カテゴリー「幼少期」の10件の記事

2010年5月18日 (火)

『出張お茶会!』(^o^)/ (今現在)

私達が住んでいます、駿東郡清水町の北隣には、同じく駿東郡の長泉町と言う町があります。

同じ駿東郡同士ですので、10年程前までは、一緒に『駿東地区』と言う地区を構成していました。

私が思いますには、『駿東地区』は、とても仲良しだったと思っています。

その好もありましてか、『ボーイスカウト長泉第2団』から、『出張お茶会』の依頼を受けました。

その『長泉第2団』ですが、長泉町下土狩にあります、『割狐塚稲荷神社』を、活動の拠点としています。

今回は、その場所で、ビーバー隊と、カブ隊のスカウトに対しまして、『お茶会』を行なう事になりました。

この『お茶会』でありますが、過去に2度、開催をしています。

一回目は、4年前に、行いました。

ただ、残念ながら、その時の写真は残っていません。

二回目は、2年前でした。

Img_3293

どちらも、八重桜が満開の時で、天気にも恵まれ、とても素晴らしい『お茶会』が展開できたと思っています。

この『出張お茶会』の目的ですが、ビーバースカウトの入隊式・進歩記章授与式、また、カブスカウトの入隊式・上進式・進歩記章授与式に合わせて、お祝いのお茶会を開いて欲しいとの事でした。

ただ、私共としましては、ベンチャースカウトのプロジェクト展開の一環として、また、ローバースカウトも含めました奉仕活動の一環として、展開をさせて頂いておりました。

従いまして、写真には、多くの、ベンチャースカウト、ローバースカウトの姿が写っております。

今回の『お茶会』の開催時期ですが、第15回日本ジャンボリーの事前行事と重なりまして、予定がずれてしまい、残念ながら、八重桜が満開の時期とはなりませんでした。

と言う事で、長泉第2団としましては、『純粋に、お茶を楽しみたい。』と言う事でありました。

ところがここで、大きな問題が起きてしまいました。(^^;

それは、私共の話でありました。

と言うのは、『奉仕をする、スカウトがいない!』と言う事でありました。

『出張お茶会』の依頼は、『きゃさりん副長。』が受けてくれました。

そこで、自隊のベンチャースカウトのプロジェクトの為にも、是非とも、『出張お茶会』を行いたいと考えていた様でありました。

また、『技能章』の、『茶道章』の取得にも繋げたいと、目論んでもいた様です。

ところが、現実問題としまして、ベンチャースカウト達からは、

『部活で、出られない。』

そして、ローバースカウト達からは、

『ジャンボリーの、参加事前訓練で、そちらの奉仕に行く。』

と言う、何とも、希望が持てない返事が返って来てしまった様でした。

隊長の私としましては、

・過去に2度、開催をしている。

・長泉第2団では、既に、保護者に案内を出してしまっている。

・受けてしまったものを、今更、断る訳にもいかない。

それにも増して、『お茶会』を楽しみにしているスカウト達の事を考えますと、これは、行わない訳にはいかないと、そう考えざるを得ませんでした。(^^;

と言う事で、早速、『きゃさりん副長。』と、話しを詰めてみました。

話しを聞いていきますと、今回は、ビーバースカウトが、10名以上も、入隊をしたらしいことが判りました。

ビーバー隊に入隊をしたばかりのスカウトは、小学校1年生の児童です。

そして、勿論、保護者の皆様や、幼い兄妹も、付いて来るはずです。

そうなりますと、軽く見積もっても、20人は、軽く超えてしまいます。

また、隊指導者の皆様もいらっしゃいますし、カブ隊もいる訳です。

そうなりますと、なかなか統制を取るのが難しくなり、てんやわんやの様相が、想像されてしまいます。

どうしてこうも、奉仕者の人数が少ない時に限って、参加対象者が多いのかなぁと、いつも思ってしまいます。

過去の経験上、その様な組合せが、とても多く観られたからです。(^^;

本当に、参ってしまいました。

こちらの戦力と言えば、『きゃさりん副長。』と、『きゃさりん副長。』のお茶のお仲間の方。

そして、『IPPEI副長』と、たったの3人でありました。

勿論私は、何の役にも立ちません。

たったの3人で、本当にできるのか?

『きゃさりん副長。』曰く、『大丈夫! 何とかなるさ!』

本当に、能天気と言いましょうか、お気楽と言いましょうか、何も気にしないと言うのか、天性の楽天的考えと言うのか、『きゃさりん副長」。』には、脱帽をしてしまいます!(^^;

本当に、深く考えないと言うのか、逆境に強いと言うのか、とても感心をしてしまう部分があります。

ですが、そう、能天気な事も言ってはいられなかったので、実際、何人の人間が必要なのか?

