カテゴリー「東京理科大学」の7件の記事

2016年12月17日 (土)

『老婆心ながらぁ~!』(^◇^ゞ

(# 九州―30)


おはようございます!(^o^)/


【老婆心ながらぁ~!】(^◇^ゞ


(※注:平成28年5月6日(金)の記憶です。)


『S氏』に、車椅子を押されながら、展示室内を進んで行くと、そこには、戦争の勃発から、核兵器開発の歴史が展示されていました。 Img_4566
その展示を見ていくと、核兵器の開発は、ドイツ(ナチス・ドイツ)で始められたのは有名ですが、その後、核開発を行った国が、とても多くあったことを知り、私は、かなり驚いてしまいました。

また、核保有国、その疑いがある国。

それらの中に、

(まさか、この国が!)

と言う驚きと共に、その数の多さに、目を疑うばかりでした。

(『少年工科学校』で、教育を受けた時は、こんなにも多くは無かったぞ!)

と、思いつつ、我が国においても、太平洋戦争中に、研究レベルで、終焉してしまったけれども、核開発の事実があったのには、嫌悪感を覚えていました。

しかしながら、

(核兵器を開発できずに良かった!)

と言う、安堵感はあります。

それから、大学時代にですが、『原子力工学』と言う講義がありました。

私は、電気工学科でしたが、やはり、

(エネルギー問題は、総合的に考えなくてはいけないだろう。)

と思い、受講選択をしたのですが、担当教授がお亡くなりになってしまい、講義は中止となり、今でも、時々、

(『原子力工学』を、学んでおきたかった。)

と、思うことがあります。

やはり、『核』に対しても、目を背けるのではなく、確かな知識を持つことは、とても重要だと考えています。 Img_4567
ところで!

手持ちの資料で、確実では無い様に思いますが、また、『長崎原爆資料館』の展示とは、異なってしまうかも知れませんが、自分自身の整理のため、『核保有国』・『保有疑惑国』・『過去の保有国』・『開発の事実があった国』を、記しておきたいと思います。

(※注:番号は、一連番号です。)

『核保有国』

1.ロシア
2.アメリカ
3.イギリス
4.フランス
5.中国
6.インド
7.パキスタン
8.北朝鮮
9.イスラエル

『保有疑惑国』
10.イラン
11.シリア
12.ミャンマー

『過去の保有国』
13.南アフリカ
14.ウクライナ
15.ベラルーシ
16.カザフスタン

『開発の事実があった国』
17.ドイツ(ナチス・ドイツ)
18.日本
19.中華民国
20.韓国
21.イラク
22.スイス
23.スウェーデン
24.ブラジル
25.アルゼンチン
26.リビア
27.アルジェリア

と、まぁ、世界地図で観たら、とんでもないことになっています。

(いくら何でも、どうして、こんなことになってしまったんだろう?
 広島や、長崎の教訓は、活かされていないのか?
 広島や、長崎の声は、何も届いていないのか?)

と、これまた、心がとても痛みます。 Img_4568
それから!

広島、長崎以外で、『核の犠牲者』となってしまった方々も、展示室内で、紹介されていました。

焼津のマグロ漁船、『第五福竜丸』の被爆についても、展示されていました。

私は、静岡県人ですので、アメリカが、ビキニ環礁で水爆実験を行い、第五福竜丸が、『死の灰』を浴びたことは、よく知っています。

そして、慰霊の季節となると、その様子が、必ず、テレビで放送されます。

「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい。」

と、犠牲になられた『久保山 愛吉』さんが、言い遺した言葉も、同時に紹介されましたす。

今でも、核実験を続けている国々。

自己破滅へ、そして、人類滅亡へと、向かっている気がしてなりません。

そして、展示室の最後には、長崎市の、平和活動について、紹介されていました。

『平和祈念式典』の様子や、『長崎平和宣言』など、また、海外での活動も紹介されていました。

核兵器の無い、平和への、とても強い想いが、伝わって来ました。 Img_4569
これは、全くの蛇足なのですが、『陸上自衛隊 少年工科学校』時代の話です。

第3学年時の、区隊長(生徒2期 衣川2佐)の言葉です。

(※注:あくまでも、私の記憶の範囲内です。)

「老婆心ながらぁ~!

 諸君に、言っておきたいことがあるぅ~!

 これはぁ、あくまでも、私見であ~る!

 私は、(64式)小銃は、武器とは思っていない。

 あくまでも、平和を守るための道具だと思っている。

 (陸上)自衛隊には、様々な装備(品)がある。

 しかしながら、それぞれに、きちんとした名前が付いており、どれも、武器とは呼んでいない。

 あくまでも、こじつけではなく、『戦車』は『74式戦車』、
 『榴弾砲』は『FH-70』と、それぞれ正式名がある。

 諸君が、今、手にしている(64式)小銃は、『火器』の分類に入る。

 武器では、無ぁ~い!

 『火器』には、『器(うつわ)』と言う字が入っている。

 つまり!

『火器』は、それを持つ者、使用する者の、『器(うつわ)』によって、何にでも変化する。

人殺しの道具になってしまうのか?

平和を守る道具になるのか?

要は、使い方を間違えば、どんなものだって、例えば、爪楊枝だって、針だって、武器に成り得る。

諸君の、心構えは、できているのか?

戦争は、二度と起こしてはならん!

装備品は、『武器・兵器』に、してはならん!

老婆心ながらぁ~!

これから、各中期校に分かれ、本格的に、(装備品について)学ぶことになる。

平和を守るための道具を、学んで欲しい!

今一度、姿勢を正し、考えを固め、心して励んでくれ!

以上!」

私は、『S氏』に、車椅子を押してもらいながら、そんなことを、想い出し、

(『核』は、絶対的に、使い方を誤ってはいけない!
  いくら、抑止力と言ってもだ!)

