当に、不思議に思っていた。

折角、お隣同士で、仲良く遊べるのにと思っていたのであったのであるが、どうにも、残念でならなかった。

そんな事を思っている内に、今度は、三女の叔母夫婦が、やって来てしまった。

私は、この世の終わりだと、そんな風にさえ、思ってしまっていた。

ところが今度は、こちらの状況も、全く、違ったのであった。

叔母が、随分と、大人しいのである。

あんなに口煩くって、本当に、煩わしいと思っていた叔母が、若干ではあるが、静かになっていたのである。

それに、こちらの母屋にも、あまり、出入りをしない。

どうしてなんだろうと、本当に、不思議に思っていた。

それに、叔母の旦那様は、とても温厚な方で、言葉遣いも丁寧で、とっても優しかった。

私は、全ての予想が外れ、何だか、不思議な気分で一杯であった。

叔母の旦那様は、休みの日になると、よく、私を誘ってくれた。

『こっちに遊びにおいで。』

と。

それで、野球を一緒に観たり、トランプや、花札などを教えてくれた。

そうして、一緒に、遊んでいてくれた。

妹達も、呼んでくれた。

それでみんなで、遊んだりもした。

不思議な事に叔母は、妹達に、一度もした事が無かった塗り絵の方法や、折り紙なども教えていた。

人がこんなにも変わるものかと、随分と、不思議に思っていた。

一方、東側の家の兄妹は、外に出て、遊ぶ事が、少なかった様に思った。

だけれども、家の玄関の前には、その男の子のおもちゃが、沢山、散乱していた。

当時としては、大変高価だったと思ったが、GIジョーの人形や、ジープや、その類のおもちゃが、片付けられもせずに、玄関前に、転がっていたのである。

女の子は、特に、体が弱いと言う訳でもなく、きちんと、小学校にも行くし、ただ、口数は、少なかった様に思った。

母親に、その兄妹の事を、少し、聞いてみた。

すると母親は、

『転校が、多いみたいだからねぇ。』

とだけ、言っていた。

私は、

(そうか。転校生か。)

と、一人合点をしていたが、やっぱり、どうしても、納得が行かないでいた。

小学校でも、確かに、転校生は、とても多かったと思った。

だけれども、大体が、仲良くなっていっていた。

私はまたまた、

(そうか! 学年が違うからなんだ!)

と、勝手に思っていた。

とにかく、私の予想は、全く、逆であった。

東側の子供達とは、仲良くできて、西側の叔母夫婦とは、上手く行きそうにも無い!

それが全くの、真逆であったのである。

まぁ、仕方が無い。

そんな想像しか、できないのであるから、仕方の無い、話なのである。

ある日、祖母も外出してしまって、誰もいない時に、東側の家のお母さんが、茶色い封筒を持ってやって来た。

誰も居ない事を告げると、出直して来ると言った。

でも、直ぐそこなのに、何だろうと思っていた。

祖母が帰って来たので、その事を告げると、

『帰って来たと、言いに行っておいで!』

と言う。

私は、そのお母さんを、迎えに行って来た。

そると祖母は、私を、家の奥に追い遣った。

それでも声は、聞こえて来るものである。

『○○分の家賃を・・・。』

(やちん? やちんって何だぁ?)

その夜、またまた、母親に聞いてみた。

『そりゃぁ、借家だからねぇ。家賃は、貰わないとね。』

(しゃくや?)

とにかく、不思議な言葉に、包まれてしまっていた。

『叔母さんの所からも、貰っているんだよ。』

私は、この時になって、初めて、

(家を貸している。それが借家であって、それで、お金を払うんだ。)

と、やっとではあるが、何となく、理解をしたのであった。

それにしても、牛舎であったり、納屋の跡に建てたりした家に、住まわなければならないなんてと思っていたが、

『どっちも、新しい家を建てるまでだからね。うちと同じだよ。』

と、母親は、言っていた。

『うちと同じ。』

ただ、この言葉の奥底には、もっと複雑な、深い意味があった。

実は、その母屋が建っている場所も、長屋が建っている場所も、そのまた、借家が建っている場所も、全て、『借地』であったのである。

要は、自分達が持っている土地で、田畑に使える所は、全て田畑に使い、他の人の持っている土地で、とても田畑に使えなさそうな所を借りる。

そうしてそこに、家を建てて、住まう。

何とも、物凄い、目論見であった。

要は、『借地』をして、家を長屋を納屋を牛舎を、建てていたのであった。

母親が言いたかったのは、

『借家を持って、それを貸して、いくら家賃を貰っていても、自分の家が、借地であれば、当然、賃借料を支払う訳で、どちらも、同じ事。どちらも、同じ立場!』

その様な事を、言いたかったのであろう。

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2010年3月 4日 (木)

『泉御殿? 成金御殿?』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅡ)

新築の家は、その全貌が、段々と、見え始めていた。

瓦を、やたらと多く使った、本当に、日本家屋の代表的な様な、形をしていた。

その周囲には、目立った家屋は、あまり無かった。

その上、二階建ての家も少なく、とても目立つ、建物になってしまっていた。

私は、随分と、恥ずかしく思っていた。

その家を、良く言ってくれる方々は、『泉御殿』と呼んだ。

逆に、あまり良く思わなかった人々は、『成金御殿』と呼んだ。

その家の東側には、祖父の温室と畑しかなかった。

南側には、魚安と言う魚屋さんと、工場ぐらいしかなく、これは、遠目に見ても、良く目立った。

西側は、諸に、拓けていた。

田んぼが、ずうっと続き、国立病院まで、これと言った、建物は無かった。

北側には、住宅があったが、2階建ての建物も無く、とにかく、四方八方から、本当に、目立つ建物になってしまっていた。

まぁ、一つの、目印の様な建物になってしまっていたが、やはり、何となくではあるのだが、私自身にとっては、『成金御殿』の様な気がしてならなかった。

それでも、祖父や祖母にとっては、自慢の家だったのだろう。

小学校3年生の、秋ぐらいには、ほぼ、出来上がっていたであろうか?

だけれどもその家には、直ぐには、入居をする事ができなかった。

内装の、問題である。

その頃の家の内装は、その様になっていたのかは、よくは判らない。

漆喰であったりとか、壁紙が貼られていたりとか、その様な感じであったのだろうか?

ところが、その新築の家には、新しい、内装材が、使われていた。

とにかく壁に、新しい内装材を、接着剤で、くっ付ける、と言う物であった。

それが、なかなか、乾燥をしないでいた様であった。

それにその接着剤が、どうやら、体には、良くなかったらしい。

それで、その接着剤が、安定をするまで。

そして、その接着剤が、人体に影響を及ぼさない様になるまでは、入居ができなかったのであった。

新しい家は、建っている。

だけれども、何時まで経っても、住人は入居をしない。

周囲の人々は、随分と、不思議に思ったらしい。

それ以上に、私達兄妹も、不思議に、思ったものであった。

新しい家があるのに入る事ができない。

それは子供にとっては、本当に、不可思議でならなかった。

周囲の人々の、悪い噂は、増々、色々と、広がって行った。

『見せびらかしている。』

とか、

『何処かに、欠陥がある。』

とか、

様々な、憶測を呼んでいった。

最後には、

『お金が足りなくって、家を引き渡して貰えない。』

などと言う、話までになって行った。

まぁ、それはそれで、随分と、面白かったのでは、無かろうか?

結構、周囲の人々を、楽しませたのでは無かろうか?

