カテゴリー「幼稚園」の20件の記事

2010年5月18日 (火)

『出張お茶会!』(^o^)/ (今現在)

私達が住んでいます、駿東郡清水町の北隣には、同じく駿東郡の長泉町と言う町があります。

同じ駿東郡同士ですので、10年程前までは、一緒に『駿東地区』と言う地区を構成していました。

私が思いますには、『駿東地区』は、とても仲良しだったと思っています。

その好もありましてか、『ボーイスカウト長泉第2団』から、『出張お茶会』の依頼を受けました。

その『長泉第2団』ですが、長泉町下土狩にあります、『割狐塚稲荷神社』を、活動の拠点としています。

今回は、その場所で、ビーバー隊と、カブ隊のスカウトに対しまして、『お茶会』を行なう事になりました。

この『お茶会』でありますが、過去に2度、開催をしています。

一回目は、4年前に、行いました。

ただ、残念ながら、その時の写真は残っていません。

二回目は、2年前でした。

Img_3293

どちらも、八重桜が満開の時で、天気にも恵まれ、とても素晴らしい『お茶会』が展開できたと思っています。

この『出張お茶会』の目的ですが、ビーバースカウトの入隊式・進歩記章授与式、また、カブスカウトの入隊式・上進式・進歩記章授与式に合わせて、お祝いのお茶会を開いて欲しいとの事でした。

ただ、私共としましては、ベンチャースカウトのプロジェクト展開の一環として、また、ローバースカウトも含めました奉仕活動の一環として、展開をさせて頂いておりました。

従いまして、写真には、多くの、ベンチャースカウト、ローバースカウトの姿が写っております。

今回の『お茶会』の開催時期ですが、第15回日本ジャンボリーの事前行事と重なりまして、予定がずれてしまい、残念ながら、八重桜が満開の時期とはなりませんでした。

と言う事で、長泉第2団としましては、『純粋に、お茶を楽しみたい。』と言う事でありました。

ところがここで、大きな問題が起きてしまいました。(^^;

それは、私共の話でありました。

と言うのは、『奉仕をする、スカウトがいない!』と言う事でありました。

『出張お茶会』の依頼は、『きゃさりん副長。』が受けてくれました。

そこで、自隊のベンチャースカウトのプロジェクトの為にも、是非とも、『出張お茶会』を行いたいと考えていた様でありました。

また、『技能章』の、『茶道章』の取得にも繋げたいと、目論んでもいた様です。

ところが、現実問題としまして、ベンチャースカウト達からは、

『部活で、出られない。』

そして、ローバースカウト達からは、

『ジャンボリーの、参加事前訓練で、そちらの奉仕に行く。』

と言う、何とも、希望が持てない返事が返って来てしまった様でした。

隊長の私としましては、

・過去に2度、開催をしている。

・長泉第2団では、既に、保護者に案内を出してしまっている。

・受けてしまったものを、今更、断る訳にもいかない。

それにも増して、『お茶会』を楽しみにしているスカウト達の事を考えますと、これは、行わない訳にはいかないと、そう考えざるを得ませんでした。(^^;

と言う事で、早速、『きゃさりん副長。』と、話しを詰めてみました。

話しを聞いていきますと、今回は、ビーバースカウトが、10名以上も、入隊をしたらしいことが判りました。

ビーバー隊に入隊をしたばかりのスカウトは、小学校1年生の児童です。

そして、勿論、保護者の皆様や、幼い兄妹も、付いて来るはずです。

そうなりますと、軽く見積もっても、20人は、軽く超えてしまいます。

また、隊指導者の皆様もいらっしゃいますし、カブ隊もいる訳です。

そうなりますと、なかなか統制を取るのが難しくなり、てんやわんやの様相が、想像されてしまいます。

どうしてこうも、奉仕者の人数が少ない時に限って、参加対象者が多いのかなぁと、いつも思ってしまいます。

過去の経験上、その様な組合せが、とても多く観られたからです。(^^;

本当に、参ってしまいました。

こちらの戦力と言えば、『きゃさりん副長。』と、『きゃさりん副長。』のお茶のお仲間の方。

そして、『IPPEI副長』と、たったの3人でありました。

勿論私は、何の役にも立ちません。

たったの3人で、本当にできるのか?