と、思っていました。


(つづく・・・。)(^^;


皆様、今日も、好い一日をお過ごしくださいませ!(^-^)/

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2016年12月 1日 (木)

『計画進行中~!』(^-^)/

おはようございます!(^o^)/


【計画進行中~!】(^-^)/


先日の、恩師との打ち合わせが終わった後、概略の様相が見えてきましたので、早速、同級生達と、話し合いの場を持ちました。 Img_4912
私と『きゃさりん副長。』は、寒さが、とっても厳しかったので、部屋を暖めるために、話し合いの30分前から、準備を行なっていました。 Img_4915
予定では、3時間程度の話し合いを見込んでいました。 Img_4918
定刻前に、みんなが集まってくれたので、そのまま、打ち合わせに入りました。 Img_4920
まず最初に、先生との打ち合わせ記録を読み合わせ、認識を共有しました。 Img_4922
そして、企画段階から、計画書作りへと移行したのですがぁ! Img_4924
何ともまぁ、あれよあれよと、話が纏まっていき、1時間程度で、話し合いは、終わってしまいました。(^^; Img_4925
役割分担、今後の行動予定(個々と全体)、タイムスケジュール、相互の連絡体制、次の話し合いの日程、などなど。 Img_4926
とにかく、速かったですねぇ。(^-^)/ Img_4927
過去に、こんなにもスムーズに事が運び、短時間で、すんなり決まってしまうと言う会議は、殆ど、経験したことが無かったです。 Img_4928
過去に経験してきた、とある教育運動団体の会議なのですが、ひょっとすると、私が住んでいる、周辺の地域だけなのかも知れませんが、

のろのろ、グズグズ、ダラダラ、バラバラ、へなへな、押し付け合い、擦り合い、黙り込み、欠席裁判、責任の所在は不明確、役割分担無し、計画書は誰も作らない、安全は後回し、お金は誰も出さない、資材の準備はしない、船頭が多数、人の話は聞かない、自分の意見はゴリ押し、『長』は素っ惚ける、等々。

結局、最後には、

・「去年通り!」

・「いつも通り!」

・「できる人がやる!」

とまぁ、2時間から、3時間もの時間を掛けても、そんな程度。

これじゃぁなぁ。

運動が衰退し、加盟員が、急速に減少し、団が消滅して行く。

そんなことは、当たり前のことなのでしょうねぇ。(^^;

まぁ、その様な団体のことは、放っておきまして、今は、与えられた仕事に集中!

『きゃさりん副長。』も、えらく意気込んで、励んでいるとのことで、こりゃぁ、負けちゃぁいられないなぁ。(^^;


皆様、今日も、好い一日をお過ごしくださいませ!(^-^)/

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2015年11月11日 (水)

『人と天気だけには!』(^-^)/

(# 31)

おはようございます!(^o^)/

【人と天気だけには!】

(※9月22日(月・国休)の記憶です。)

朝食を、鱈腹、お腹に詰め込んでしまった、私と『きゃさりん副長。』は、ホテルの部屋に戻って来てから、かなりのんびりとしていました。

この日は、タクシーの運転手さんの忠告を聴いて、素直に従うこととし、『松島行き』は、断念していました。
何せ、朝食の段階から、『嵐ギャル?・嵐ファン?』が、ホテル内でも溢れ返っていまして、ホテル中央の吹き抜けから見える、1階のフロント脇の、クロネコヤマトのカウンターは、女性と荷物で、既に、すし詰め状態でした。(^^;

『きゃさりん副長。』は、
『きっと、荷物を送っちゃうのよ。
 それで、身軽になって、コンサートに行くのよ。』
と、観察をしておりました。

私達は、出立の準備は終わっていましたので、
『午前中は、どうする?
 お土産でも見に行く?
 でも、まだ時間が早過ぎない?
 第一、お店が開いていないでしょ。
 でもぉ、コインロッカーが、埋まっちゃうしぃ。』
などと言って、やや、ボォ~っとしながら、テレビを観ておりました。

『きゃさりん副長。』は、何となく、窓から、景色を眺め始めたのですが、いきなり、
『ちょっと、ちょっとぉ~!
 何だか、山が(陽射しで)明るくなって来たよぉ。
 今日も、熱くなるんじゃない?』
と、言い出しました。

今回の、仙台訪問の10日ほど前ですが、常総市の水害や、宮城県大崎市の水害があり、また、ぐずついた天候が続いていたこともあり、気温は、かなり低い日が続いていました。

そこで、私達は、仙台訪問前の、荷物の準備段階で、
『仙台だもん!(失礼!)
 長袖が必要じゃない?
 上着も必要かもよ。
 着替えるのに、トレーナーの方が楽でしょ。
 あと、雨具の代用ができるものが必要じゃない?』
などと言い出しまして、土日を遣って、私の荷物の大準備をしていました。

私の旅行カバンの中には、
・薄手のトレーナー
・厚手のトレーナー
・長袖のシャツ
・膝掛け
それに加えて、野球の審判を行う際に、雨天になった場合、インサイドプロテクターを着けていても、頭からすっぽりと被ることができる、防水・撥水ジャンパーまでも、ぎゅうぎゅう詰めに押し込んでいました。(^^;

『きゃさりん副長。』は、
『もう、トレーナーなんて、要らないんじゃない!
 私達も、今の内に、(不要な衣類を)送っちゃおうよ。』
と言いまして、フロントに電話をしておりました。

そこで、私達は、荷物の仕分けを始めたのですが、待てど暮らせど、係の方が来ない。
やっと来てくれた時には、
『誠に申し訳ございません。
 非常に立て込んでおりまして。』
と、とても恐縮されておりました。
これもやはり、きっと、『嵐』の影響の一部だったのでしょうねぇ。(^^;