どの様な、役回りができれば良いのかを、聞いてみました。

ビーバーやカブの、スカウト達の指導やおもてなしは、『きゃさりん副長。』と、『助っ人』の方で、何とか間に合うとの事でした。

その『助っ人』の方には、2年前にも、お手伝いを頂いておりまして、勝手が判っているので大丈夫と言う事でした。

問題は、『水屋』と、『資材の運搬』でありました。

『水屋』は、多ければ多いほど、好いと言う事でしたが、少なくとも、4人程度は必要の様でした。

『資材の運搬』ですが、2年前には、車を3台出した覚えがありました。

ところが今回は、車を出せたとしましても、私の乗用車1台だけです。

とてもではありませんが、資材の全部などを、運ぶ事はできません。

『お茶』の『お道具』は、とても量が多いのです。

本当に、厳しい話でありました。

そこで、『きゃさりん副長。』に、『団委員長に、連絡をしなさい!』と、申し付けました。

通常なら、『隊長が、やってよぉ。』と言うところですが、流石に今回は、自らが行なうと言う事で、連絡を取っていた様でありました。

私の方ですが、スカウトに、再度確認を取ったり、他の隊の指導者の皆様に、お願いをしてみたりしたのですが、やはり、応援は得られませんでした。

そこで、いつもは、お祭りにしか出て来ない、いや、忘年会も出て来ますが、その様な団委員の皆様に、駄目元でいいやと思いながら連絡をしてみましたら、お二方から、『良いよ!』と言う返事が頂けました。

どうやら、『お茶会』と言う言葉に惹かれて、返事を頂けた様でありました。

とにかく、『資材の多さ』も、『水屋の大変さ』も、何度も観ている事です。

『きゃさりん副長。』に聞きましたところ、『資材の運搬』は、団委員長のワゴンで行ってくれるとのことでありました。

いやいや、実際、冷や冷やものでありました。

私は、かなりの晴れ男でありまして、天候のことなどは、全く気にはしていませんでした。

とにかく、『人』の確保ができて、『資材の運搬』ができれば、後は、『お茶』の経験者でなくても、それはそれで、何とかなると思っていました。

とにかく、見切り発進の様でしたが、『出張お茶会』は、動き始めました。

但し!

そこに、ベンチャースカウトの姿が見られないと言うのは、本当に残念な話でありましたが・・・。(^^;

まぁ、何年も行っていれば、その様な時も、きっとあるのでしょうね。(^-^)/

(つづく・・・。)

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2010年4月12日 (月)

『ビーバー隊 入隊式!』(^0^)/ (今現在)

団の年次育成総会が終了しまして、次に、ビーバー隊の入隊式が行われました。

ビーバー隊のスカウトを、ビーバースカウトと呼びますが、ビーバースカウトは、小学校就学前の、9月から、入隊ができます。

そして、小学校2年生までを、対象としています。

今回は、何と!

7名ものスカウトが、入隊をしてくれることになりました。

これは、清水町第1団にとりましては、快挙と言える、素晴らしいことでありました。

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なんともまぁ、可愛らしいものです。

ベンチャーや、ローバー達を相手にしている私にとりましては、本当に、新鮮な気持ちになります。

この様な子供達が、どの様な成長を遂げて来るのか、それだけを思っても、本当に、楽しみになります。

やっぱり、子供は、多い方が良いですねぇ!

見ているだけで、本当に、嬉しく、楽しくなります。

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ボーイスカウトの創始者である、ベーデン・パウェル卿の肖像画の前で、何かが始まった様ですね。

ビーバー隊長と、副長の下に、子供達が、群がっています。

こんな光景を観るのは、本当に、久々の事だと思います。

とても微笑ましく、こちらも、心がウキウキしてしまいます。

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さてさて、反対側に回ってみますと、子供達は、ビーバー隊の隊旗を、左手で握っています。

そして、右手は、何かのサインを出しています。

ですが、まだまだちゃんと、サインが出せていないようですね。

ビーバースカウトのサインは、人差し指と、中指を揃えて、真っ直ぐに伸ばします。

これは、ビーバーの歯を、意味します。

ですがどうやら、ピースや、チョキに、なってしまっている様ですね。

これは、

『やくそくの式』、

と、呼ばれます。

ビーバースカウトのやくそくは、

 ぼく(わたし)はみんなとなかよくします

 ビーバー隊のきまりをまもります

と言う、2項目です。

ちなみに、ビーバー隊のきまりは、

1.ビーバースカウトは げんきにあそびます

2.ビーバースカウトは ものをたいせつにします

3.ビーバースカウトは よいことをします

と言う、3項目になります。

ここでは、『やくそくの式』ですので、『ビーバースカウトのやくそく』の2項目を、隊長の前で、唱えることになります。

ただここで、注意をしておかなければならないことは、『やくそく』は、ベーデン・パウェル卿の肖像画に対してする訳でもなく、ビーバー隊長に向かってする訳でもなく、隊旗に向かってする訳でもありません。