『きゃさりん副長。』曰く、『大丈夫! 何とかなるさ!』

本当に、能天気と言いましょうか、お気楽と言いましょうか、何も気にしないと言うのか、天性の楽天的考えと言うのか、『きゃさりん副長」。』には、脱帽をしてしまいます!(^^;

本当に、深く考えないと言うのか、逆境に強いと言うのか、とても感心をしてしまう部分があります。

ですが、そう、能天気な事も言ってはいられなかったので、実際、何人の人間が必要なのか?

どの様な、役回りができれば良いのかを、聞いてみました。

ビーバーやカブの、スカウト達の指導やおもてなしは、『きゃさりん副長。』と、『助っ人』の方で、何とか間に合うとの事でした。

その『助っ人』の方には、2年前にも、お手伝いを頂いておりまして、勝手が判っているので大丈夫と言う事でした。

問題は、『水屋』と、『資材の運搬』でありました。

『水屋』は、多ければ多いほど、好いと言う事でしたが、少なくとも、4人程度は必要の様でした。

『資材の運搬』ですが、2年前には、車を3台出した覚えがありました。

ところが今回は、車を出せたとしましても、私の乗用車1台だけです。

とてもではありませんが、資材の全部などを、運ぶ事はできません。

『お茶』の『お道具』は、とても量が多いのです。

本当に、厳しい話でありました。

そこで、『きゃさりん副長。』に、『団委員長に、連絡をしなさい!』と、申し付けました。

通常なら、『隊長が、やってよぉ。』と言うところですが、流石に今回は、自らが行なうと言う事で、連絡を取っていた様でありました。

私の方ですが、スカウトに、再度確認を取ったり、他の隊の指導者の皆様に、お願いをしてみたりしたのですが、やはり、応援は得られませんでした。

そこで、いつもは、お祭りにしか出て来ない、いや、忘年会も出て来ますが、その様な団委員の皆様に、駄目元でいいやと思いながら連絡をしてみましたら、お二方から、『良いよ!』と言う返事が頂けました。

どうやら、『お茶会』と言う言葉に惹かれて、返事を頂けた様でありました。

とにかく、『資材の多さ』も、『水屋の大変さ』も、何度も観ている事です。

『きゃさりん副長。』に聞きましたところ、『資材の運搬』は、団委員長のワゴンで行ってくれるとのことでありました。

いやいや、実際、冷や冷やものでありました。

私は、かなりの晴れ男でありまして、天候のことなどは、全く気にはしていませんでした。

とにかく、『人』の確保ができて、『資材の運搬』ができれば、後は、『お茶』の経験者でなくても、それはそれで、何とかなると思っていました。

とにかく、見切り発進の様でしたが、『出張お茶会』は、動き始めました。

但し!

そこに、ベンチャースカウトの姿が見られないと言うのは、本当に残念な話でありましたが・・・。(^^;

まぁ、何年も行っていれば、その様な時も、きっとあるのでしょうね。(^-^)/

(つづく・・・。)

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2009年12月 7日 (月)

『お別れ!』 (幼稚園年長時代 ⅩⅡ)

幼稚園では、本当に、様々な行事をやったはずである。

だけれども、とにかく、何も覚えてはいない。

それに、写真も、ろくに残っていない!

とにかく、記憶にも、写真にも、何も残ってはいないのだ。

残っているものと言えば、『梅組」の、若い、綺麗な先生に、狩野川公園で撮って貰った、写真ぐらいである。

後は、何も残ってはいない。

運動会だって、あったろう。

学習発表会の様なものも、あったろう。

授業参観だって、あったと思う。

それに、秋の遠足だって、あったはずである。

水遊びも、あったはずである。

写生だって、

動植物の観察だって、

それに、近くの『山の神様』の祠にも、行ったはずである。

なのに、何も記憶が無い!