ダンボール箱に衣類を詰め込み、またまた、係の方を、首を長くして待ちまして、やっとのことで、荷物の送付手続きを終えた時には、チェックアウト1時間前になっていました。

『きゃさりん副長。』は、
『全くもう!
 こんなに手間が掛かって、誰のせい!』
と、声を荒げていたので、
『嵐のせいじゃないの。』
と言いましたら、
『違うわよ!
 こんなに良い天気になっちゃって、熱くなっちゃって!
 要らない服を、持って来過ぎなの!
 もぉ~、超晴れ男なんだから!』
と、私のことを責めていたのでありました。
とは言え、その服を持って行く様に言ったのは、貴女なんだけどなぁ。(^^;

この時、私は、

『あんたは、昔っから、人(師や友)と、天気だけには、恵まれるからねぇ。
 くじ運は無いし、他は、全く駄目だけど。』

と言う、事ある毎に、常々言っている、母親の言葉を思い出していました。

私は、ボーイスカウトの指導者になってからは、ボーイスカウトの活動においては、大荒れの天気に見舞われた記憶が、あまりありません。
12NJを除いて、10NJ・13NJ・5NV・6NV・2RSなどは、炎天下だったことしか覚えていないしぃ。
とは言っても、大会に参加された方は、同様なのですが。(^^;

それで、特になのですが、約10年前に、脳出血を発症し、それから、ベンチャー隊とローバー隊の隊長を兼務しだしてからは、活動記録によると、
・降水率は、5%以下
・晴天率は、80%台
と言う様な状況です。

ですがまぁ、偶然の産物であるとも思いますし、
(そんなの、たまたまだよ!)
と言うことなのかも知れません。

とは言え、ローバー隊、及び、ベンチャー隊のスカウト達は、
『雨具は、持って来なかった。』
『平出さんが行くって言うから、絶対に晴れると思った。』
『朝、曇ってたけど、やっぱし、晴れた。』
『こんなに曇っているのに、雨が降って来ない。』
『解散した途端に、雨が降ってきた。』
『夏に、平出さんが出て来ると、猛暑や、酷暑になる。』
『(私が居ると)絶対に晴れる!』
などなど、迷信を、唱え続けています。(^^;

また、今回の、仙台在住のローバースカウトも、
『やっぱり晴れた!
 それも、熱いっす!
 尋常じゃないっす!
 1週間前じゃ、こんな天気、考えられなかった。
 それで!
 いつ、帰るんでしたっけ?
 こりゃ、(私達が帰った後の)週末は、(天気が)崩れるなぁ。』
などと、余計なことを言っておりました。(^^;

それに、『きゃさりん副長。』も、
『本当に、その(晴れる)強運を、7億円とか、他に生かせられないのかしら。
 勿体無いなぁ。』
などと、余計なことを言っていましたが、私には、『くじ運』が無いのです。
これは、一番身近で、私の母親が言っていることですから、確実なことだと思います。(^^;

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さてさて、もう一つ。

『人(師と友)に恵まれること。』

こちらは、私自身、実感として、持ち続けています。

とは言え、幼稚園や、小学校、また、中学校の頃は、先生(教師)を観て、
『恵まれた!』
などと言う評価は、幼稚な私には、できる訳がありません。
しかしながら、母親達が、評判を立て、評価をしていたのであれば、多分、きっと、多くの先生たちに、恵まれていたのでしょう。

私自身が、『師』を意識し始めたのは、やはり、
『陸上自衛隊 少年工科学校』
に、入校してからだと思います。

そこで、出逢った、
・教育隊長
・区隊長
・先任助教
・助教
・普通学教官や、専門学教官
・クラブ活動や、同県人などの諸先輩
などの、あまたの人々。

その皆様が、『師』として、私の心の中で、意識され出したと思います。
また、学年が進むにつれ、同期生の中でも、尊敬する人物が現れ、同期生に対しても、『師』を意識したことはあったと思います。

三等陸曹となり、部隊配置されましたが、何れの部隊でも、愉しかったことしか覚えていません。
弱冠19才の若造であり、新米の三等陸曹には、部隊の皆さん全員が『師』でありましたが、その皆様の指導を受け、とても愉しく勤務させて頂き、本当に、恵まれたと思いました。

そして、今でも、『師』と仰いでいる方はいらっしゃいます。
何かと言えば、直ぐに電話をしてしまったりします。
本当に厄介で、面倒だと思われているかも知れません。
ごめんなさい。(^^;

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それから、『友』です。

勿論、幼稚園、小学校、中学校と通して、友達はいた訳ですが、それは、ちっぽけな町内の話しでありました。

それが!

『少年工科学校』に入校するや否や、何と、518名もの『友』が、それも、日本全国各地から集った『友』が、一挙にできてしまったのです。
このことは、『日本』を知らなかった私にとりましては、とても大きな出来事でした。
私は、この時から、『日本国』を意識し始め、そして、『友を持つ』ことを意識し始めたと思います。

実際問題、幼稚園の時には、仲良くしてくれた女の子のことしか覚えていません。(^^;

小学校では、かなりの虚弱体質で、病気で学校をよく休み、また、そのせいで、いじめを受けていましたので、その相手と、少年野球の仲間と、運動会の時のリレーの仲間。

中学校では、野球部の仲間と、ボーイスカウトの仲間と、音楽仲間ぐらいでしょうか。

今考えてみますと、その程度の記憶しかなく、ですが、母親に言わせますと、
『友達には恵まれていた。』
そうなのです。
私が思うには、その友達たちには、私からは、何もしてあげずに、一方的に、その友達たちに、甘え続けていたのではないのかと思います。
だから、記憶が薄いのではないのかと思います。

やはり、転機は、『少年工科学校』にあったと思います。
地元を離れたお陰で、中学校時代の友人との絆が深くなりました。
ボーイスカウトの仲間とも、頻繁に連絡を取り合いました。
そして、同期生達。
流石に、518名もいますと、全部が全部を、知ることは叶いませんでした。
それでも、何かしらの共通点を見付ける様に努力し、仲間意識を高め、絆を深めていったと思いました。
彼等がいてくれたからこそ、どんなことにも耐えられ、粘り続けることができ、勇気が湧いたのでしょうね。
そのことが、どれほど、今の自分に役立っていることか!