それにしてもその家は、遠くから本当に良く見えた。

秋の夕日に映えて、良く見えたものであった。

友達の家に遊びに行っても、よく話題になった。

だが実際には、家の内部の事は、良く知らなかったのである。

『中はどうなっている?』

とか、

『部屋は幾つある?』

と聞かれても、応え様が無かった。

何せ、家の中には、入っていないのである。

家の中が、どの様になっているのかなんて、全く判らずにいた。

今思うと、本当に、おかしな話である。

家の西側の田んぼは、長沢部落と言った。

その長沢の、広大な田んぼは、稲刈りが終ると、私達の、特大の遊び場となっていた。

稲叢を、次から次へと渡り歩き、よく荒らしたものである。

その都度、追い掛け回され、とことん、お仕置きを食らったものであった。

時に、何をすると言う訳でも無かったが、稲叢の周囲は、とにかく暖かい。

秋の日は、つるべ落としと言うが、日が翳ってくると、急に冷え込んでくる。

そんな時でも、稲叢の周囲に居れば、それはそれで、暖かく、何とか過ごせたものであった。

今考えてみても、何をして遊んでいたのかと思うと、ろくに思い出せはしない。

ただただ、走り回って、いただけであったのかも知れない。

遊び飽きて、そして、また日が翳って、家に戻ろうとする時に、新しい家を、よく観ていた。

だけれども、実際に戻るのは、その家では無かった。

坂の下の、坂の途中にある、旧家の方であった。

確かに、新しい家は、光っていた。

西日を浴びて、眩いばかりに光っていた。

その姿を観れば、確かに、その当時としては、『御殿』にも、見えたかも知れない。

柿田川の、泉水源地の直ぐ脇に立つ『御殿』。

だからなのだろう。

それで皆さんが、『泉御殿』と、呼んでくれたのであろう。

だけれども私にとっては、その『御殿』に戻る訳でもないし、その家の、中身さえ知らない。

まるで、他人事の様であった。

確かに、遠くからよく目立つ、建物ではあった。

だけれども、私にとっては、自分の家とは、自分の家だとは、到底、思えずにいたのであった。

だからなのかも知れない。

『成金御殿』と言われても、何とも思わなかった。

そして、引越しをして、入居するまでには、相当な時間が掛かったと思った。

その間の時間が、その長い間の時間が、私にとっては、新しい家に対しての、愛着を、生じさせなかったのかも知れない。

今は、この家の周りには、とても多くの建物が立ち並び、また、高い建物も多くでき、この家は、何処からも、勿論、四方八方から見ても、何も目立つ事は、何もない。

大きな建物の陰に隠れてしまって、とても、『御殿』などとは、呼べる代物ではない。

『土地成金』も、『成金御殿』も、そして、『泉御殿』も、時代の流れと共に、消え去ってしまった。

やっとかな?

きっと、やっと、だろう。

祖父達が、作った、作り上げてしまった虚像から、今は、やっと開放をされた気分である。

本当に、やっと、開放をされた、そんな気持ちである。

ただ、本当に、疲れた。

金持ちでもなく、貧乏な家なのに、虚像を作り、虚勢を張っていなければならなかった。

それが、本当に辛く、とてつもなく、嫌であった。

この家には、あまり、楽しい思い出は、残ってはいない。

逆に、嫌な思い出の方が、多いかも知れない。

それが私を、自衛官への道へと進ませる、一つの要因になった事は、間違いが無い!

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2010年3月 3日 (水)

『どうぶつ、たち。』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅠ)

新しい家の、大騒ぎの建て前が終ってから、古い家の方では、ボチボチと、変化が出始めていた。

まずは、庭の東側にあった、牛小屋を改良して使っていた、納屋が、壊されてしまった。

と、同時に、その中で飼っていた、山羊が、居なくなってしまった。

山羊は、虚弱の私のために、母親が、農家仲間から、譲り受けてきたものであったが、その姿が無くなってしまった。

小学校から、戻って来た時であった。

流石に、餌を与えたり、面倒を、多少は看ていたのであるから、それは寂しいものであった。

母親に聞くと、山羊は、新しい家には、連れて行けないと言う。

仕方の無い事であった。

ただそこで、驚いてしまったのが、その納屋の建てられていた場所であった。

無くなってしまった建物の跡を見てみると、そこは、崖、ギリギリに、建てられていた。

崖に近付いてみてみると、軽く、5m以上はあったであろうか?

そんな場所に、どうやって建物を建てたのであろうか?

いくら高い所が好きだからといても、その時は、本当に、恐ろしく思えた。

西側の納屋は、未だ残ってはいたが、そこも様子が、変わっていた。

納屋の前には、様々な動物を入れてあった籠が置かれていたが、その数も、減っていた。

うさぎやアヒル。

ガチョウもいたであろうか?

それに数々の鳥達。

叔父や叔母が、面倒を看ていた動物達である。

まずは、鳥達が、姿を消して行った。

行き先は、解らなかった。

そして最後に残ったうさぎ達。

それも何処かに、消えてしまった。

不思議なものである。

実は私は、その動物達には、あまり愛着は無かった。

とにかく、面倒を看るのが、本当に、面倒臭かったのである。

それに、イタチやテン。

ハクビシンもいたであろうか?

それらに襲われてしまう事もあったし、それを守るために、一々、板で覆ったり、納屋の中にしまったり、とても面倒であったのである。

それに、籠の掃除もしなければならなかったし、一時期は、

(こんなもの。みんな死んでしまえばいいんだ!)

ぐらいに、思っていた時もあった。

それが、いざいなくなってみると、とても物悲しいのである。

本当に、不思議であった。

十姉妹とか、インコもいたであろうか?

とても煩かった。

だけれども、いなくなってしまうと、淋しいと思ってしまうのは、どうしてなのだろうか?

ただ、流石に、鶏だけは、そのまま、残されていた。

それらの小動物がいなくなった後、西側の納屋も、取り壊された。

すると今度は、大きな壁が、現れた。

それも5mぐらいの高さがあったであろうか?

その壁には、やたらと、筋が入っていた。

その旧家を、その家を建てる時に、どの位の労力を要したのであろうか?

要は、斜面になっている部分を、ひたすら削って平らにし、そこに家を建てたと言う事である。

そこまでして、家を建てなければならなかったと言うのは、少しでも、耕地面積を増やす為に、平らな所には、一切、家を建てなかった、と言う事であろう。

それにしても庭は、とてつもなく、広く、なってしまった。

バレーボールのコートが一面、入る位の広さが、出来上がってしまった。

それから暫くして、今度は、大きなトラックが、家の中に、入って来る様になった。

一体全体、何をするのかと思っていたら、庭の西側に、植えてあった木々を、移し変える、作業であった。

家の西側には、大きな木が、多くあった。

その木々が、強烈な、季節風の西風を、防いでいてくれた。

その木々を、新しい家の方に、移し変えると言う事であった。

それで、その為に、広い場所が必要だったのと、納屋が、邪魔であったのだった。

それに、その納屋にいた、動物達も、同時に邪魔に、なってしまったのである。

ただ、あの動物達。

どう考えても、新しい家の方には、居場所は無かった様に思った。

だけれども、何処に連れられていかれたのであろうか?

一番、可愛がっていたのは、父親であった。

父親は、私達には、とてつもなく、厳しく当たったが、動物達には、本当に優しかった。

動物に対する笑顔は、満面の笑みであったが、その様な笑みは、私達には、見せた事が無かったのである。

全く、理不尽なものであった。

庭の木は、次々と、移し変えられていった。

まずは、一番高かった、槙の木から、運ばれて行った。

ただ、相当、根が張っていたようで、とても大変な作業であった様である。

次に、ヒバ。

それから、松。

段々と、座敷の南側が、明るくなっていってしまった。

こんなにも、明るかったのかと想うほどに、太陽の日差しが、厳しかった。

考えてみれば、座敷の南側は、ジャングルに近かった。

そこが、納屋が壊され、高木が無くなって行けば、当然、光はどんどんと、差し込んで来る。

当然の、結果である。

でもそうなると、不思議なもので、その庭にも、座敷にも、愛着が湧いて来るのである。

ここを、この家を離れるのかと思うと、何となく、物悲しくなったものである。

それはそうと、あとは、梅の木。

それから、南天や、つつじ。

百日紅も、あっただろうか?

とにかく、家の南側の木は、ことごとく、運ばれて行った。

但し、杉と、檜は、残されてしまった。

その他にも、一旦は、移植の準備はされたが、そぐわないと言う事で、処分をされてしまった物も、あった様であった。

ただ、私が、とっても気になっていたのは、家の南側の木ではなくて、北側の、家の裏の、木達であった。

ニッキもあったし、枇杷もあった。

桃だって、夏みかんだって、柿だってあった。

ところが、それらには、一切、手出しがされなかった。

とにかく、何もされないでいた。

私は、本当に不思議になって、祖父に聞いてみた。

『出せないんだよ。裏から木は、出す事ができないんだよ。持って行けない。』

そうなのであった。

木々が、あまりにも大きくなり過ぎて、運び出せないのである。

それに、作業をするのにも、あまりにも狭過ぎた。

人が、3人も入れば、一杯になってしまう。

とにかく、裏の木は、諦めざるを得なかった。

祖父は言っていた。

『接ぎ木か何かを、試してみるから。』

しかしながらそれは、叶わなかった。

旧家の庭が、すっかり綺麗になった所で、庭にあった、『池』の全容が、顕わになった。

こんなにも大きな池だったのか!