それに、郷社八幡神社のお祭りも、それも記憶が無い。

何となくではあるが、鼻の横にほくろのあった先生から、違う先生に変わってから、記憶が薄れてしまっているように思う。

何かが、変わった。

確かに、何かが、変化を起こしたのであろう。

幼稚園の、年長の後半。

そこの記憶は、本当に、薄れてしまっている様に思う。

逆に、何も無く、平穏で、安穏と、暮らしていたのであろうか?

多分、そんな感じであろう。

特に、記事になる様な事は、無かったのであろう。

いよいよ、幼稚園を、去る時が、やって来てしまった!

その時は、結構早く、やって来た様に思う。

祖母が、珍しく、本当に、珍しく、化粧をし、やたら着飾っていたことを、覚えている。

祖母と、連れ立って、幼稚園に、行った事を覚えている。

だけれども、もっと、印象的に、覚えている事がある。

鼻の横にほくろがある先生に、言われた言葉である。

『いい? これは、大事な物だから、大切に仕舞っておいて、絶対に、無くしちゃだめだよ!』

そう言って、渡してくれた物がある。

それは、『卒園証書』、であった。

その先生が、一人ひとりに、小さな講堂で、手渡してくれたのを、覚えている。

鼻の横にほくろのあった先生は、涙を流していた様に、思う。

『松組』の部屋に戻り、荷物を祖母がまとめ、幼稚園の広場に集まった。

そこで、先生達も含めた職員が、手でアーチを作って、その中を、私達は、拍手と共に送られていった。

私は、これは楽しい遊びだと思い、もう一度、その中を、潜り抜けてみたかった。

だけれども、祖母は、私の手を強く引き、その場から、立ち去ることになってしまった。

『梅組』の先生ともお別れである、とは、私は思っていなかった。

それが、その日が、お別れの日だとは、思ってもいなかったのである。

そう言えば、アーチを作ってくれていた先生達も、涙を流していた様に思う。

次の日、幼稚園に行こうと思っていたら、祖母が、何やら、黒い物を持ち出して来た。

『今度からは、これだよ!』

それは、幼稚園のランドセルとは、比べ物にならないほど大きく、また、重かった。

それに、とにかく、体に合わない!

何で、こんな物なの? と、思いつつも、ベルトの長さを、無理矢理、体に合わせていった。

そう言えば、坂の向かいの『ちーちゃん』が、赤い、同じ様なものを、背負っていた。

私は、少しではあるが、幼稚園から、去らなければならない事を、感じていた。

『卒園証書』は、蛇の柄の様な、黒い筒に入れられ、仏壇に、供えられた。

私は、大事にするって、そう言うことなのかなぁ?

と思いつつも、お団子や、果物と一緒に並べられている、その黒い筒が、どうしても気になってしまって、仕方が無かった。

その夜、野良仕事から帰って来た、父親も、そして母親も、その筒を開けて、中身を見る事は無かった。

大事な物ではないのかなぁ?

私は、本当に、不思議でならなかった。

暫くして、何だか、色々な事が悲しくなってしまって、泣いた覚えがある。

それは、もう、幼稚園に行く事ができなくなってしまったからなのか?

それとも、『梅組』の先生に、会えなくなってしまったからなのか?

『卒園証書』を、ぞんざいに扱われたからなのか?