それから、大学で出逢った友人達。
私が、勤務で講義に出られないとなると、あの手この手を使って、出席したことにしてくれたり、ノートをコピーしてくれたり、レポートを途中まで作成していてくれたりと、本当にお世話になりました。
彼等がいなかったら、私は、絶対に、卒業はできなかったと思います。(^^;

それにしても、私は、とても多くの『友』のお世話になりました。
と言うか、今でも、お世話になり続けています。
『友』には、恵まれ過ぎでしょうかねぇ。(^^;

今回もまた、仙台では、M氏と、T氏の二人にお世話になってしまいました。
特に、M氏には、大変な労力を遣わせてしまったと思います。
大事にしなきゃ!
だって、『友』は、『財(たから)』ですものね。(^o^)/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

それから、もう一つ。

これは、ボーイスカウトでの『師』です。

私が、自衛官を退官し、地元に戻って来た時、直ぐに、ボーイスカウトの指導者へのお誘いがありました。
私は、喜び勇んで、指導者の任に就いたのですが、その時に、スカウト達が、ひと学年、8名、一挙に退団してしまったことがありました。

本来であれば、私は愕然とし、反省点を見出さなければならなかったはずなのですが、
『なんだ、あいつ等(スカウト達)は!』
の、一点張りでした。

そこに、
『平出君のやり方は、自衛隊方式だから。』
と、話しをしてくれた、お父様がいました。

その後、私は、どうしたら良いのか、全く解らなくなってしまったのですが、
・自衛官を定年退官された方
・海上保安官を退官された方
のお二人が、ボーイスカウトの指導者の先輩として、私を、導いてくださいました。

今考えると、そのお二人が、ボーイスカウトの指導者としての私の、最初の『師』であったろうと思います。
誠に残念ながら、お二人とも、既に、鬼籍に入られております。

私は、
(これ以上、失敗を繰り返してはいかん!)
と思い、ボーイスカウトの学習や、指導者に対する教育訓練などへの奉仕を続けて行きました。
教育訓練の場では、多くの諸先輩が、とても素晴らしい『師』となってくださいました。
また、とても信頼できる皆様でありました。

その中でも、
・何でも知っている
・何でもできる
・何でも(道具や教材教具を)持っている
・何でも(工具などを)使うことができる
・話し方が抜群に巧い
・声が通る
・実に面白い
・笑顔が素敵
・人脈が幅広い
・周囲の人々からの信頼が厚い
と言う、まるで、『ドラえもん』の様な方と、出逢ってしまいました。

Img_4693

私は、
『この人だ!』
と、思いまして、即、勝手に、自分の『師』と決めつけてしまいました。
その方とは、28年間、お付き合いをさせて頂きました。
しかしながら、誠に残念です。
本年4月1日、いきなり旅立たれてしまいました。
そのショックもあり、今は、ボーイスカウトの『師』は、考えられない状態です。

『人に恵まれる。』と言うことで、余談を一つ。
約10年前に、脳出血を発症し、救急搬送された病院で、私を助けてくれたドクターは、ボーイスカウト出身者でありました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

などと、思いを馳せて、考え込んでいましたら、
『行くよ!』
と、『きゃさりん副長。』に声をかけられ、はっとして、現実に戻った私でありました。(^^;

(つづく~!) (^-^)/

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2010年4月10日 (土)

『25年前の今日。』(^-^)/ (今現在)