それが、まず、最初に思った事であった。

池は、東西に、二つに分かれていた。

池の中央には、人も渡れる、石橋まで付いていた。

それまでは、東側と言うか、半分と言うのか、池のその片割れしか、確認をしていなかったのである。

何と言う事であろうか。

随分と、皮肉なものである。

この家を去ろうとした時に、その真相が、見えて来るとは。

本当に、何とも言えない、郷愁感にも包まれてしまった。

その『池』であるが、新しい家には、『池』は、作らないと言う。

と言うか、新築をする場合には、『池』は、作らないのだそうである。

その理由は、定かではないが、祖父も父親も、口を揃えて、言っていた。

旧家の『池』には、鯉や鮒などなど、かなりの魚が棲息をしていた。

それをどうするのかと思っていたら、四男の叔父が、

『明日、池ざらいをするぞ。』

と、言って来た。

池ざらい?

何だろうと思っていたが、池を、空っぽにすると言う。

とにかく、池の水を、全部、さらってしまうとの事であった。

池ざらいには、私達兄妹が、狩り出された。

家にありったけの、たらいや、バケツ。

柄杓に、空き缶。

などなどを持って来て、池ざらいは、始まった。

叔父の話によれば、

『水をかい出せば、後は、魚は、手掴みで取れる。』

との事であったが、とんでもない話であった。

手掴みなんかで、捕獲できる代物では無かった!

鯉の大きい奴なんて、50cm位もあり、とてもではないが、子供の手に、負えるものでは無かった。

それに鮒だって、ゆうに20cmぐらいはあった。

『何だぁ、こいつら。何時の間にか、こんなにでかくなりやがってよ!』

叔父はそう言っていたが、とにかく、手掴みは、到底、無理であった。

その為、たもを持って来て、それで何とか、たらいに移す事ができた。

本当に、悪戦苦闘の連続であった。

作業をしている途中で、突然、叔父の手が止まった。

何をしているのかと、その視線の方向を観てみたら、何と!『亀』、である。

『かめ』が二匹、体を寄せ合う様にして、じっとして板のであった。

叔父は、亀を見つめながら、

『ひょっとしてこれは、おらが、買ってきた奴か?』

『大社のお祭りで、買って来た、あの、亀か?』

そう、呟き続けていた。

叔父は、

『亀はちょっと、そのままにしておこう。』

と、言っていた。

私達は、リヤカーを持って来た。

それに、魚達が入っている、たらいや、バケツを積み込み、川端へと、向かった。

そこで叔父が、魚達を、柿田川の支流に、離していった。

私は、柿田川の水温は低いし、本当に、大丈夫なのかと、怪訝に思っていたが、叔父は、

『大丈夫さ。ちゃんと、生きて行くさ。あのまま、池の中にいたって、死んじゃうだけだから、この方が、良いのさ。』

と、言っていた。

家に戻ってきて、バケツやたらいを、片付けていた。

でも、今度は、どうしても『亀』が、気になって仕方が無かった。

そこで『池』に行ってみると、そこにはもう、『亀』の姿は無かった。

叔父に聞いてみると、

『あいつらは、自分で生きて行くさ。自分で、生きる場所を、探せるさ。』

と言っていた。

本当に、大丈夫なのであろうか?

叔父は、そんな風に、簡単に言い切っていたが、本当に『亀』達は、大丈夫だったのであろうか?

私は、未だ持って、『亀』達がどうなったのか、気になって、仕方が無い。

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2010年3月 2日 (火)

『土地成金!』(>_<)! (小学校3年生 ⅩⅩⅩ)

新しい家が建て始められ、建て前も終わり、段々と、その全貌が、見え始めた頃であった。

小学校に行くと、クラスのみんなから、

『土地成金! 土地成金!』

と、からかわれ始めた。

誰が言い出したかなどは、全く、解らない。

とにかく、何時の間にか、その様な、『あだ名』になってしまっていた。

川口先生は、必死になって、私を庇ってくれた。

『その様な言葉を、使っては駄目!』

と、クラスの、みんなには言ってはくれたが、それは全く、効き目が無かった。

私は、全く、意味が解らないでいた。

とにかく、まず、『土地成金』の意味が解らなかった。

『土地』は、よい。

それは、解った。

だけれども、『なりきん』が、解らなかったのである。

まぁ、聞こうと思えば聞けたのであろう。

それに、調べようと思えば、それなりに調べる事も、できたであろう。

だけれども、特にその様な事は、私には、興味も無く、必要も無かった。

悪口を言われ、卑下される事には、随分と、慣れっこになってしまっていた。

祖父は、この頃、役場で収入役を、仰せつかっていた。

役場には、随分と、長いこと、勤めた様であった。

何せ、ちびで、虚弱体質である。

兵役には付くことができず、生き残ったのである。

軽く、45年以上は、勤め上げたのでは、無かろうか?

そうしてその結果、収入役と言う、立場が、回って来たのであろう。

祖父はどちらかと言うと、野心家では無い。

それに、欲も何も、無かった様に思った。

怒りもせず、騒ぎもせず、静かに暮らす事を、好んだようである。

決まった時間に出勤し、決まった時間に帰って来る。

私の沸かした風呂に、一番に入り、家の周りで採れた果実で作った果実酒や日本酒で晩酌をし、静かにテレビを眺め、眠くなれば2階に上がり、就寝をしてしまう。

とても野心家などには、見えなかった。

ただ、困った事が、起こってしまったのである。

それは、国道1号線の、バイパスの延長工事の問題であった。

当時、国道1号線のバイパスは、三島市の川原が谷付近から、清水町八幡の、新道、旧道が、交わる交差点付近まで、造られていた。

それを今度は、沼津市内を大きく迂回するバイパスを、建設する事になった様であった。

また、東名高速道路との接続も考え、バイパスは、北向きに大きく方向を変え、造られる事に、なっていた様だった。

実はその通り道に、その、建設予定道路が通過する所に、私の家の、里山があった。

住所は、伏見になる。

八幡に住んでいるくせに、伏見に、里山を持っていたのである。

ただ、里山と言っても、『山』ではない。

はっきり言って、『崖』である。

西側に向いた斜面で、とても畑などには、使える場所では無かった。

そこに、コナラや、クヌギを植え、その落ち葉を、堆肥として、使っていたのである。

また、クヌギは、しいたけを作るのに、とても好ましい原木となる。

だから、手入れは、欠かさずに行われていた。

そして、里山が無くなると言うことは、農家にとっては、とても厳しいものでもあった。

逆に、そんな斜面である。

道路を建設する側にとっては、平地でも無いし、田畑にはできないし、ましてや住宅地でもないし、買収をするに当たっては、当然、目を付けて来るであろう。

狙われても、仕方の無い場所だったのかも知れない。

それに折りしも、『田中 角栄』首相の時代である。

『日本列島改造論』を打ち出し、道路建設が、とても多く、行われていた時代であった。

一種、道路や鉄道の、建設ラッシュの時代であったかも知れない。

祖父は、それに、便乗をした訳では無かった。

逆に、父親は、土地を手放したくは、無かった様であった。

父親は、一度手放してしまったら、二度とは、戻って来ない。

そして、里山は、一度荒らしてしまったら、元通りにするのには、世代で、何代も掛かってしまうと言う事を知っていた。

だから、相当、嫌がったと言う。

どうするのか?

ただひたすらに、拒むのか?

その苦悩は、かなりの間、続いた様であった。

ただ、祖父の立場は、違っていた。

役場の収入役である。

それにその里山は、バイパスが高架されて、新道を越え、その着地点に当たる所にあった。

要は、バイパスを新しく建設するに当たって、一番最初に、買収をしなければならない、急所の土地であった。

その土地が買収できれば、後は、芋づる式にと、その様な、流れであった様だった。

祖父は晩年、

『仕方が無かったんだよ。』

と、言っていた。

祖父が拒めば、みんなが拒む。

祖父が了承をすれば、みんなが認める。

そんな、ご時勢であった様である。

結局、言い方は、とても格好が良いのであるが、

『国道建設に、協力する。』

と言う名目で、その里山を、手放してしまった様であった。

父親は、何処かに、代わりになる様な、山林を求めたらしい。

だけれども、本当にちっぽけな清水町である。

その、代わりの森林などは、何処にも、見付ける事などは、できなかったのである。

その結果、父親は、畑作は、ビニールハウス栽培に、切り替えるしか無かった様であった。

里山は売られ、国道1号線のバイパスへと、変貌をして行ったのであった。

私は、その様な事は、全く、解らなかった。

と言っても、多分、聞かされていたとしても、全然、理解は及ばなかったと思う。

将来的な事を考えても、たかだか小学生に、そんな事を伝えたって、どうし様も無かったであろう。

ただ、町内では、直ぐに『噂』が、広まった。

『収入役が、自分の土地を売って金にする為に、バイパスを、無理矢理、曲げた!』

と!