そtれは、全く、解らなかった。

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2009年12月 6日 (日)

『色の付いた、箪笥』 (幼稚園年長時代 ⅩⅠ)

ある日、幼稚園から戻って来ると、玄関の三畳間に、5色に、色分けされた、綺麗な箪笥?が、置かれてあった。

私は、何だろうと思っていたが、祖母が、

『これからは、自分のことは、自分でするんだよ!』

と、突然、言った。

私は、特に、気にも留めなかったが、

祖母が、

『これを貼りなさい!』

と言って、糊と、墨で何か書かれた、紙片を、持ち出して来た。

その紙片には、

『ハンケチ・タオル』

『くつ下』

『パンツ・シャツ』

『うわぎ』

『ズボン』

と、書かれていた。

その、5枚の紙片があった。

祖母は、

『引き出しの、右上に貼りなさい。』

と言う。

私は、こんなに綺麗な物なのに、どうして、紙切れを貼るのだろうと、随分と、不思議に思っていた。

祖母は、新聞紙を持って来て、糊の蓋を開けた。

私は、糊を、その紙切れの裏に塗り、仕方無しに、綺麗な、色分けされた、引き出しに、貼っていった。

何だか、とっても、残念な気持ちであった。

その作業が終わって、祖母は、その、綺麗な箪笥を、旧家の、西北の部屋に持って行った。

そこは、父親と、母親の部屋であった。

その、綺麗だけれども、残念な箪笥になってしまった物を眺めていると、祖母が、2階から、私の寝具を、運んで来た。

『まくらを、持って来なさい!』

祖母が言う。

私は2階に行き、まくらを持って来た。

その時に、既に、私の布団は、押入れに、仕舞われてしまった、後であった。

押入れの戸は、開けられていた状態であった。

『まくらは、一番上に、載せなさい。』

それが、祖母の、最後の言葉であった様に、思う。

祖母と寝起きを共にしていた私は、洗濯物などを、片付ける事は、まず、無かった。

それに、いつも、枕元に、次の日に着る服が、置かれてあった。

だから、朝起きて、その置かれている服を着る。

布団は、片付けた事が無かった。

布団の上げ下げも知らず、布団が、何処に仕舞われているのかさえ、知らなかった。

ましてや、自分の服が、何処に仕舞ってあるのか?

そんな事も、知らずにいた。

5色の箪笥は、母親の、嫁入り道具として持って来られた、茶色い、箪笥の横に置かれた。

私は、何かを感じてはいたが、とにかく、2階に、祖母と祖父の居室に、私の居場所が無くなった事を、感じた。

とにかく、母親の帰りを待った。

その時には、妹達は、既に、父親と母親と、寝起きを共にしていた。

私だけが、別に、寝ていたのである。

母親は、淡々としていた。

布団を、どう敷こうか、それだけが、悩みであったようである。

私は、一番、東側に、寝かさせられた。

西から、父親、上の妹、下の妹、母親、そして、私である。

その日から、家族5人の、生活が始まった。

やっとなのか?

それとも、普通なのか?

私には、本当に、さっぱり解らない!

とにかく、そういうものだったのかどうなのかは、解らないが、私は、小学校入学を間近に控え、母親と、父親と、妹達と、寝起きを共に、することになったのである。

ただ、相変わらず、父親と母親は、朝早くから、出掛けて行く。

父親と、母親の布団は、何時の間にか片付けられ、私達の、布団だけが残っている。

上の妹は、さっさと、布団を片付けた。

下の妹の布団も、片付けた。

だけれども、私は、それができなかった。

どうしても、布団を、片付ける事ができなかった。

上の妹は、冷たくは無かっただろうが、私の布団に、手を出す事は、決して無かった。

妹は、何時の間に、そんな躾を受けたのであろうか?

今考えてみると、とっても、大人だった様に思う。

未だ、たった、4歳なのに・・・。

北西の部屋は、とっても寒かった!

とにかく、寒かった!