今から25年前、昭和60年 4月10日の事である。

流石に、曜日までは覚えてはいない。

但し、天気は、晴天であった。

その時は、防衛庁にいた。

六本木の、一等地である。

今では、東京ミッドタウンとなってしまい、防衛庁の面影は、全く無いであろう。

残っているのは、檜町公園だけであろうか。

その10年前、昭和50年 4月10日に、私は、陸上自衛隊 少年工科学校に、陸上自衛隊生徒 第21期生として、入校をした。

それから、自衛官として、丁度、10年の、節目の日でもあった。

家にいるのが嫌で、家の仕来たりが嫌で、家の雰囲気が嫌で、家の食事が嫌で、とにかく、家を出たかった。

それに、普通の高校生活などは、全く、送りたくもなかった。

とにかく、人と同じ事をするなどとは、考えられなかった。

高校に行き、大学に行き、そして就職をする。

そんな事をして、一体全体、何になるのだと思っていた。

また中学の担任からは、

『君は、日大三島高校に行けば良いんだ。それでそのまま、大学に行けば良いんだ。』

と言われていた。

その、決め付けられた言葉に対しても、猛反発をしていた。

とにかく、全てが嫌だった。

そこから抜け出したかった。

陸上自衛隊 少年工科学校は、そんな私にとっては、格好の場所であった。

少年工科学校を卒業後は、航空学校を卒業し、東部方面ヘリコプター隊、中央基地通信隊を経て、防衛庁 檜町警備隊本部に、辿り着いていた。

本当に、楽しい日々であった。

まるで、水を得た魚の様に、動き回っていた。

自衛官としての時代は、毎日が、全て、充実していた。

職務も、食事も、そして、東京理科大学にも通学をし、野球・空手・銃剣道・格闘道、等々。

本当に、楽しかった。

申し分の無い、生活であった。

私は、自衛官として、そのまま、過ごすものだと、思っていた。

とにかく、そんなにも居心地の良い場所を、離れるなどとは、思いもしなかったのである。

行く行くは、北海道に行き、スキー三昧。

沖縄だって、何処だって、日本全国を駆け巡ってもみたかった。

とにかく、家に戻るなどとは、考えも及ばなかった。

父親が、木から落ちた。

下半身不随になるかも知れない。

3ヵ月は、絶対安静である。

その様に聞かされたのは、防衛庁に居た頃であった。

父親は、本当は、園芸農家をやりたかったらしい。

その先には、造園業を、営みたかったらしい。

通信教育で、造園業の2級の資格も取った。

しかしながら、そこから先には、進む事ができなかった。

それは、木から落下したためでは無かった。

資金も無ければ、その他の資格も無い。

人脈も無ければ、農業経営のセンスの欠片も無い。

それに、たかだか2級程度では、何もできないのである。

近所の皆様に頼まれて、植木屋さんの真似事を、するのが精一杯であった。

父親は、木から落ちた。

頭蓋骨も、背骨も折った。

骨盤まで折った。

私はその姿を観て、これはもう、駄目だと思った。

そう思うしか無かったのである。

その当時の、自衛官の退職については、依願退職の場合は、手続きに、相当な時間を要した。

それには、様々な事由があったからである。

詳しい事は、書き記せないが、辞令が出るまでには、3ヵ月ぐらいの、時間を要したと思った。

その頃は、パソコンは、出始めであったが、まだまだ、和文タイプの時代であった。

文書を一つ作るのにも、相当な時間を要した。

今でもそうであろうが、国の機関の文書規則は、物凄い量の文章によって、制約をされている。

それもまた、各省庁によって、違うのである。

陸上自衛隊の文書規則は、2cmほどの厚さの、立派な書籍になっていた。

尚且つ、取り扱い注意になっていた。

それに従って、文書を作成しなければならなかった。

総務科の皆さんは、本当に、苦労をしていた。

横目で観ていて、総務だけは、文書陸曹だけは、やりたくは無いと、思っていた。

そうして、私の退職申請が、なされて行った。

私は、何回か、長期の休暇を頂き、稲刈りなどで、家にも戻っていた。

ところがである。

何回目かの時に、父親が、退院をすると言う。

大丈夫、だと!

私は、途方に暮れた。

一旦、覚悟を決めたとは言え、本当に、がっかりとした。

がっかりとしたどころでは無かった。

その時の想いは、とても、表すことはできない。

とにかく、怒る気にもなれなかった。

ドクターや、家族や、その周囲の人間達は、諸手を挙げて喜んでいる。

私一人だけが、悲しんでいた。

何とか、東京理科大学を卒業できることが確定し、教授の斡旋で、就職先も決まっていた。

そして、その上、結婚まで決まっていた。

もう、後戻りはできなかった。

総務科の先任陸曹は、

『1年以内なら、戻って来る事ができる。』

『7月の人事異動が過ぎたら、直ぐに申請を出せ。』

とまで言ってくれた。

しかしながら、全てが、退官確定の方向に、進んでいた。

結婚が、絡んでいた。

奥様になってくれる方は、婦人自衛官(当時の呼称:現在は、女性自衛官)であった。

それで、富士学校への転属も決まっていた。

もう、私一人での、話しでは無かったのである。

父親の木からの落下が、とても多くの、非常に多くの人々の、人生を、巻き込んでしまった。

後戻りはできない。

本当に、複雑な心境であった。

今考えてみると、ひょっとしたら、『覚悟』はできていなかったのではないのかと、思ってしまう。

いやきっと、『覚悟』はできていなかった様に思う。

後ろ髪は引かれていたであろう。

心は、六本木。

想いは、防衛庁。

それを無理矢理に、心の中に、閉じ込めていたと思う。

就職決定。

結婚決定。

新住居決定。

奥様の転属決定。

どれもこれも、破棄にする訳には行かなかった。

どれもこれも、実行を、するしか無かった。

そこで、自分自身が喜んでいると言う、演技をするしか無かった。

それによって、自分自身を、納得させる以外に、無かった様に思う。

実に情けなく、悲しく、空しいことであった。

決して、父親のせいにはしたくは無い。

だけれども、あの父親は、本当に、大事な時、ここぞと言う、大チャンスの時に、必ず何かをやらかしてくれていた。

必ず、大ピンチを作ってくれた。

今でも、不動産の関係で、ピンチを負わされている。

仕方が無いのだ。

とにかく、仕方が無いのだ!

父親なのだ。

仕方が無いのである。

だけれども、諦めがつかないし、踏ん切りもつかないし、覚悟もできない。

その昔、高校受験の頃であったろうか。

受験の面接で、

『尊敬する人は?』

と聞かれたら、

『父親です。』

と、答えなさいと、教え込まれた事があった。

私は、とてつもなく、怪訝に思っていたが、まぁ、先生が言うのだから、それに従っておこうぐらいの気持ちで、あまり深くは考えなかった。

しかしながらそれを、今は、とてつもなく、後悔をしている。

どうして、父親を尊敬しているなどと、心にも無い事を言ってしまったのか。

それが、その事が、そもそもの、自分自身の心の眼の、曇りの始まりであったのかも知れない。

父親の事は、残念ながら、全く、尊敬などしていない。

菩提寺の住職と大喧嘩をし、それはまだ良いが、それですぐさま、墓を引っ越してしまった。

そうしたらその翌年に、亡くなってしまった。

何をやっているんだと、いつも思ってしまう。

本当に、悲しくなってしまう。

そんな事はともかくとして、4月10日は、少年工科学校への入校日でもあり、自衛官を退官した日でもある。

今、2分の1世紀を生きた。

そしてその半分の25年前、もう、25年にもなってしまうのか。

だけれども、一つ一つ、鮮明に覚えている25年前。

その日に私は、自衛官を、退官してしまったのである。

今までは、そんなには、気にはしていなかったが、25年の節目を考えたら、一挙に、想いが巡ってしまった。

4月には、記念と記憶に残る日が、随分と、多い様な気がする。

(おしまい!)(^-^)/

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2010年2月25日 (木)

『格安? 消耗品? がっかり!』(>_<)! (今現在)

私のパソコンと、プリンター。

何時頃、購入をしたのであろうか?