とにかく、『噂』には、尾ひれが付き物である。

『収入役としての立場を利用して、金を儲けた。』

『賄賂を渡した。』

『賄賂を貰った。』

『駄々を捏ねて、金額を吊り上げた。』

考えられる、あくどい言葉は、ことごとく、出回ったそうであった。

ただ家の人間達は、

『言いたい奴には、言わせておけばよい。』

と、随分と、涼しい顔をしていた様であった。

それがまた、人の感情を、逆撫でする事にも、なったのであろう。

大体、小学校3年生如きで、『土地成金』などと言う言葉を、使えたのであろうか?

それが本人の、考えた言葉であったろうか?

それはとても、そのままでは、受け入れ難い。

やはり、何処からか、流れて来た、言葉であったのであろう。

だけれども、私に対しての、『土地成金』呼ばわりは、かなりの間、続いたのであった。

私は、悔しくも、何とも無かったが、とにかく、真実だけは、知りたかった。

『土地成金』呼ばわりの事を、母親に聞いてみた。

母親は、

『全部、おじいちゃんがやった事だから、私には、解らないわよ。言いたい人間には、言わしとけばいいの!』

と言った。

父親は、相変わらずの、仏頂面で、とても話などは、聞く気にもなれなかった。

祖父は、大元の当事者である。

でもそこは、どうしても近寄れなかった。

かなりの間、避けていた。

残りは、祖母であった。

祖母は、頑なに、口を閉ざしていたが、最後には、語ってくれた。

確かに、土地を売って、そのお金で、新しく、家を建てたのだそうである。

『土地成金』も、決して間違いでは無いと言った。

だけれども、実際、里山の金額は、ろくなものでは無かったらしい。

二束三文の、金額だと言った。

結局、その里山に隣接していた、青果市場に、土地を貸していたらしかったが、里山が無くなっては、その土地は意味を持たなくなるので、市場に土地を、売却してしまったらしかった。

どうにも複雑である。

そして、それらのお金で、家を建てたと言った。

ただ、祖母は、話を続けた。

家を建てたので、お金はもう、一切、残っていない。

何もお金は残っていない。

『土地成金』と言うのは、土地を沢山持っていて、それを売って、お金持ちになる事を言うのだが、家には、お金が何も無い。

だから、お金持ちに、なった訳ではない。

これで、お金が沢山、残っていたならば、『土地成金』と言われても、仕方が無いけれども、決して、お金持ちじゃないから、『土地成金』では、無いのだよ、と。

私は、本当に、複雑な心境であった。

解ったような、解らない様な・・・。

そして、理解ができた様な、できなかった様な・・・。

その上、納得できた様な、納得ができなかった様な・・。

何れにしろ、新しい家は、土地を売ったお金で建てたのであるが、家には、お金が一切、残っていないと言う事。

そうしてこの家は、相変わらずの、『貧乏』であると言う事。

それらは、食生活からみても、何となくではあるが、理解ができた。

ただ、不思議でならなかったのが、『貧乏』であるならば、そんなに大きな家など、建てなければ良いものをと、随分と、矛盾を感じたものであった。

晩年の祖父が言っていた。

親戚が全員、集まる事ができる様な、そんな大きな家。

そんな家を、建てるのが夢だった。

そしてみんなが、集まる事ができれば、楽しいではないか。

何も前面に出さない祖父であったが、ちょっとした『夢』は、あった様であった。

その『夢』の実現の為であれば、周りの雑音などは、耳には、入って来なかったのであろう。

『土地成金』。

私に対しての、その呼び名も、不思議なもので、何時の間にか、消えてしまった。

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2010年3月 1日 (月)

『建て前!』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅨ)

祖父の、温室の、西側の畑に、何かを建てている事だけは、何となく、解っていた。

しかしながらそれが『何なのか』、だけは、解らずにいた。

道路を挟んで、畑の南側には、魚屋の『魚安』が、あった

私はそこの、『やっちゃん』に、聞いてみた。

すると『やっちゃん』は、

『おめぇんちの、家じゃねーのか? 新しく、建てるんじゃねえのか? おめぇこそ、知らねぇのかよぉ?』

と、逆に、言われてしまった。

その場所は、その畑は、家で持っている畑の中でも、一番大きな畑であった、

またそこは、父親の、お気に入りの畑でもあった、

そこに、その場所に、何かを建てている。

私はちょっと、不思議に思っていた。

そんな事をしてしまったら、野菜はもう作れない。

そんな事をしてしまって、本当に良いのだろうかと、思っていた。

工事は、着々と進んでいた。

どうやら、二階建て、らしかった。

それに、随分と、高い建物の様であった。

また、南側の道路に沿って、長屋の様な建物も作られていた。

それがどうやら、物置に、なるようであった。

(新しい、家が建つ。)

その経緯については、この時点では、私は、全く解らなかった。

それに、知らされてはいたのかも知れなかったが、多分、全く理解をしていなかったのであろう。

とにかく、家が建つ事に、なってしまっていた。

私達兄妹は、その作業を、よく観に行った。

トンカン、トンカンと言う響きと、柱が組み上がって行くその様は、結構、物珍しく、面白かった。

それに、二階建てである。

小学生にしたら、見上げるほどの高さである。

多分、口を開けて、ぽか~んと、観ていたのであろう。

とにかく、壮観であった。

ある日の事。

朝から、猛烈に、慌しかった。

お盆でも、お正月でも無いのに、親戚の、女性陣が、家に集まっていた。

それに、年末にしか出されない、石臼や杵も出されていた。

台所では、かまどの上に、蒸篭が積まれていた。

庭には、大きな机が出され、もろ箱も、沢山、積まれていた。

一体全体、何が始まったのだろうと思っていたのであるが、その光景を観てみれば、もう、『餅つき『以外には、考えられない。

私の家の伝統として、餅つきを行う場合には、とにかく、一番初めの一臼。

それら、一番最後の、〆の一臼。

それは、家長が搗くことに、なっていた。

その当時の、家長。

すなわち、祖父であった。

しかしながら祖父は、体が弱く、餅を搗く、と言う感じでは、全く無かった。

と言う事で、父親が、まず、捏ねる。

そうして、餅を搗ける状態になった所で、合いの手の祖母と共に、何回か、杵を振り下ろす。

周りにいた、親戚連中も、その時だけは、手を休めて、みんなでそれを、見守るのである。

『せ~の、よいしょっと!』。

とても勢いが良い!

『せ~の、よいしょっと!』。

だけれどもその掛け声も、2~3回で、終ってしまう。

要は、祖父は、その程度が、限度なのである。

それで、目一杯なのである。

その後は、父親と、母親に、いとも簡単に、交代をしてしまうのであった。

一体全体、何臼ぐらい、搗いたであろうか?

とにかく、座敷が一杯になる位であったから、相当な量であったと思った。

餅は搗き上がると、直ぐに、片栗粉の中に、放り込まれた。

それで、直ぐに、握り拳の半分位の量に引きちぎられ、丸められていった。

但し、最初の何臼かは、大きなお餅が造られた。

まるで、お供えのお餅の様であったが、ちょっと、違っている様な気もした。

私は、私達兄妹は、何時、あんころ餅を作って貰えるのか?

おろし餅は?

きな粉餅は?

と、ワクワクして、それを見守っていたが、結局は、何も出ては来なかった。

出て来たのは、

『あんた達、邪魔! 向うに行ってな!』

と言う、叔母の、罵声だけであった。

白いお餅が、大体搗き上がったところで、今度は、食紅が、投入された。

紅い、お餅を作るのである。

ひな祭りの時に、3色のお餅を作る。

その時の記憶があった。

ただ今回は、紅白のお餅、だけであった。

女性達は、とにかくやたらと、動き回っていた。

お餅を座敷に持って行っては、それを、紅白のペアにして、白い紙の、上に並べて行く。

とにかく、10畳の座敷も、8畳の座敷も、お餅で一杯になってしまった!