でも、5人で寝ることによって、少しは、暖かくなったのかも知れない。

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2009年12月 5日 (土)

『温室。』 (幼稚園年長時代 Ⅹ)

祖父は、背が低く、とても痩せていた。

体が弱く、米俵など、決して、担ぐことなど、無かった。

野良仕事も、一切、しなかった。

とにかく、力が無く、重たい物や、大きな物を持っている姿は、一回たりとも、観た事が無かった。

祖父は役場に勤めていた。

日々、それだけであった。

それでも祖父が、外に出掛ける時があった。

旧家から、200m程、離れた所に、比較的広い、畑があった。

その脇に、全面ガラス張りの、温室があった。

鉄骨で組み立てられ、その当時にしては、比較的、上質な温室であったと思う。

そこが祖父の、休日の、居場所でもあった。

私達が野良(田畑)で遊び捲って居る時に、雨に見舞われたときなどは、そこが、避難場所でもあった。

また、冬の寒い日などは、格好の遊び場所にもなった。

温室の中には、様々な植物が生息していた。

アロエなどは、大きな、お化けの様な、姿にまで、成長していた。

季節によって異なりはしたが、大体、花が咲いていた。

チューリップ。

水仙。

コスモス。

パンジー。

すみれ。

シクラメン、などなど。

バラもあっただろうか?

とにかく、様々な花が、植えられていた様に思う。

子供にとっては、花の名前などは、どうでも良かった。

ただその香りと、温室の暖かさがあれば、それで良かった。

祖父は、温室での遊びを、あまり好まなかった。

要は、私達が、植物を、荒らしてしまうからである。

それでも、私達を、無下に扱う事はなかった。

たまに、手伝いをさせられた。

木箱に、花を、移し変えるのである。

小さいシャベルを使って、ビニール製の、鉢に、移し替えるのである。

そうして、箱が一杯になると、じょうろで、花達に、水を与える。

その箱は、温室の入り口に、並べられる。

日曜日は、市場が休みだったので、そのままであった。

月曜になると、父親がそれを、市場に運んでいたようである。

祖父の肩書きは、一応、園芸農家、でもあった。

力が無い。

虚弱体質。

それでも何かしらの事を、祖父はやっていたのであった。

ただ単に、役場に通っているだけだと思っていた。

祖父の、その仕事を認識したのは、私の、行動範囲が、広くなってからの事であった。

あるときに、大きな台風に、見舞われた。

温室のガラスが、殆ど吹き飛ばされ、鉄骨の枠組みだけになってしまった事があった。

温室園芸は、リスクがとても高い!

だけれども祖父は、コツコツと、園芸を続けた。

役場を退職してからも、続けていた様に思う。

晩年は、盆栽に、移行をしたと思った。

温室の建物は、地形の関係から、南北に、建てられていた。

その北側の入り口に、1本の、木が植えられていた。

後から聞いた話であるが、私が生まれた時に、植えられた木だと言う。

ポプラであったろうか?

妹達の物はと聞くと、

『女の子は駄目だ!』

要は、根が張ってしまうものは、駄目なのらしい。

ポプラは、とてつもなく、大きく成長をした。

熱い温室の中での作業は、体を休める場所を必要とした。

その木陰が、休憩場所でも、あったようである。

今は、残念ながら、温室も、そして、そのポプラの木も無い。

祖父が晩年、体を弱くし、温室の面倒を看る者が誰も居なくなり、その祖父の衰えと共に、温室も、木も姿を消すことになる。

あの居心地が良かった温室。

それは祖父の、別荘でもあり、息抜きの、憩いの場でも、あったのであろう。

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2009年12月 4日 (金)

『DUTUSUN!』 (幼稚園年長時代 Ⅸ)

畑での収穫が終ると、父親は、耕運機で荷車を牽引し、戻って来た。

そのまま、家の前の坂を下り、川端へと、向かう。

母親は、重いリヤカーを牽き、鍬などの農具を積んで、帰って来た。

母親も、川端へと、向かう。

そして、収穫してきた野菜を、藁を束にした物で、せっせと洗う。

それから、藁で、それらを束ねる。

出荷できる物は、市場へと運ぶ。

出荷できそうに無い物は、自宅へと、運ばれる。

夕暮れになり、薄暗くなっても、その作業は終らない。

とにかく、終らない。

市場へ運ぶ準備ができると、今度は、二人で、耕運機に牽引された、荷車の前に付いている座席に座り、市場へと向かう。

父親と母親が、家に戻って来るのは、大体、20時頃であったろうか?