脳出血を、発症する前であったろうから、もう彼此、5年は経つのではなかろうか?

なかなか頑張って、動いてくれてはいるのだが、このパソコンも、何時まで盛ってくれる事やら?

それに、もう、ウィンドウズ7の時代である。

XPを使用しているなどと、言えなくなって来てしまっている。

はてさて、どの様な時代に、なってしまうのであろうか?

ボーイスカウトコンテストに応募をしようと思っていたが、プリンターが、壊れてしまっていた。

そのプリンター。

勿論、パソコンと、一緒に、購入をしたものであった。

昨年末、年賀状を印刷しようと思ったら、突然、黒インクが、出なくなってしまった。

クリーニングをしてみても、全く、出て来ない。

そこで、プリントヘッドの部分を綿棒で擦ってみた。

そうしたら、何とかインクが出て来たのである。

本当に、助かった。

何とか、年賀状の印刷はできたのである。

そして、年明け。

ボーイスカウトの資料を印刷しようと思っていたら、やはり、インクが出て来なくなってしまった!

もう、焦った、だなんてものではない。

とにかく、印刷ができなければ、退出物も作れない。

『きゃさりん副長。』には、大変申し訳が無かったが、メールで資料を送り、それでプリントアウトをしてもらい、何とか、間に合わせる事ができた。

当初、プリンター本体を、修理に出さなければならない、とは、思っていなかった。

以前、プリンターを購入したお店では、『プリントヘッド』だけでも、販売をしていた。

だから、それを購入し、交換をすれば、それで全ては、間に合うと思っていた。

『きゃさりん副長。』に、パソコンショップまで、一っ走り、して貰った。

そうしたら、『もう、販売はしていない!』との事であった。

『何ぃ!』、

とは思ったが、キャノンに電話をしてみると、

『本体ごと、修理に出して頂いています!』

との事!

仕方が無かったので、『きゃさりん副長。』に、プリンターを梱包してもらい、それをパソコンショップまで、持って行った。

そのプリンターが、返って来たのである。

修理費は、約1万円。

果たして、高いのか?

安いのか?

私には、その感覚が無かった。

ただ、店員さんの話によれば、

『この手の機能を持っている物で、新しいタイプの物は、2万円出せば、買う事ができます。

安い物では、1万円程度で、購入ができます。』

との事であった。

たった、4~5年のうちに、一体全体、パソコンの世界は、どの様な事に、なってしまったのであろうか?

とにかく、激安と言うのか、格安と言うのか、金銭感覚が、全く無くなってしまった。

私のプリンターは、買った時には、5万円近くもした。

それが、今では、2万円?

1万円?

だとぉ?

機能が落ちているとか、必要最小限のものしか付いていないだとか、そう言う事ならば、まだ解る。

だけれども、機能が向上して、それでとてつもなく、安くなっていると言う事に、とにかく、愕然とした。

それにプリンター本体が、とてつもなく、小さいではないか!

全く、大きさが違う。

本当に、大きさが、小さくなってしまっている。

一回り?

いや、二回り?

そんなものでは、無いかも知れない。

二分の一近く、小さくなって、いるのではなかろうか?

それに、随分と軽そうである。

おまけに、無線LANだそうである。

もはやプリンターも、消耗品、なのであろうか?

いや、確実に、消耗品であろう。

今から25年前、防衛庁にいて、尚且つ、東京理科大学に通っていた頃。

5インチのフロッピーディスクが普及し始め、それが、パソコン本体に組み込まれて、一大、センセーショナルが、巻き起こった。

とんでもない、革命の様に、思った。

当時、防衛庁の、檜町警備隊本部には、パソコン、などと言う物は、その類の物は、全く無かった。

コピー機だって、ありゃしない!

文書は、全部、和文タイプで、打っていた。

内局や、施設庁には、勿論、パソコンや、コピー機などはあったが、我々、末端の部署には、なぁんにも、無かったのである。

ましてや、プリンター、などと言う物が、存在をするなどとは、考えられなかった。

では、大学ではどうだったかと言うと、教授の部屋には、何かしらの『物』が、あった様に思った。

だけれども、我々学生が使える物と言ったら、まず、入力に、マークシート。

記憶装置は、磁気レコーダー。

出力は、パンチのリボン。

そしてプリンターは、ガーガー、ガーガー、唸る、インクリボンがくっ付いた、まるで、セーターの編み機の様な、代物であった。

本当にここが、大学か?

と思う様な、酷い状態であった。

その頃の事を、ついつい、思い出してしまう。

その当時では、スキャナーがくっ付いて、カラーコピーまで、できてしまうプリンターなんて、とても想像ができなかった。

だけれども、当時は、現代の『物』になる様に、研究は、進められていた様にも思った。

ペーパー電池。

ペーパーディスプレイ。

その様な物も、既に研究段階に、入っていた様にも、思った。

だけれども、プリンターの、有り様である。

かくもこうも、ここまで辿り着いてしまっては、今更、何も言う事が無い。

素直に、時代の流れに、従うまでしかない。

それにしても、何だかなぁ?

である。

その昔、『貴重品』、と呼ばれていた物が、沢山あった。

『腕時計』。

『万年筆』。

『自動車』。

『テレビ』。

『洗濯機』。

『冷蔵庫』。

等々・・・。

そして、『携帯電話』も、『パソコン』も。

しかしながら今は、『何が貴重品』なのか、解らなくなって来てしまった。

一体全体、何が『貴重』なのであろうか?

『物』には、『貴重な物』が、無くなってしまったのであろうか?