『自分自身に対して、やくそくをする。』

と言うことなのです。

ビーバースカウト達は、本当に、幼いです。

ですから、自分に対して約束をすると言う意識は、殆どありません。

従って、やはり対象者が居ないと、なかなかできないですね。

それで、隊旗と、隊指導者が、ビーバースカウトに、付いてあげると言う事になる訳です。

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『やくそく』ができた子供達は、この時点で、正式に、『ビーバースカウト』になりました。

そこで隊長が、一人ひとりと、握手を交わします。

これによって、この子達の、ボーイスカウト人生が、始まりを告げた訳です。

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『やくそく』を終え、隊長に迎え入れられたスカウト達には、スカウトとしてのシンボルであり、また、清水町第1団のシンボルでもある、ネッカチーフが授与されます。

ネッカチーフは、隊ごとに、定めても良いことになっていますが、清水町第1団では、団で統一をしたものを、着用します。

しかしながら、ビーバースカウト達にとりましては、ちょっと、大きいでしょうか。

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それでも何とか、全員が、着用できた様です。

流石にこうなりますと、少しは、スカウトらしくなって来ましたね!

結構、似合うものです。

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そして今度は、一人ずつ、ベーデン・パウェル卿の肖像画の前に進み出て、献灯を行ないます。

本来であれば、ろうそくを使用したかったのですが、館内は、火気厳禁でありました。

そこで、苦肉の策ですが、ペンライトを使いまして、ろうそくの代わりとしました。

この『献灯』ですが、ベーデン・パウェル卿に向かって、ぼく(わたし)は、スカウトとして頑張って行きますと言う意思表示をすると共に、自分の心の中に、スカウトとしての火を灯すことをねらいとしています。

献灯とは言え、全ては、自分自身の意思表示であるのですが、そのことを理解するのには、相当な、年月が掛かる事になります。

ベンチャー年代で、やっと、理解ができるようになるぐらいでしょうか。

これから、本当に長い、道程が始まる訳です。

Img_9877

最後に、『ビーバーコール』を行います。

これは、『祝声』と言われるものですが、まぁ、世間一般で行われている、万歳に相当するものです。

しかしながら、ビーバースカウトに、万歳は、似合いません。

そこで、隊指導者側から、

『おめでとう! ビーバー!』

と、エールを贈ります。

スカウト側からは、

『ありがとう! ビーバー!』

と、お礼を返します。

この時に、右手を高く、突き出します。

写真では、隊長と、副長が、エールを贈っていますが、この時には、ビーバースカウトは、本当は、敬礼で応えなければなりません。

でもまぁ、いきなりやって、そう簡単に、できるものではありません。

要は、これからが楽しみであって、そのお楽しみは、後にとっておきましょう、と言う事です。

ビーバー隊のセレモニーが終わりました。

ビーバー隊にはこの他に、2名の、先輩ビーバーがいます。

従って、合計、9名のビーバースカウトで、今年は活動を行なって行く事になります。

こんなに賑やかなビーバー隊を見るのは、本当に、久々の事であります。

とても楽しい活動ができそうで、今から、本当に楽しみです。

あとは、長~く、このスカウト活動を続けて欲しいと思います。

ベンチャー隊長の私の所まで、何人のスカウトが上進をして来てくれるのか?

一人も脱落せずに、7人、まとまって、来てくれるのか?

とにかく、無事に上進をして来てくれる事だけが、私の願いであります。

『おめでとう! ビーバー!』

(つづく・・・。)

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2009年11月18日 (水)

『私の幼少期 Ⅷ』(^^;