毎日、日の出頃から働き出し、夜まで、働く。

本当に、父親と、母親の姿を観るのは、稀に近い状態であった、と思う。

とにかく、厳しい、生活状態であったことには、間違いが無いであろう。

後から母親に聞いた話であるが、収入は、殆ど、無かったと言う。

祖父は役場で働いていて、大そうな収入はあった。

だけれども、その収入は、家を守るため、本家の意地を保つため、また、見栄を崩さないために遣われた。

家族には、その収入は、回っては来ない!

父親と、母親は、田畑を守るため、そして、私達兄妹を養育する為だけに、働いていた。

とにかく、本当に、貧乏だった事には、間違いが無いであろう。

母親は、雨の日などに、セーターや襟巻きを編む。

妹達に、お手製の、ワンピースを仕立てる。

買い物などに、行った事などは、全く無い!

私の服は、全部、叔父などのお下がりを、母親が、子供用に、仕立て直した物ばかりであった。

また、親戚から、頂いて来た物ばかりであった。

靴だって、幼稚園の上履き以外に、新品を買って貰ったことなどなかった。

本当に、どうやって、やり繰りをしていたのであろうか?

私達兄妹には、その当時は、そんな事は、知る由も無い。

それが当然であったから、考える事も無かった。

お洒落とか、ファッションとか、そんなものなど、全く関係が無かった。

服のセンスなど、何も気にもしなかった。

ズボンや上着の、当て継。

靴下だって、穴が開くと、当て継をした。

着心地だって、関係が無い。

とにかく、何かを着ていれば、それで良かった。

あるとき、父親だけが、野良仕事に出かけない日があった。

母親は、野良仕事に行っている。

私は、いつも通り、幼稚園に向かい、そして帰って来た。

すると、色は、水色であるが、どうにもくすんだ、美しくない水色のトラックが、家の庭に停まっていた。

トラックの後の部分には、白い文字で、『DATSUN』と、書かれていた。

その傍で、父親が、満面の笑みを湛え、何か話をしている。

ふと、庭の東側を見てみると、牛の、『あお』の居た牛舎の中が、綺麗になって、何も無くなっていた。

『DATSUN』は、そこに納められた。

それからは、耕運機は、家で、留守番をする事が多くなった。

父親と母親は、仲良く、くすんだ水色のトラックに乗り、野良仕事に、出掛けて行った。

ただ、格段に、時間が短縮されたことは、言うまでも無い!

父親と、母親の、帰りも早くなった!

特に嬉しかったのが、父親の機嫌が、良くなった事である。

とにかく、嵐は吹き荒れなかった。

少し、平和が、訪れたのである。

正月やお盆に、母親は、実家に帰りたかったであろう。

だけれども、親戚が、大挙して押し寄せてくる。

従って、実家に帰っている暇などは、全く無かった。

実家に帰ったとしても、日帰りか、1泊程度であった。

それも、私達兄妹、3人を連れての、バス、電車での移動である。

父親は?

と言うと、母親の実家などには、全く、顔を見せなかった。

父親は元来、出不精であるが、それに加え、バスにも乗らない。

電車にも乗らない。

要は、お金を遣いたくなかったのである。

それにしても、トラックなど、中古車にしても、よく買ったものである。

そのトラックのお陰で、もう一つ、変わった事があった。

父親が、何と!母親の実家に行くようになったのである。

自慢げに、トラックを運転し、母親の実家に行く様に、なったのである。

これには母親も、大そう喜んでいた、記憶がある。

ただ寂しいことに、父親は、『遊び』を、全く、知らなかった。

母親の実家は、修善寺の山奥にある。

その山奥の為、逆に、みんな、『遊び』を、よく知っているのである。

将棋・囲碁・花札・トランプなど。

女性陣は、百人一首をよくやっていた。

とにかく、母親の実家は、賑やかだった。

だけれども、父親は、遊びの輪の中に、入る事はできなかった。

と言うか、入る事ができなかった。

母親の実家に、自慢げに行った父親。

母親の実家で、とにかくひたすら、睡眠を貪っているばかりであった。

でも、トラック1台で、かなりの平和が、訪れた事には、間違いが無い!