ボーイスカウトの、『おきて』の一つに、

『スカウトは質素である』

と言う項目がある。

副文には、

『スカウトは、物や時間を大切にします。

むだをはぶき、ぜいたくをせず、役立つものは活用します。』

とある。

プリンターを、修理して1万円。

プリンターを、買っても1万円。

プリンターを、修理に出して、1週間。

プリンターを、購入すれば、時間は掛からない。

何だかなぁ?

『質素』って、何だろう?

本当に、訳が解らなく、なって来てしまった!

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2010年1月 9日 (土)

『年賀状! 400!』(^-^)/ (今現在)

残念ながら、昨年と言うのか、今年と言うのか。

はたまたは、今年度と言ったら良いのか?

まぁ、今回で、と言う事になるのであろうか?

私が、中学時代から、ずうっと使っている、万年筆がある。

それはポケットに差し込む、携帯式のものではなくて、机上に、立てるタイプのものである。

中学校に入学した時に、幾つかの万年筆を頂いた。

パイロット・モンブラン・パーカーなど、大そうなものを、幾つか頂いた。

だけれども、それらの万年筆は、一体全体、何処に消えて無くなってしまったのであろうか?

それは本当に、不思議でならない。

本当に、何処に行ってしまったのであろう?

ただ、それらの万年筆は、実際の所、あまり使わなかった。

ただ単に、格好付けのため、胸のポケットに、差し込んでいただけだった様に思う。

要は、インクも入れず、書きもせず、ただ単に、飾りとしてしか使わなかったと言う事である。

使わないと言う事は、結局は、用無しであり、大事にもしなくなってしまうと言う事なのであろう。

私は、どちらかと言うと、高級品を、あまり使わない。

と言うか、生まれが貧乏だった為に、高級品と言う物には、出会わなかった様にも思う。

だから、ブランド嗜好は、全く無い。

安物でも良いので、使い易いものを、大事に長く使う。

またそれが、父親の躾の様でもあったと思う。

中学時代、その頂いた、大そうな万年筆達の代わりに、2本の、机上に立てる方式の万年筆を買った。

黒と、赤である。

それらを机の上に立てていると、何となく、勉強家になった様な気がした。

何となく、文字が書けるような気もした。

眺めていて、何となく、にやけていた様にも思う。

私は、字を書くのがとても下手糞である。

本当に字が汚い。

だから、文字を書くのが、本当に嫌だった。

それに、自分の字を人に見せるのも、本当に嫌だった。

鉛筆も、シャープペンシルも、使いこなせなかった。

だから、人に見られない様に、『H』の芯を使った。

酷い時には、『4H』なんて物も、使用をした。

先生から、よく言われたものである。

『せめて、HBか、できれば、Bを使いなさい。その方が、ペンの滑りが良くなって、字もきちんと書けるはずだから。』

でも私は、言われれば言われるほど、意固地になり、濃い芯は、決して使わなかった。

また、とても厄介だったのが、ボールペンである。

中学時代、学校では、ボールペンなどは、まず、使う機会が無かった。

だけれども、ボーイスカウトの報告書は、消えないように、残るように、全て、ボールペンで書かされた。

それがまた、インク玉ができたりして、それが滲んだりして、とてもとても、それはそれは、汚いものであった。

だけれども、それでも隊長は許してくれた。

それはそれで、良かったのかも知れない。

だけれども私は、やっぱり、自分が許せなかった。

そんな時に、机上用の万年筆に出合ったのである。

ボーイスカウトの報告書を、万年筆で書くようになった。

本当は、雨で滲んでしまうので、万年筆は、避けるべきなのであるが、清書をして、隊長に提出する物については、万年筆を使うようになった。

すると、何となくではあるが、ちょっと、字が綺麗になった様な、そんな気がした。

それから万年筆を、ずうっと使う様になった。

少年工科学校に入校が決まった時、その万年筆を、どうしようかと考えた。

机の上には、ペン立があったが、それは叔父から貰った、ガラス製の物であった。

それを、少年工科学校に、持って行く訳にはいかない。

どうしようかと悩んでいた時に、キャップが有る事を知った。

クリーム色のキャップである。

それを購入して、万年筆達も、少年工科学校に連れて行った。

それから、何処に行くにしても、万年筆達は、一緒であった。

自衛隊時代は、本当によく、手紙を書いた。

当然、携帯電話などと言う物は無い。

公衆電話だって、数が限られていたので、電話を掛けたいと思っても、誰かが使用をしていて、空いていなければ掛けることはできない。

従って、本当によく、手紙を書いた。

その時には決まって、万年筆達が、活躍をしてくれた。

私は、黒いインクが好きである。

青いインクは、ちょっと苦手である。

自衛隊にいる頃に、

『青インクを使いなさい。』

と、指示をされた事がある。

仕方が無かったので、例のパーカーかモンブランか忘れてしまったが、その万年筆に青インクを入れて、使ってみた。

すると、全く、字が書けないのである!

ペンが滑らないのである。

インクの出が悪いのか、私の使い方が悪かったのか、さっぱり解らずにいた。

とにかく、上手く書けないのである。

そんな時に、総務と言うか、人事と言うか、主に事務処理を専門にしている方から、話を聞いた。

『万年筆は、使い込まないと、上手く字が書けないよ!』

『人によって、筆圧が違うし、ペンの角度も違ってくる。だから使い込めば、使い込むほど、その人に、ペンが合って来るんだよ。』

知らなかった!

本当に、何も知らなかった。

万年筆は、使ってあげなければ、本当に駄目になってしまうと言う事を。

私は何も知らずにいたのである。

『たまには、洗ってあげなさいよ。』

とまで言われた。

えっ? 万年筆って、洗うものなの?