本当に、驚きの光景であった。

父親は、と言うと、何時の間にか、竹薮から竹を採って来て、枝を落としていた。

母親は、と言うと、台所で、煮物か何かだったと思ったが、料理を作っていた。

それを叔母達が、手伝っていた。

祖母は何をしていたかと言うと、板の間で、5円玉の穴に、赤いリボンを、付けていた。

私は、おやっ?

っと、思った。

何処かで、観た事があった様な?

祖父は居間で、半紙に、小刀を入れていた。

それでその半紙を折り、雷の形の様な物を、作っていた。

それと何か巻物の様な物に、筆で字を書いていた。

祖父は、書が、達者であった。

その次の日も、やたらと、慌しかった。

叔母達は、紅白のお餅を、透明のビニール袋や、紙の白い袋に詰め、それを紅い紐で、結んでいた。

それを、もろ箱に、どんどんと、並べて行く。

そうして、小さいお餅達を片付け、やっと、大きなお餅の所に、辿り着いた。

そこからがまた、一段と、騒がしかった!

『このままだと、しわが入っちゃう!』

『これじゃぁ、曲がっちゃう!』

とか、

『それじゃぁ、くっ付いちゃうよ!』

など、大騒ぎであった。

その、大きなお餅を、紅白で、どうやって梱包するのか?

それが、一番の問題であったようであった。

母親は、その他の叔母と共に、料理を、お皿などに盛っていた。

それに、いつもはまず使わない様な食器も、多量に、用意をされていた。

それに、多量のお酒。

その他にも、野菜を盛ったかご。

果物が盛られたかご。

などなど、とにかく、食べ物が、やたらと、多量にあった様に、思った。

祖母は相変わらず、板の間で、何かの準備をしていた。

それが解ったのは、私の人生において、ずっと後の事に、なるのであるのだが。

父親は、庭で何かを作っていた。

そこに祖父が、付き添っていた。

何か、大きな弓の様な物が、出来上がっていた。

私はまた、

おやっ?

っと、思った。

これも何処かで、見た事があるぞう?

それ以外にも、何かを作ってあったが、良くは思い出せない。

祖父は、父親が作った物に、飾り付けをしていた。

ただその時驚いたのが、昨日は確か、白い半紙だけであったのであるが、色とりどりの紙が、細工をされ、用意をされていた。

何時の間に?

祖父は、その様な細かな作業と、手際の良さは、かなりのものがあった様であった。

祖父と、父親が、その作業を終えようとしていた頃、紺色のはっぴを着た集団が、家にやって来た。

私達兄妹は、邪魔にされ、遠巻きでしか、観ている事はできなかったが、祖父とか父親とか、祖母・母親・叔母達までもが、家から出て来て、その集団に向かって、やたらとぺこぺこしていたのを、覚えている。

父親が作った工作物は、その紺色のはっぴの集団に、手渡された。

またまた、その次の日の事であった。

今度は、家の中に置かれていた物が、どんどんと、運び出されて行った。

お餅も、料理も、食器も、お酒も、祖母が大事そうに抱えていた木箱も、何もかも、家の中は、すっかり、がらんどうになってしまった!

私達兄妹は、暫くの間、その光景を観て、その家に佇んでいたが、

『あんた達、何をやってるの? 早く来なさい!』

と言う叔母の大声と共に、家が新築されている現場に向かった。

物置は、大体が出来上がっていたが、荷物は、その中に、運ばれていた。

その中から必要な物が取り出され、新築の、2階の屋根の上に、運ばれていた。

屋根の上には、例の弓が立てられ、四方に竹が立てられ、それらに、縄が、張られていた。

そこに、祖父の飾りつけが、施されていた。

私は叔父達に、

『おめぇも、上に行かなきゃ、駄目じゃんか!』

と促され、屋根に続いている、梯子を登ろうとした。

すると、

『おい! ガキ! こっちに来ちゃ、駄目だ!』

と、若いお兄さんに、怒鳴られてしまった。

そうしたら上から、

『お~い! その子は、良いんだ!』

と、声が降って来た。

私は、喜んで、2階の屋根の上まで、駆け上がって行った。

私はとにかく、高い所が、大好きである。

だから、木登りも好きだったし、そのため、自衛隊では、航空科に、行った様なものであった。

屋根の上では、儀式が行われていた。

驚いた事に、祖父がいた。

それに父親もいて、何人かの、男の人がいた。

屋根の上は、意外と広かった。

そして、祖父が書いた、巻物の様な物を、親分の様な人が、読み上げてた。

その後、『塩』が撒かれ、『米』も撒かれた。

湯飲みに酒が注がれ、みんなで乾杯をしていた。

私は、そんな事にはお構いなく、四方の景色を、思いっ切り、堪能していた。

何せ、今居る場所以外に、他に高い物と言ったら、火の見櫓位のものである。

思いっ切り、遠くまで、見渡す事ができた。

沼津の街並みでも、三島の街並みでも、しっかりと、確認をする事ができた。

おまけに小学校が、とても近くに観えていた。

突然、『親分?』の大声が響いた。

すると、下に集まっていた、近所の人達が、一斉に動き出した。

私は下を観て、ぞっとした!

黒い目玉が、滅茶苦茶、こちらを向いているのである。

そして、見えるものといえば、黒い髪の毛と、その脇から伸びてくる、『手!』。

その時は、物凄く、気持ち悪く感じた。

何だか、見てはいけないものを見てしまった様で、変な気分であった。

『親分?』は、大きなお餅を、両手で持って、下に、放っていた。

それは、四つの方向に向かって、行われた。

その後である。

父親も祖父も、そしてそこに居た男の人達も、いきなり、お餅を、下にいる人達に向かって投げ出した。

とにかく、どんどんと、投げて行く。

そして、篭に入っていた『野菜』も投げられた。

『果物』も投げられた。

私は、下の人達が、大丈夫かと思って下を覗き込んでいたが、

『お兄ちゃんも、餅を、しっかりと撒かなきゃいかん。』

と、『親分?』に言われて、幾つかのお餅を、渡された。

もう、投げる物が無くなったのかと思ったら、その時に、さっき怒鳴ったお兄ちゃんが、

『おう! 悪かったな。ここの息子だったんかい?』

と言って、お餅を、運んで来た。

とにかく、物凄い、量だったと思った。

祖父は?

と観てみると、祖父は、木の箱を抱えていた。

でも、よくよく観てみると、それは『枡』であった。

その中には、祖母が用意をしていた、5円玉が入っていた。

それを祖父は、『花咲爺さん』の様にして、撒いていた。

いや、撒いていたと言うのは、言い過ぎであろう。

やはり、放っていたと言うのが、正しいであろう。

その騒ぎは、屋根の上から撒く物が無くなった所で、やっと終焉を迎えた。

それで祖父が、何か挨拶をしていた様に思った。

それで、眼下に居た人々は、霧散霧散して行った。

屋根から降りて来た人々は、1階の、裸電球の下に集まった。

そして、親戚の叔父さんや叔母さん達は、物置の方に集まっていた。

それからは、料理が出され、宴会が、延々と、続いていた様であった。

私達兄妹は、旧家に戻ったが、テレビを点け、家族の帰りを待っていたが、がらんどうになっていた旧家は、何だか、とても、物悲しく思えた。

新しい家を、建築してくれたのは、『御守建設』と言った。

そこの大工の棟梁が、設計、施工までしてくれたそうである。

しかしながら今は、その大工の棟梁も、『御守建設』も、その姿が無い。

残念な事ではある。

当時、木造で、それだけの建物を創る事ができる『腕』を持っている人は、数少なかった様であった。

私の今住んでいる家は、築40年を越えた。

本来であれば、耐震工事をしなければならないのであるが、そのままにしてある。

祖父の想いや、棟梁の想い。

それらが邪魔をしている訳ではないが、何か踏み切れない物があって、そのまま、なのである。

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2010年2月20日 (土)

『びわ。』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅣ)

旧家の裏庭には、様々木が、所狭しと植えられていたのであるが、木の名前が、どうにも解らないものが、まだまだ、沢山あった。

祖父の、趣味である様な、園芸に近いものもあれば、食品として、有効な物も、多々あった様にも思った。

裏庭には、本来であれば、家の東側からでも、西側からでも、回って行ける筈であったが、実際の所は、西側は、やや、ジャングル化していた。

当然、東側からしか、裏庭には、回って行けなかった。

東側から、裏庭に入って行くと、祖父の、盆栽棚が、まずあった。

そこに、どう言う訳か解らないが、ぶどうの棚も造られていた。

その奥には、柿の木があり、桃の木も、あったであろうか?