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2009年12月 3日 (木)

『回虫!』(>_<)! (幼稚園年長時代 Ⅷ)

今でこそ、無農薬野菜などと騒がれているが、昔の田畑は、本当に、痩せていた。

とにかく、土地に、栄養が無いのである。

夏には、稲作を行い、冬には、野菜か、麦を育てる。

とにかく、田畑は、忙しかったのである。

休む暇も無く、栄養を蓄える時間は無い。

とにかく、何かを生み出していないと、百姓は、食っていけなかったのである。

おまけに、化学肥料などという、高価な物は使えない。

畑の隅で、堆肥を作っていた。

里山から、落ち葉などを掻き集め、稲も細かく切り刻み、堆肥にする。

だけれども、それでは、不十分であったのである。

大部分の畑には、堆肥を作る場所を、設けてあったが、その横に、もう一つ、重要な物が、存在をしていた。

『肥溜め』、である。

畑の香水の、源、である。

それはその当時としては、当然であり、必然であった。

だから、風向きによっては、とてつもない異臭が襲ってくるが、それはそれで、誰も、文句などを言う者はいなかった。

私達子供にとっても、それは当然であり、何も、不思議は無かった。

祖母などは、私達兄妹を、野菜を採りに畑に連れ立った際、私達が小便などを催すと、『勿体無い! ねぎにかけなさい!』とまで、言ったぐらいである。

いくら、国道1号線のバイパスが通ろうが、道路が拡幅され、整備をされようが、それは、全く、関係の無い事であった。

旧家の坂の上の道路に出てみると、南は、柿田の集落まで、ほぼ800m程あったと思うが、そこまでは、家は1軒も無かった。

全部、畑か、田んぼである。

同じく、西側を見てみれば、同じ様な半径で、長沢の集落まで、見通す事ができた。

清水町には、『国立東静病院(現:静岡医療センター)』がある。

そのクリーム色の、大きな建物は、凛として建ち、一つの大きな目印であった。

今は、様々な建物に、その姿が隠されてしまい、確認はできないが、とにかく、そんな物(国立病院)が有ろうが無かろうが、その周辺でさえ、田畑が広がっていたのである。

当然、道路は、農道しかない。

轍が、2本だけ、付いている道路。

と言っても、舗装などは当然されてはいないし、轍以外の部分は、草がぼうぼう、である。

雨が降れば、直ぐに水溜りができ、中央の、盛り上がった部分か、両脇の、細い部分を歩かなければならない。

当然、膝から下は、濡れた草で、ぐちゃぐちゃに濡れてしまう。

でもそれも、あまり、関係は無かった。

当然の事なのであるから、親達は、それを一々、気にする事は無かった。

とにかく、一面の、田畑である。

春先になれば、レンゲが咲き乱れ、男の子も、女の子も、関係なく、飛び回って遊んだ。

蛇が出ようが、蛙を踏み潰そうが、トカゲが出ようが、全く、気にもしなかった。

土筆も山ほど採って来て、家の食材になった。

ヨモギも、餅に入れた。

ノビルは、とてつもない、ご馳走であった。

半径800mほどの田畑は、私達の、遊び場所でもあった。

その田畑に侵入して遊んでいても、お百姓さん達は、誰も、目くじらを立てることは、決して無かった。

それでも、一つだけ、絶対に、やってはならない事があった。

それは、堆肥と、肥溜めを荒らす事である。

私達は、稲叢から、稲の束を抜き取り、それに肥を付けて、仲間を、追い掛け回した。

投げ付けもした。

そうすると、遥か彼方から、『こらー! この小僧ら!』と、大きな声が飛んで来る。