と、思ったが、

『だって、ペン先は、金でしょ? 金が錆びる訳が無いじゃん。』

だそうである。

それから私は、今まで使っていた万年筆と同型の、青色の万年筆を買って来て、それを使う様にした。

自分に、ペン先を合わせるためである。

どうも、高級品は、肌に合わなかった。

ただ、その青色の万年筆は、今は、手元には無い。

防衛庁に、形見として、置いてきた。

今想えば、どうして持って来なかったのだろうかと思う。

防衛庁は、市ヶ谷に移り、そして防衛省になり、その跡地は、東京ミッドタウンになってしまっている。

防衛庁時代の、檜町警備隊は、廃隊となってしまった。

青い万年筆には、本当に、申し訳が無いことをしたと、今でも悔やんでいる。

中学時代から、使い出した万年筆。

それで毎年、年賀状の宛名を書いていた。

考えてみれば、その万年筆は、もう、30年以上も使っている。

確かに、使い込めば使い込むほど、身に馴染んでくると実感している。

しかしながら、今回は、その万年筆を使う事ができなかった。

年賀状ソフトが、動かなかったこともあるが、鎖骨を骨折してしまったのが、一番の原因であろう。

左半身方麻痺になり、それでも、リハビリの為と思い、宛名書きだけは、毎年していた。

けれども、今年は、それができなかった。

印刷に頼ってしまった。

中学までの仲間達、少年工科学校、陸上自衛隊の各部隊、大学、空手部、野球の仲間、審判部の方々、ボーイスカウトでお知り合いになった方々など、また、その皆様を通じて、更にお知り合いになった方々、などなど・・・。

とにかく、ここには、全て挙げることができないが、本当に、多くの方々と、お知り合いになれたと思っている。

今は、概ね、400枚の、年賀状の交歓をさせて頂いている。

過去3年間の年賀状を並べ、確認をしながら、宛名を書いて行く。

そうすると、過去の思い出が甦ったり、相手の方の近況の変化や、様子も再確認ができる。

それも本当に、一つの楽しみでもあった。

400枚の年賀状の宛名を書くのは、とても時間と労力を要する。

とても一日では、終わるものではない。

それでも私は、構わないのである。

とにかく、30年以上付き合って来てくれた万年筆と、それに思いを込めて、宛名を書いて行く。

それが年末の、一つの楽しみでもあったのである。

ただ、印刷の『楽』さ加減を、知ってしまった。

とにかく、速いのである。

とてつもなく、速い!

今は、とても悩んでいる。

来年は、どうしようかと・・・。

本当に、鬼が笑いそうな話である。

何を、言っているんだ? と。

残念ながら、年賀状の裏側に、細かな文字を書くことはできない。

要は左手で、賀状を押さえることが、できないからである。

役場などへの申請書も、誰かに押さえていて貰わないと、記入をすることができない。

来年は?

そして、万年筆は?

それより、今は!

とにかく、鎖骨が早く治ることを祈り、リハビリの再開時期を早められる様に、規則正しい生活を送るしかないであろう。

そして、もっと大事なのは、来年もまた、年賀状を出すことである。

事故無く1年間を過ごし、そして年賀状を贈ることができるように、自助努力を怠らない事であろう。

とにかく、頑張らねば!

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2009年11月 6日 (金)

『理空会!』(^-^)/

私が大学に入り、余裕が、多少出て来た頃である。

その頃、スキーにとてもはまり、できれば、体育会の『スキー部』に入りたいと思っていた。

当時、体育会の各部室は、9号館の地下1階に有り、その部室の前を、うろついていた。

スキー部の部室を訪ねると、鍵が掛かっていた。

後で判った事であるが、その時スキー部は、ロードワークに出掛けた後であった。

まぁ、仕方が無いと思いつつも、待とうかどうしようかと悩んでいるその時、突然、左隣の、部室の扉が開かれた!

当時の部室は、とてもお粗末なもので、ベニヤ板で仕切られただけのものであり、天井は無し!。

扉も横に引く、引き戸であった。

開かれた、と言うよりも、『ガラガラガラッ!』、そんな感じであった。

そこから顔を出したのは、同じ電気工学科の、『空手ばか』、であった。

『おぉ! 平出、良く来てくれた! ○○先輩! こいつが噂をしていた奴ですよ!』

Img_0116

  (空手ばか!)           (同期生)

いきなり左腕を掴まれ、『空手部』の部室に引き込まれてしまった!

○○先輩:『ありがとうな! いやぁ、人数が少なくて困ってた。よろしく頼むよ!』

椅子に座らされ、コップ酒を出され、私も本当に馬鹿である。

酒が好きな為に、それを呑んでしまった!

入部届、などと言う物は無く、それが、『入部届』、なのであった。

当時、私は、立川に居た。

立川市は、空手道も盛んで、市の大会にも参加をした事がある。

そこで、どう言う訳か、3位になった事もあった。

その為に、『空手部』に、引き込まれてしまった。

今思うと、本当に、良かったのか? 悪かったのか?

人の『運命』と言うものは、本当に判らない!

Img_0104

私が退院して、落ち着いて来た頃、みんなで、見舞いに来ると言う。

一番遠方の先輩は、鹿児島からであった。

本当に、有り難かった。

しかしながら・・・。

『見舞い』と言うのは、本当に、名目だけであった。

結局、『大宴会』になってしまった!

どう言う訳か、後輩達は、髭を伸ばし、汚い奴等ばかりである。

Img_0133

Img_0138

その上、『空手ばか』は、ダウンしてしまった!

Img_0137

けれども本当に、楽しい、『大宴会』であった。

仲間がいてくれる。

そして、気に掛けていてくれる。

そして、わざわざ大金を叩いて、訪ねてやって来てくれる。

「有朋自遠方来 不亦楽 」

「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。」

ではないが、随分と、不思議な『縁』を、頂いたものである。

(※ 理空会:東京理科大学 空手部 OB会)

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