『まーちゃん! まぁ、こんなに大きくなって!』。

ある日の事、突然、知らない小母さんが、馴れ馴れしく、声を掛けて来た。

人見知りだった私は、当然の如く、逃げた。

すると、祖母が、玄関まで私を呼んだ。

そこには、先程の小母さんがいて、やたらニコニコしていた。

畳の上には、見慣れない、白くて、縁が茶色で、何か丸いマークが付いた鞄が置かれていた。

その横には、黄色い帽子と、紺色の洋服。

祖母は、その洋服を私に着せ、そして、帽子を頭の上に、載せてみた。

『まぁ、似合うこと!』。

先程の小母さんは、また、やたらとニコニコしていた。

それが、幼稚園の、ランドセルと、制服だと判ったのは、本当に、暫くしてからの事である。

清水町八幡の泉地区。

そこには、柿田川へ続く、3本の坂道があった。

平地の部分は、殆どが農地であり、住宅は、殆ど無かった。

農地優先であり、坂道の両脇に、住宅が固まっていた。

私は、本当に、坂の上には、滅多な事では、出る事は無かった。

が、その小母さんに連れられ、久々に、坂の上に出た。

そして、50m程離れた、1軒の家に、連れて行かれた。

『れーこちゃんだよ!』

と、女の子を紹介された。

しかし、何の事なのか、さっぱり解らない。

『これからよろしくね!』

と、小母さんは言う。

その子は、本当は、『れいこ』といった。

一緒に、幼稚園に通う事になるのである。

しかしながら、その時は、幼稚園に入る事も、幼稚園に通う事も、一緒に手を繋いで行く事も、想像も、予想も、何もできなかったのである。

ただ、言われるがままに、小母さんと、行動を共にした。

その夜、同居していた叔父さんやら、叔母さんやらが、やたら騒いでいた。

何が嬉しいのやら、楽しいのやら、本当に、訳が解らないでいた。

私はただ、これから何が起こるのだろうと、臆病者の心を、震わせているだけであった。

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2009年11月17日 (火)

『私の幼少期 Ⅶ』(^^;

私の、旧家の前の、坂道を挟んで、南側に、小奇麗な家があった。

ご主人は、バイク事故で亡くなってしまい、ご婦人と、少女の、二人住まいであった。

少女は、私より5つ上で、私の面倒を、とても良く看てくれた。

私も随分と甘えて、その家には、本当に、入り浸りであった。

その家は、流石に百姓屋とは違い、本当に、様々な物が、置かれていた。

その当時には珍しい、『テレビ』。

『冷蔵庫』。

『電話機』。

『ステレオ』。

『ふかふかとしたソファー』。

そして何よりも、頂ける物が違っていた。

『ケーキ』に『紅茶』。

当時は何だか良くは解っていなかったが、コーヒーメーカーまで、備わっていた。

とにかく、私にとっては、『異国の地』であり、『西洋の香り』なのであった。

庭は、綺麗に手入れをされており、芝生と言う、裸足で歩いても怪我をしない、緑の絨毯であった。

どうしてこうも違うものか?

本当に、不思議でならなかった。

私の家には、電化製品などは、何も無い!

冷蔵庫などは木製で、『氷』を最上段に入れないといけないものであった。

随分と、生活様式は違っていた。

でもお二人の女性は、私を歓迎してくれた。

二人だけの生活、と言う事もあってか、随分と、我儘もさせて頂いた。

楽しかった。

本当に、楽しかった。

どうしてこんなにも違うものか?

私は、家に居る事が、段々と嫌になっていた。

家を出て、坂を下り、どん詰まりまで行くと、そこには、美容院が有った。

その左脇を下ると、川端に出てしまう。

その美容院にも、よく遊びに行った。

男の子が二人いた。

二人とも私より年下で、幾つ離れていたかは、忘れてしまった。

ただ、美容院は、奥様と、その兄弟のお母様、そして、その妹さんの3人で、切り盛りしていた様である。

その、妹さんが、私を随分と、可愛がってくれた。

美容院は、これまた、不思議な世界が広がっていた。

パーマを掛ける機械。

洗面台に、シャワーの付いたホース。

大きな、回転ができて、昇降もできる椅子。

美容院が休みの日には、そこが、私達の遊びの場所にもなった。

また、そこには、同じ様に、

電話。

大きな画面のテレビ。

洗濯機などは、3台もあった。

大きな鏡や、はさみなどの消毒のための、大きなガラスのケース。

とても考えられない様な、世界が広がっていた。

特に違っていたのは、様々な雑誌があった事。

外人?の女性の写真ばかりで、何が何だか解らなかったが、どうしてときめいたのか、その頃は、全く、解らず仕舞いであった。

『裕福』と、『貧困』。

その頃は、その様な事は、一切、思ってもみなかった。

だけれども、その美容院の兄弟が、『鉄人28号』や、『8(エイト)マン』、その様なおもちゃを、山ほど持ってた。

それで、遊ばさせてもくれた。

そこもまた、とても楽しい場所であった。

でも、どうしても、二人の兄弟が持っている、それが、欲しくもなった。

自分の物にしてみたかった。

欲しい。

物欲に、駆られ出したのである。

執着心の目覚めであろうか?