どうして、裏庭に?

と、思うのであるのだが、桃の木なのである。

まぁ、実を結んだところは、全く、記憶はしていないのであるが・・・。

そうして、夏みかんの木があり、その奥にも、何かの木があった様に、思った。

栗の木、であったろうか?

何か、やたらと茂っていた記憶がある。

そうして、ニッキの木である。

これで、裏庭の、三分の二ぐらいまで、占めていたであろうか。

そこからが、問題なのである。

どうにも、近付いて行く事ができない。

ニッキの横には、何か大きな木があったが、枝が高い位置にあり、木登りを得意とした私でも、流石に、登る事はできなかった。

そしてそれから西側には、更に、高い木があり、その間に、低木が、ひしめき合っていた。

その木々の間は、藪になっていた。

蔦や、蔓が、木々の間に渡り、絡まっている。

とてもそこには、入って行く気には、なれなかった。

ただ、金木犀だけは、確認ができた。

と言うか、その独特の、香りが漂い始めると、その香りで、金木犀の位置が確認できるのであった。

但し、金木犀も、蔦や蔓によって、藪の中に、呑み込まれていた状態であった。

私は、ニッキの木の、横にあった大木が気になって、仕方が無かった。

とにかく、とても大きな葉を付けるのである。

葉っぱの色は、深緑色で、一見すると、とてもごわごわした物に見えた。

ただ、幹や、枝振りを見ると、とても頑丈そうな木であった。

あの、柿ノ木の様な、直ぐに、ボキボキと折れてしまう木とは違って、とても逞しく見えていた。

『登りたい!』

とにかく、その木に、登ってみたかったのである。

木の幹は、叩いた感触で解るのであるが、とても硬そうに思えた。

樹皮も、相当硬い。

そう言う時は、大概が、滑る。

幹に抱き付いても、引っ掛かりが無ければ滑ってしまう。

私の木登りのポリシーは、とにかく、道具を使わない事にあった。

『梯子』などは、『論外』である!

木登りの仲間達が、よく、ロープなどを使った。

ロープの端に、石ころを結び付け、それを、太い枝を狙って掛ける。

そうして、ロープを使って、木に登っている者もいた。

それも、私にとっては、『邪道』である。

そうして、一番、気に食わなかったのは、木の幹に、板を打ち付けて、足掛かりの、登り階段を、造っていく奴等であった。

それは本当に、許す事ができなかった!

とは言え、随分と、偉そうな事を言っているが、実は私は、それをやって、木の幹を傷付けて、父親に、思いっ切り、ぶん殴られた経験があるのである。

だから、二度としないと、心に誓っていた。

木に登るなら、素手で!

それが私の、信念であった。

だけれども私が、その木を狙っていると言う事は、直ぐに、祖父に知れてしまった。

祖父は、当然の如く、警戒をした。

そう言えば、ニッキの木の時も、できるだけ、東側に、私を位置させた。

何となく、怪しい、雰囲気であった。

祖父は、その大木の事には、一切、触れないでいた。

ただ、私の、2階の、北東の小部屋からは、裏庭の様子が、良く伺えた。

但しそれは、木々の、枝振りだけであった。

木々の枝や葉っぱに遮られてしまい、地面は、確認することはできずにいた。

そんな感じで、裏庭を見ていたとき、ある時、あの、ごつい葉っぱの間に、白い、真っ白ではないのであるが、小さな花を、付けた。

最初は、花かどうなのかは、解らなかったが、花であったのである。

それは、その花は、然程長くは、咲いてはいなかったと思った。

金木犀の様な、強い香りも感じられずに、その事は、何時の間にか、忘れていた。

季節は、夏になってしまうのかな?

と言う事は、小学校3年生ではなくて、4年生になってしまうと思うが、その木を、第一確認したのは、小学校3年生の時であったから、引き続き、書いてしまおう。

その大きな葉っぱの間には、何か膨らみを持った、『実』の様な物が、次第にでき始めていた。

私は、祖父は何も言わないし、どうせ、食べられないのだろうと思っていた。

第一、その実が、どの様になるのかも知らなかった。

だけれども、その木は、家の北西にある、父親と母親の部屋の、眼の前にあった。

実が落ちたりして、何かしらの、地上の変化が、あっても良いだろうと思っていたが、その様な兆候は、全く、感じられなかった。

毎日、その実を観察していた私は、その実が、段々と、色付いて行くのが判った。

どうやら、橙色に、なって行く様であった、

みかんの色とも違う。

ましてや、夏みかんの色とも違った。

何だか、黒い、へその様な物があったが、段々と、楕円形になって行く。

卵よりも、少し小さい、大きさか!

その様な状態になって来ても、祖父の動きは、全く、見られなかった。

橙色の卵の様な物は、薄っすらと、白い粉を被っている様にも見えた。

そうしたら、何か、甘い香りが、漂い始めた。

私は祖父に、思い切って、その事を、言ってみた。

すると祖父は、

『おっと、こりゃいかん!』

と言って、慌てて確認をしに、裏庭に出て行った。

翌朝、祖父は、早起きをしていた。

そうして、背負い籠の中に、橙色の実の付いた葉ごと、収穫をしていた。

背負い籠が一杯になると、米蔵の前に行って、ゴザの上に、空けていた。

それを、出勤前まで、行なっていた様であった。

その甘そうな実が気になって、仕方が無かった私は、小学校から戻って来てから、早速、台所に行ってみた。

すると、もうその姿は、何処にも見られなかった。

一体全体、どうしてしまったのだろうと、本当に、不思議でならなかった。

2階の部屋に行き、外を眺めてみると、まだまだ沢山、随分と、橙色の実が残っていた。

それをどうするのだろうと思っていたら、何と祖父が、先割れの竹竿を持って、現れた。

その竹竿は、柿の収穫をする時にも使うので、良く知っている。

そうして祖父は、器用に枝を竹竿ではさみ、それを回転させて、枝ごと、収穫をしていた。

私は思わず、叫んでしまった!

『ここにもある!』、

と。

祖父は最初は、あまり良い顔はしていなかった。

だけれどもその内、

『何処にある?』

と、私に聞きだした。

そうして私は、到々、瓦屋根の上に、部屋から出てしまった。

私の位置からでは、どうしても、木の、西側が見えないのである。

祖父は、

『こらっ! 瓦に乗るんじゃない!』

とは言ったが、もう、諦めた様子であった。

私は、祖父に、あちらこちらと、指示を出したが、竹竿が届かないとか、枝に邪魔をされて、竹竿が入らない場所とか、かなりあった。

私は、太い枝が、屋根の上まで来ているのを発見した。

そうして、その横にも、太い枝が伸びて来ているのを確認した。

その上、その枝の上には、丁度、手で掴める様な枝もあった。

チャンス!

ちょ、私は思った。

ここならば、憧れの大木の上に、移ることができる。

今なら、ここから、木に移れる。

そう思った私は、一気に、木に渡ってしまった。

祖父は一瞬、私を見失った様であったが、直ぐに私を見つけ、

『お前は、何て言う事をする!』

と言っていた。

これは、随分と、後から聞いた話であるが、長男坊は、木には、登らせないのだそうである。

落ちて死んでしまったら、跡継ぎが、居なくなってしまうと言う事である。

『びわ』の木に登るのは、四男の叔父の、仕事であった様である。

私は、祖父に聞いてみた。

『食べてもいい?』

すると祖父は、小さく頷いた。

だけれども、

『種は、吐いて良いから、こっちに寄越せ!』

と言っていた。

私は、その甘さに驚き、その後、祖父に黙って、幾つか、食べてしまった。

本当に、美味かった!

なのに、どうして?

こんなに美味しい物を、隠しておくのだろうと、不思議でならなかった。

祖父に聞いてみた。

『なんと言う木?』

『びわだ! 琵琶法師の、びわだ!』

と、祖父は応えた。

私は、『びわ』って、言うんだぁ、と、琵琶法師の事など、全く、頭には入らなかった。

その後、味噌部屋の片隅で、お酒に浸けられた、『びわ』を、発見する事になる。

そして、その『びわの種』だけを、お酒に浸けた物も、発見をする事になる。

『びわの葉っぱ』であるが、それは、祖母の元で、発見をする事になる。

乾燥していない葉は、お灸の、もぐさの下に、敷かれていた。

乾燥させた葉は、細かく砕かれ、お茶にされていた。

どうやら『びわ』は、『果物』ではなくて、『薬樹』として、使われていた様であった。

それに、親戚縁者、全て、までとはいかなかったにせよ、祖父と祖母、それから、父親の兄弟位までには、『びわ』は、配られていた様であった。

考えてみたら、ニッキの木もあったのである。

多分、であるが、裏庭には、その様な、薬になる様な、大事な物が、植えられていたのでは無いのだろうか?