楽しいのだけれども、そこに潜む、何か、おかしな心。

たった、50m程度の坂道。

その坂道の中に、『裕福』と『貧困』があり、私は物欲に、駆られ出してしまったのである。

家に帰っても、有る電化製品と言えば、チューニングがとても難しく、音量出力もとても弱い、こげ茶色のラヂオだけ。

おもちゃなど言う物は、竹とんぼと、ビー玉、お手玉位しか無かった。

欲しい!

怪しげな思いが、幼心に、染み付いてしまった時、だったと思う。

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2009年11月16日 (月)

『私の幼少期 Ⅵ』(^^;

『あお』。

『青』。

『蒼』。

『藍』。

『アオ』。

何れにしても、『あお』、である。

牛がいた。

種類も何も、覚えてはいない。

色も、忘れてしまった。

ただ、いつも、左目で、私を観ていた。

その様な、記憶がある。

その眼は、とても異様で、睨んでいるとも、訴えているとも、何とも言えない、大きな黒い瞳で私を観ていた様に思う。

ある日、『クボタ』の耕運機が、荷車と共に、家にやって来た。

父親がとても喜び、どもりなのに、ひたすら喋り続けていた。

何か私にも、説明をしていた。

しかしながら、さっぱり解らなかった。

とにかく、父親が喜んで、とても機嫌が良い事だけは解った。

だけれども、『あお』は、『クボタ』の人間に、連れられて、行ってしまった。

納屋は、空になってしまった。

あの臭い匂いは、残ったままであったが、とにかく納屋は、空になってしまった。

耕運機と引き換えか?

私には、何が起こったのか、全く解らなかった。

父親は、得意気になって、耕運機を乗り回した。

私達兄妹も、牽引されている荷車に乗って、少々の風を、頬に味わい、喜んでいた。

ただ、空になった納屋を見て、『あお』は、もう、戻って来ないのだと、何時の間にか感じてはいた。

父親が亡くなってから、母親が洩らした言葉がある。

『お父さんはね、よく、畑で、あおを殴っていたっけ。それも、げんこで。あおは、涙をながしていたっけ。』

『初め、お父さんと会った時は、とても大人しい人で、殴る事なんか無いと思っていたけど、人は解らないよね。げんこつで、思いっ切り、殴っていたんだから。』

母親は、果たして、私が『びんた』を、食らっていた事を、知っていたのであろうか?

まぁ、今更、そんな事はどうでも良い。

とにかく、『あお』と引き換えに、父親の、初めての『笑顔』を観る事ができた。

それと共に、少々の、幸せも、感じた。

しかしながら、貧乏であった事には、間違いが無い。

『あお』が居なくなって、もう一つ、変わった事があった。

それは、『虻』が、全く、いなくなってしまった、ことである。

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2009年11月15日 (日)

『私の幼少期 Ⅴ』(^^;

『お灸』。

それが果たして、何だったのか、幼い頃は、全く解らなかった。

ただ煙が出て、ゆっくりと、赤い発光部分が、下に下がって行く。

面白いと言えば、面白い。

だが、それが何なのか、何も解らなかった!

ただ、祖母は、とても愛用をしていた。

玄関の3畳間。

そこで祖母は、『お灸』をする。

居間であるとか、座敷であるとか、食堂であるとか、その様所では、一切しない。

それは、『暗い』、からである。

とにかく、暗い!

旧家は、光が、全く差し込んで来なかった。

どうしてその様な造りになっていたのかは、さっぱり解らないが、とにかく、本当に、実に暗い家であった。

その為、祖母は、一番明るい、玄関まで出て来て、『お灸』をしていたのであった。

親父にぶん殴られ、初めて『父親』と言う者を、意識し出してから、『躾』と言う名のもとに、『お仕置き』が始まった。

どう言う訳か判らないが、いきなり・急に・突然、であった。

祖母の、『お灸』を据える、事が始まったのであった。

最初は、様々な場所に、もぐさを盛られた。

けれども、私に何の変化も無いので、今度は、背中に盛られた。

しかし、私に変化は起きない!

当たり前である!

私は、何処も悪くは無いのであるから。

それでも祖母は、『お灸』に固執した。

その量と共に、置き場所も増やしていった。

2箇所から、4箇所。

4箇所から、6箇所。

しかしまぁ、そんな事をしても何もならなかった。

結局、『お灸』の痕は、中学生まで残ってしまった。

私をぶん殴った父親は、手が痛かったのだろうか?