それを、私如きに教えてしまい、まるで猿が、果実を食い荒らす様な事になってはいけないと、そう思っていたのでは、無いのだろうか?

そして、その場所を管理するのが、その家の、家長。

そう言う事であったのでは無かろうか?

『びわ』の木。

その木も、もう無い!

無くなってしまった。

そうして、『びわ』の木の上で、『びわ』を食べたのも、それ一回切りになってしまった。

その翌年、新築の家に、引っ越してしまうからである。

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2010年2月19日 (金)

『いよいよ、デジタル化?』 (今現在)

親戚に、電気屋のおじさんがいる。

特に、そのおじさんから、勧められたと言う訳でもない。

家には、ケーブルテレビをひいてある。

ケーブルテレビ局からは、アナログテレビでも、チューナーを入れれば、それで今までのテレビでも、使えると言われた。

それに、今までのテレビが、壊れてしまった、と言う訳でもない。

それに、来年ではないか!

来年の話、だよなぁ。

来年の7月。

そう、私は記憶をしているのであるが、何か、違ったであろうか?

何となく、慌しかった。

母親が、随分と、急くのである。

どうしてそんなに急くのかと、不思議でならない。

大体、こう言う時は、ろくな事が無い。

何か、怪我をしてしまうとか、事故を起こしてしまうとか、そんなものが、付き纏ってくる。

そう言えば、父親が亡くなった時にも、父親は、菩提寺の若住職と喧嘩をして、墓を移してしまった。

そうしたら、である。

『急いては、事を仕損じる!』

と、自分でしょっちゅう、言っていたのに、自分自身が、その通りになってしまった。

母親に、変な災いが、降り掛からなければ、良いのであるが。

とにかく、母親が、テレビを換えたい、と言って来た。

ならば今、食堂にある、自分用のテレビを換えろと言ってみた。

だけれども、それはそれで、ケーブルテレビ局から、チューナーを無償で借りている状態だから、それで良いと言う。

だったら、私の寝室にある、テレビだって、同じ事ではないか!

こちらのテレビを、バタバタと、換えられるのは、溜まったものではない!

寝室には、布団が敷きっ放しであるし、掃除だってしていない。

大体、テレビの後などは、埃の、巣窟である。

そんな所を、出されてしまったら、部屋中、埃だらけになってしまう!

布団だって、埃まみれになってしまう。

ホットカーペットの絨毯だって、何だって、みんなみんな、埃まみれになってしまう。

第一、私が休めない!

休む所が、無いではないか!

しかしながらそれは、強行された。

テレビのデジタル化は、強行されてしまったのである!

なんと言う事であろうか?

おじさんは、ニコニコしてやって来た。

いくら親戚とは言え、当然、タダではない!

そして、安くも無い。

また、金額を負けてくれると言う訳でもない。

通常通りである。

ただ、古いテレビの引き取りや、設置、セッティング、掃除、その他諸々は、サービスとしてだけでは無く、とても、懇切丁寧に、行ってくれる。

それが、親戚サービスの様なものである。

その日は、突然、やって来た。

いきなり、である。

おじさんは、家の門の中に、軽トラックを入れ、さっさと準備を始めてしまった。

古いテレビの回収。

そして、新しいテレビの、設置である。

Img_9057

まぁ、とにかく、手際が良い。

でもまぁ、考えてみたら、ブラウン管では、もう無いのである。

私が、高校年代に、あれだけ学習して、テレビの構造について、どれだけ学習した事か!

って、実際の授業中は、殆ど、寝ていたのであったのだが・・・。(^^;

だけれども、本当に、薄く、軽く、そして画面も、あっと言う間にでかくなってしまった。

10年位前までは、本当に、苦労をしていたはずだったのに、今、眼の前に、そのテレビが有る。

それが存在をしているのである。

画像は、と言うと、これがまた、綺麗なのである。

ブラウン管の掃引線の画像とは、全く違うのである。

Img_9066

いやぁ、本当に、鮮明な事! 鮮明な事!

これはちょっと、驚きであった。

ただちょっと、横長の画面に慣れず、全体が、潰れて見えるのは、気のせいであろうか?

おじさんの話によれば、

『出たばかりの、最新型だから。』

と言う事であった。

それに、BSも、CSも、ケーブルテレビも、OKだと言う。

但し、その、チャンネル設定に、とても時間が掛かると言う事であった。

私は、パソコンを繋いで、どうにかできないのかと尋ねたのであったのだが、何でも、リモコンを使わないと、できないとの事であった。

そのリモコンと言う物やらを見てみると、

Img_9058

こんな感じの、リモコンである。

リモコンも、随分と、シンプルにまとめてあるとは思ったのであるが、よくよく観てみると、数字の横の文字が、携帯電話と一緒で、小さくて、どうにも読む事ができない!

とにかく、老眼鏡を使っても、良く見えないのである。

何でもおじさんが、大体の設定はやってくれたのであるが、気に入らなかったら、自分で直して欲しいと言う。

だったら、最初から言ってくれれば良かったものを、今更、そんな事を言われてもと、思った。

何でも、今までのブラウン管テレビでの、WOWOWは、チューナーを付けていたが、今度は、要らないと言う。

カードか何かを差し込めば、それで済むと言っていた。

WOWOWは、暫く、契約を切っていた。

これだけ綺麗な画面になってしまうと、どうしようかと、悩んでしまう。

ただ、リモコンであるが、もう、この画面、このチャンネル設定で良いと言うのであれば、ご老体用の、リモコンもあるのだそうである。

それが、

Img_9062

このリモコンである。

もう完全に、携帯電話と、同化しているなと、思った。

機能は要らない、必要最小限であれば、それで良い。

それは、ご老体向きと、言う事である。

だけれども私は、こちらの部類に、入るのであろうなぁ?

とにかく、眼が見えない。

夕刻になり、光量が無くなって来ると、パソコンの画面も観えなくなって来るし、キーボードの文字も、観えなくなって来てしまう。

おまけに、薄暗い寝室に入れば、いくら電灯を点けたって、リモコンの、文字も確認できなくなってしまう。

暫くはまた、このリモコンに慣れるのに、苦労をするのであろうか?

以前のリモコンであるが、それはとても、単純なものであった。

Img_9064

こんな単純な物なのである。

だから逆に、指で覚える事ができたのである。

例え部屋が暗くても、指先で、その感覚で、ボタンが何か、判っていた。

リモコン自体も小さいし、この方が、使い勝ってが良かった様に思った。

さてさて、新しいリモコンには、どの程度で、慣れる事ができるのであろうか?

今、丁度、バンクーバーオリンピックが開催をされている。

だけれども、テレビは、あまり観ていない。

とにかく、寝室に戻ってしまうと、つい、横になってしまう。

そうして、テレビでも観ていると、何時の間にか、寝てしまうのである。

そんなにも、勿体無い事があって、たまるか!

と言う、気分である。

だから残念ながら、部屋に戻って、テレビを観る事はないのである。

だからこそ、母親の常駐している、台所にでも、置けば良かったのである。

母親は、とにかく、一日中、テレビを、観ている。

そう言えば、この32型のテレビ。

これが、一番の、売れ筋なのだそうである。

逆に、これより小さい型だと、値段が、高くなってしまうのだそうである。

要は、今は、この型のテレビが、お買い得と、言う事であろうか?

最近の科学の進歩は、目覚ましい!

本当に、加速度的に、進歩をしていると言っても、過言では無かろう。

大学時代から、20数年。

その頃、実用研究されていた、音声認識や、二足歩行ロボットなど、もう、実現をされてしまった。

それに、携帯電話。

そして、薄型テレビに、3D。

果たして、これから、どの様な物を、観る事ができるのか?

そして、何処までその操作と利用に、付いて行けるのであろうか?