その後は、『びんた』を止めた。

そうしたら今度は、『米蔵』に閉じ込める様になった。

私の首根っこを掴み、『米蔵』に押し込み、錠前をするのである。

『米蔵』と言っても、立派な、質屋の様な、『倉』ではない。

ねずみが侵入できないようにしてある程度で、入り口は、風通しを良くする為に、金網であった。

だから、中も、また、中から外も見えた。

だけれども、夜になれば、真っ暗になってしまう。

父親は、得意気になって、私を、よく、『米蔵』に放り込んだ。

だけれども、そんなものも、何時の間にか、慣れてしまうものである。

父親の、最初の『びんた』の方が、余程、恐怖であった。

『殺されてしまうかも知れない!』。

その様な、『死』への恐怖感が、本能的に、働いたのかも知れない。

『米蔵』の中では、眼が慣れてしまえば、暗闇でも、幾らでも動ける。

ねずみも居たが、逆に捕まえて、遊んでいた。

米俵の上を跳ね回り、逆に、『米蔵』に入れられるのが、楽しくなった程である。

祖母の『お灸』。

父親の、『閉じ込め』。

どちらも、『躾』のための、『お仕置き』、であったようであるが、どんな意味を持っていたのであろうか?

祖母も、父親も、『言葉で諭す』事だけは、無かった!

本当に、無かった!

実力行使・体罰・仕置き。

それだけしかできなかった。

『百姓屋』で、『貧乏』。

それは、心の中まで、貧しくしてしまうものであると、私は、学習した様に思う。

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2009年11月14日 (土)

『私の幼少期 Ⅳ』(^^;

ある日の夕方、『雅一! ちょっと来い!』、と言う、罵声が飛んだ!

呼ばれたので、一応、その方向に行ってみた!

すると、麦藁帽を被り、首に手ぬぐいを巻き、黒い手甲をした、『男』が、立っていた。

その『男』の前に立った瞬間、『黒い手甲』が、私の眼の前を過ぎった。

当時の旧家は、玄関が、3畳の畳敷き、であった。

私は、3畳以上は、飛んだと思う。

それでも、その『男』は、私に、びんたを、食らわし続けた。

それが、私が、物心が付いてからの、父親の、最初の記憶である。

とにかく、幼い時の、父親の記憶は、殆ど無い!

祖父は、病弱で、背も低く、痩せていた為、徴兵はされなかった。

その為、役場に勤めることができていた。

またその為に、父親は、先祖から託された農地を、祖父から、また、祖母から命じられ、夜明け前から日没後まで、ひたすら、耕し続けていた。

そのお陰で、私は、全くと言って良いほど、父親には、出会う事は無かったのである。

母親は、夕食時に、少しは顔を合わせる事があった。

けれども、父親には、殆ど、会わなかったのである。

私の寝起きは、祖母と共に、であった。

父親は、どもり、である。

言いたい事を、はっきりと口に出して言えない。

言おうと思っても、口が動かないのである。

だから、どうしても、手が先に出てしまうのである。

それは、小学4年生頃まで、続いたと思う。

ところで、どうして『びんた』が、飛んで来たのか?

そんなものに、理由などは無い!

ただの、父親の、ストレスの、発散の様であった。

父親の下に、兄妹6人がいた。

だけれども、誰一人として、『百姓』をやる者はいない。

それに、祖父や祖母から、愚痴られ、叱咤される。

一人で、いや、母親と共に、『百姓』をやる以外に、余地は無かった。

酒は呑まない、煙草もやらない、遊びも知らない、外出はできない、休みは無い。

そりゃぁ誰だって、どうにかなってしまうであろう。

たまたま早く、野良から帰って来た。

そこで祖母から、何か言われたのであろう。

それが切欠で、ストレス発散に至ったのであろう。

実はその遺伝子は、私にも、私達兄妹にも、受け継がれてしまっている。

『短気』で『暴力的』、なのである。

その後は、私は、父親から逃げるようにして、生活を送った。

とにかく、父親から逃げた。

それで、増々、臆病者になって行った。

家の周辺を離れない。

大人から逃げる。

人見知りをする。

とにかく、人から逃げた。

私は、父親が嫌い、と言うよりは、恐怖に怯え、その恐怖から、ただただ、ひたすら逃げ回っていたのだと思う。

そして、逃げ隠れすることを、覚えてしまうのである。

そしてそれがまた、余計な悲劇を、生む事にもなるのである。

ただそれが、私にとっては、『普通』の事だったのである。

『父親とはそう言うもの』、だったのである。

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2009年11月13日 (金)

『私の幼少期 Ⅲ』(^^;

幼稚園に行く前まで、家の前の坂に出て、坂を上り、そして、八幡部落(当時はそう呼んでいた)内を、歩く、などと言う事は、全く無かったと言っていい。

お目付け役は、祖母、だけである。

従って、祖母の眼が届く範囲内以外には、行けなかったのである。

それと共に、かなりの『臆病者』、でもあった。

好奇心は、随分と旺盛のようであったが、冒険心は、無かった様に思う。

竹薮に、入って行く、勇気さえ無かったように思う。

それに、4歳位の餓鬼でも、大事な働き手であった。

家の周辺から離れる事は、非常に少なかった様に思う。

『五右衛門風呂』。

今でこそ、みんなが珍しがるが、百姓屋は、みんなそうだった。

私の旧家は、諸に鋳鉄の、『鉄釜』であった。

井戸から桶に水を汲み、それを、風呂釜に移す。

しかしながら、流石にそれはできなかった。

誰が、水汲みをしてくれたのかは覚えていない。

流石に祖母も、しんどかったのか?