ただ、私が欲しい物。

そして実現をして欲しい物。

それは、私の左半身を動かしてくれるもの。

そんな補助ロボットが、今は、欲しい。

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2010年2月17日 (水)

『もみじ、と、かえで』 (小学校3年生 ⅩⅩⅢ)

♪『あきのゆうひに てるやまもみじ ・・・・・。』

誰でもが知っている、唱歌である。

この曲は、確か、輪唱の様な歌い方だった気がする。

その上、途中まで歌っていくと、確か、高音と、低音に、分かれて、歌うことになったと思った。

私は、自分では音痴とは感じてはいなかったが、どうしても音が採れない、音程が合わないと言うか、曲に乗れない事が、多かった。

川口先生は、どちらかと言うと、音楽は、とても好きだった先生の様に思った。

音楽の授業には、とても熱が入っていた様に感じた。

私の、私の記憶の範疇だけであるが、小学校3年生になった時には、急に、学習の程度が上がってしまったように感じた。

と言うか、そもそも、小学校2年生の時に、ろくに学習をしていなかったのであるから、それで、授業に、何とか付いて行けたのが、不思議なくらいである。

ただ、授業時間が少ないもの。

例えば、音楽だとか、図画・工作などは、とても苦手な部類に、入っていた事には、間違いが無かったと思う。

『もみじ。』

この歌は、とてつもなく、歌わされた様な、記憶が残っている。

音楽の授業の、1時限分。

この頃の、授業時間は、一体全体、何分ぐらいであったろうか?

とにかく、その授業時間中、ずっと、立たされっ放しで、歌わされっ放しで、声が嗄れてしまうぐらいまでに、歌わされた記憶がある。

『駄目じゃないの!』

『先に歌っている人の声を、ちゃんと聴いて!』

『オルガンに、ちゃんと合わせて!』

『音がずれている!』

などなど、音楽の時間になると、川口先生は、人が変わった様になった。

罵声も飛んだ!

あの、優しい先生では無かった。

とても厳しい先生に、変わってしまっていた。

先生は、音楽が得意であったのだろうか?

その割には、先生の歌声を覚えてはいない。

いや、実際の所、それ以前に、先生の声を、覚えてはいないではないか!

だから、どの様な声で、また、歌声であったのかは、残念ながら、覚えてはいない。

その代わり、『言葉』、だけは、多量に、覚えているのである。

先生は、何とか、輪唱の部分だけは、完成をさせたかった様であった。

クラスのみんなを、半分に分けたり、男子と女子と、分けてみたり、そんな事を、何回も繰り返したことを、覚えている。

そうして、何回も何回も、歌った。

授業は、一回きりでは、無かった様に思った。

2回か3回。

いや、もっと歌ったであろうか?

とにかく、この曲の事だけは、やたらと覚えているのである。

そうして、後半部分である。

高音と、低音に分かれるのである。

と言うか、主旋律と、和音と言ったら良いのであろうか?

はたまた、ハーモニーとても言うべきものなのか?

その点においては、私には、全く、知識が無い。

とにかく、男子と、女子とが、全く、別々に歌うのである。

『かえるのうた』とか、そう言ったレベルの歌ではない。

とにかく、私は、全く、歌うことができなかった。

どうしても、女子につられてしまうのである。

その上、周りに、男子がいても、駄目なのである。

そうすると今度は、音程が、全く取れなくなってしまうのであった。

結局、何処にいても、何をしても、歌うことができなくなってしまっていた。

川口先生は、

『どうして歌えないの?』

と、かなり、ヒステリックになっていたことだけは、そしてその顔は、今でも、覚えている。

歌詞だけは、完璧に、覚えてしまった。

何回も何回も歌わされた、『もみじ』。

本当に、教科書を観る必要も無い位に、覚えてしまった。

ある時、確か、音楽の授業以外の時であったと思う。

『もみじ』を、みんなで歌った。

歌詞を覚えていた私は、結構、すらすらと歌えた。

そして、どうでも良いやと思っていた時に、意外にも、曲に、乗れることができたのである。

はっきりと、それは自覚ができたのである。

『やまのふもとの』、ではなくて、『や~~まの、ふ・も・と・の』と、

はっきりと、発音をする事ができたのであった。

川口先生は、

『みんな上手くなったわね!』

と、上機嫌であった。

どうやらやはり、今までは、私がクラスのみんなの、和音を、駄目にしていた事だけは、確からしかった。

何で?

どうして?

そこまで、『もみじ』を練習する必要があったのか?

結局それは、『学習発表会』の為であった。

保護者を学校に呼び、学習の成果を、披露するものである。

『歌』や『劇』、教室の壁には、みんなが描いた『絵』などが貼り出され、所謂、クラス内だけでの、ミニ文化祭の様なものであった。

その為に、必死になって、練習を、繰り返していたのであった。

私は、結構、得意気になって歌っていた。

家に帰っても、歌っていた。

自分で、なかなか上手くなったと、自画自賛をしていた。

だけれども、ある時、祖父が、

『何だか、おかしくないか?』

と聞いて来た。

私は、

♪『 秋の夕日に 手る山 紅葉  鯉も 薄いも 数ある中に 

   待つを色取る 楓 八田は  山の麓の 裾野模様 』

と、胸を張って、歌ってみた。

すると祖父が、

『何だか、違う感じが、するなぁ。』

と、呟いていた。

私は、何が違うのかなんて、さっぱり判らなかった。

とにかく、祖父が言っている意味が、全く、掴み取れなかった。

私は、まぁ、どうでも良いやと思って、結局は、そのままに、してしまった。

とにかく、ずっと、ずっと、そのままで、あったのである。

それからであるが、私が愕然としたのは、それから5年後の事だったと、思った。

それは、ボーイスカウトに入って、中学2年生の頃であったろうか?

私は、『少年隊』と言う、小学校6年生から、中学校3年生までで組織をされる、『隊』に所属をしていた。

その私達の下には、小学校3年生から、5年生までで組織されていた、『年少隊』と言う『隊』があった。

その子達の面倒を看るために、『少年隊』から、『年少隊』に、『デンチーフ』と言う者が、派遣をされた。

その『デンチーフ』達は、『デン(組)』に1名ずつ付いて、『歌』や『ゲーム』や『スタンツ(寸劇)』などの指導を行う。

私は当時は、上級班長であったが、『デンチーフ』達を指導するために、一緒に、『年少隊』に、派遣をされていた。

そこである日、『歌集』を渡された。

そこで、その『歌集』を観て、私は、愕然!としたのである。

 秋の夕日に 照る山もみじ  濃いも薄いも  数ある中に

 松を彩る  かえでや蔦は  山のふもとの すそ模様

 谷の流れに 散り浮くもみじ  波に揺られて 離れて寄って

 赤や黄色の 色さまざまに  水の上にも  織る錦

本当に、『なんじゃ、こりゃぁ!』、の、世界であった!

何と言う事であろうか?

私が今まで、覚えていたものは、一体全体、何であったのだろうか?

全くの、覚え間違いではないか!

私は、恐る恐る、『年少隊』の隊長に聞いてみた。

『あの~、もみじと、かえで、って、違うんですよね?』

『楓などが紅葉して、もみじに、なるんだよ!』

『年少隊』の隊長は、かなりの呆れ顔で、そう、言い放った。

私は何せ、『少年隊』の、上級班長である。

そんな、基本中の基本、肝心要の事を、今更言わせないぞ!

と言う位の、勢いであった。

しかしながら私は、

『あのぉ~、この字(蔦)、なんですが・・・。』

そうすると、『年少隊』の隊長は、私を外に誘い、

『部屋の中では、話ができんから・・・。』

と言って、樹木が茂っている場所に、私を連れて行った。

そうすると、『年少隊』の隊長が、

♪『蔦の絡まるチャペルで・・・。』

と、突然、歌い出した!

『つる、の、事だよ。』

ボーイスカウトの、隠れた教育法の一つに、『歌で教える』、と言う方法がある。

要は、『歌詞』で、『歌詞』を覚える事によって、教育をしていくのである。

その『歌詞』の『意味』。

その『意味』を、充分に、理解する事によって、『知識』としていくのである。

『もみじ』。

結局、その様な『木』は、存在をしなかったのである。

小学校3年生から、中学校2年生まで。

私は、『紅葉』と言う木が、存在をすると、思い続けていたのであった。

そして、歌詞も、出鱈目なのであった。

私は、その事があって以来、『歌詞』は、できる限り、吟味、する様にしている。

しかしながら、最近の『歌詞』は、残念ながら、意味が、全く、理解できなくなって来てしまっている。

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