最後の方には、風呂釜の上には、蛇口が付いていた。

さて、私は何をするかと言うと・・・。

鉈を振るって、薪を割る。

藁を丸めて、火床に置く。

その上に、割った薪を置く。

マッチを擦る。

藁に火を点ける。

頃合を見計らい、薪を足して行く。

お湯を沸かす。

ただ、鉈は、小さな物であった。

薪も、既に小さく割られていた物であった。

だけれども、餓鬼に、火の番をさせるほど、逞しい時代であったのかも知れない。

薪は、里山で、大量に作られて、納屋にあった。

従って、それを運んで来ては、燃やす、と言う作業であった。

ただ、覚えているのが、『紙』、要は『新聞紙』等であるが、火付けには、絶対に使用をしなかった!

『新聞紙』は、当時は、『貴重品』であったのである。

『新聞紙』は、『包装紙』であり、お茶碗などの『緩衝材』であり、『敷物』であり、『覆う』物であり、最後には、『便所の紙』、にもなった。

とにかく、『万能』であり、『特別な物』、であった。

祖母達は、新聞紙を、大事に、戸棚に仕舞っていた。

どれだけ、大切な物だったのだろうか?

今ではその価値の、実感が湧かない。

だけれども、キャンプに行って、雨に降られると、『新聞紙様様』と、思うことは多い。

餓鬼でも、風呂を沸かすことはできた。

慣れれば、随分と、簡単なものである。

お陰で、火の扱いには、相当、慣れたと思う。

だけれども・・・。

風呂には、なかなか入る事ができなかった。

とにかく、自分が風呂を沸かしても、入る事ができないのである。

入る順番が、決まっているのである。

一番風呂に入るのは、その家の、『家長』。

それぞれの家には、『家長』が、いたのである。

それは当然、『祖父』、である。

『祖父』が家に戻って来る頃を見計らって、風呂を沸かしていた。

『一番風呂』。

『家長の特権』?

考えてみると、実際は、そうでも無い様な気もする。

はっきり言って、祖父が風呂に入らなければ、誰も風呂に入れないのである。

それに、お湯を適温にするのも、一番風呂に入る人間の、役務であった。

『家長の一番風呂』。

それは一日の終わりを告げると共に、体を休める為の準備をする。

その様な知らせをするための、儀式であったのかも知れない。

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2009年11月12日 (木)

『私の幼少期 Ⅱ』(^^;

私の旧家は、柿田川の泉に続く、坂道の途中にあった。

結構な角度の、坂道であった。

家の周りには、びわや、ニッキ、梅、桃、栗の木もあっただろうか?

とにかく、様々な木が植えられていた。

ぶなや、楢、楓などの大木もあった。

竹林にも覆われていたような気がする。

そんな中で、朝、目覚めると、父親も母親も、もう畑仕事に出掛けてしまった後で、残っているのは、祖母ぐらいのものであった。

朝の仕事と言えばまず、鶏を、小屋から出す事から始まる。

そして、卵を探し、それを食卓に運ぶ。

しかしながら、その卵には、まだ、あり付く事ができない。

先に、鶏に餌を与えなければいけない。

坂の下には、柿田川に流れ込む、小さな支流があった。

そこを、みんなは、川端(かわばた)と呼んでいた。

そこで、近所の女性達が集まり、野菜を洗い、洗濯もしていた。

柿田川は、清流である。

セリや、クレソン、そう言った野草も大量にあった。

今でこそ高級食材のクレソンは、バカゼリ、と言って、鶏の餌であった。

坂を下り、川端に行き、セリやクレソンを採って来る。

それを、包丁で刻む。

そして、アサリやシジミ。

そういった貝殻を、かなづちで、細かく砕く。

それらを、米ぬか、粟、稗などと混ぜ合わせて、鶏の餌にする。

どうしてその様にするのか、理由などは判らない。

ただそうしろと、祖母の命令に従っていた、までである。

当時は、上水道もあったが、どの家も、一応は、井戸を持っていた。

水道水を使用するのが勿体無いのか、祖母は、水道水を使わせてくれることは、一切、無かった。

当然、手を洗うのにも、井戸水を使う以外に無い。

子供にとっては、井戸の手動ポンプの柄は、その位置が高過ぎる。

仕方が無いので、台を運び、ポンプの柄を上下させる。

水は大量に溢れ出て来た。

しかしながら、子供如きに、その水量の調節など、できる訳が無い!

結局、腿から下は、びしょ濡れである。

当時は、サンダル、であった。

ズック、などと言う物は、履いた事も無かった。

それで台所、兼、食堂に行ってみると、『卵』の姿は消えている。

有るのは、梅干、らっきょう、たくあん、佃煮、等々。

『卵は、大人が食べる物だから!』

そう言って、祖母は、卵を食べさせてくれる事が、全く無かった。

当時は、子供にとっては、『不条理』と言う言葉は、無かった様である。

卵を、口にできるようになったのは、何時頃の事であったろうか?

全く、記憶に無い!

ただ記憶にあるのは、一つの卵を、兄妹三人で、分け合って頂いたことを覚えている。

卵を割り、卵を溶いて、醤油を垂らし、ご飯が入った3つのお茶碗に、それぞれ掛けていく。

ただ、私の量が、少しばかり多い。

炒り卵(スクランブルエッグ)の時も、それぞれのご飯の上に載せて、醤油を垂らしていく。

その時も、私は、えこひいきされた。

妹達は、未だにその事を、覚えている。

一人で、一つの卵を食べられることなど、まず無かった。

目玉焼き、などと言うものが、この世に存在をするなどと言う事は、到底、知る由も無かったのである。

しかしながら、畑仕事に出ていた、父親も母親も、その様な事は、全く知らなかったのである。

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2009年11月11日 (水)

『私の幼少期』(^^;

幼少期。

果たして、この世に生を受けてから、何時頃、自我と言うものが芽生えたのであろうか?

全く、覚えが無い。

何を覚えているのか?

瞑想でも、してみるべきなのであろうか?

だけれども、結局は、何も思い出さないであろう。

今直ぐに、記憶が戻ると言うものでもなかろう。

かと言って、瞑想をしても、思い出すものは、ろくなものが無いであろう。

何かの切欠。

何かの連想。

その様なものに基づいて、記憶の扉が開かれる。

記憶の連想が始まる引き鉄が、引かれるのだと思う。

とりあえずは、住んでいた家。

そして環境。

その様なものの記憶。

そして一日の生活。

その様なものから、記憶を辿ってみるしかないのであろう。

写真?

確かにあった様に思う。

アルバムもきちんとある。

だけれども、それをパソコンに、取り込む、つもりも無い。

その写真を観てしまうと、その写真の虜になってしまう。

それだけの、記憶になってしまうであろう。

大体、写真と言うものは、楽しい時に、楽しいポーズで、写してもらっているはずである。

その、実際の人生の背景は写らない。

何が起こっていたのか?

そして、どうして、その様な、写真になっているのか?

それも解らないであろう。

幼少期。

とてつもなく、貧乏、であった。

それは間違いが無かろう。

そして、平出家の分家としての、『見栄』と、『強情』。

それを何とかしようと言う、無理な生活。

ジタバタしていた生活。

その様なものがあった様に、思う。

当然、その頃の自分には、何も判りはしない。

今となって、初めて、解ることである。

とりあえず、生まれた時の家は、百姓屋であった。

一応、二階家であった。

納屋もあった。

米蔵もあった。

馬小屋、農機具小屋もあった。

祖父・祖母がいた。

父親の兄妹が、父を含めて、7人居た。

次男坊は、保安隊に入隊していたので、私が生まれた時には、私を含めて、総勢、11名の家族であった様である。

その他に、馬・牛・山羊・鶏・がちょう・アヒル・うさぎ・小鳥達、等々・・・。

池には、鯉も金魚も、亀もいた。

それ以外にも、まだまだ居た様に思う。

そうだ!

十二支に入れて貰えない位だから、思い出せない訳である。

猫もやたらといた。

まるで、小動物園、である。

犬に跨って、遊んだ覚えがある。

秋田犬と、北海道犬か甲斐犬。

とにかく、二頭いた。

どちらも非常に大人しく、吠えもしなかった。

だけれども、『鶏』や、『うさぎ』、『鳥達』の為の、番犬であったようである。

イタチやテン。

ハクビシン。

天敵は、物凄く多かった。

秋田犬は、『富士』と言う名であった。

それに跨って、散歩をするのが、本当に、楽しみであったように思う。

だけれども、『富士』の死は、その覚えが無い。

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