物凄い勢いで、お百姓さんが飛んで来る。

私達は簡単に捕まり、げんこつを、食らう。

まぁ、そんな事は、日常茶飯事だったと思う。

逃げる途中で、肥溜めに落ちた者も、多く居たと思う。

そんなある日、幼稚園で、何かを渡された。

私はさっぱり解らなかったが、次の日の朝、母親が、私の肛門に、何かを充てがった。

そして、母親から、『これを持って行きなさい。』と、何かを渡された。

暫くして、幼稚園の先生から、『これを、お母さんに渡して。』と、袋に入った何かを渡された。

その日から、私は、毎食後、薬を飲む事になった。

そして、お尻が痒いと、私が言うと、祖母でも母親でも、いきなり私のパンツを脱がし、私の肛門に、何かを充てがった。

要は、回虫の検査で、陽性反応が出てしまったのである。

農家の子供には、陽性反応が出ている者が、多かった。

それは、その当時としては、仕方の無い事だったのであろう。

化学肥料は、高価で使えない。

人糞に、頼るしか、無かったのであろう。

暫くして、また、検査が行われた。

今度は、陰性であった。

やっとの事で、私は、祖母と、母親の、パンツずらしから、開放されたのであった。

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2009年12月 2日 (水)

『用便!』(>_<)! (幼稚園年少時代 Ⅶ)

小学校高学年ぐらいまで続いたであろうか?

私には、どうしても、抜けない、悪癖があった。

それは、用便(大)をする時に、『裸』になる事であった。

旧家の便所は、家の中には勿論、あったが、外にも便所はあった。

それは、その人糞を、畑の肥やしにあるからであった。

百姓屋ならば、それは普通の事であった。

幼稚園は、新設をされたので、当然、水洗であった。

だが百姓屋は、肥溜めであった。

外の便所は、とても臭く、暗く、ハエも蚊も、その他の虫達も、とても多くて、とてもじゃないが、入れたものでは無かった。

だけれども、日中は、何回かは、使わされる事があった。

夏などは、アンモニア(その当時は全く解らない!)が眼に滲みて、それに、ハエと蚊の大群に襲われて、とても用便どころではない!

冬は、隙間風に襲われて、やはり、とても用便などはすることはできなかった。

だが、用便をさせられた。

祖母がついて来る。

下半身だけ、全部脱がされ、それで用便を足していた。

上半身は、服を着ていたように思う。

だけれども、とにかく、外の便所が嫌いで、本当に、参っていた。

ところが、妹達は、外の便所を使わないのである。

どうしてなのだろう?

その頃は、男女の区別も、特に、意識はしていなかった。

幼稚園も、トイレの入り口は一緒で、中で男女に、分かれていた。

どうしてなのだろう?

私は、外の便所を使うことを拒んだ。

とにかく、拒んだ。

祖母は仕方無さそうに、家の中の便所を、使う事を許してくれた。

だけれども・・・。

家の中の便所は、座敷の南側にある廊下を、西に歩いて行って、その突き当たりにある。

坂の途中にある旧家では、そこは、便所は、日が差さない、一段と暗い場所に、なっていた。

暗い便所。

電灯は、10W位の、裸電球であったであろうか?

とにかく、自分の陰で、殆ど何も見えないと、言って良い。

とにかく、『音』で、判断をするしかないのである。

それに、お尻の清浄も、『勘』だけが、頼りであった。

やはり、そこも、アンモニアや、ハエや蚊は、外の便所とは、変わりは無かった。

だけれども、嬉しかったのは、祖母が付いて来ないと、廊下に、廊下で、ズボンと、パンツを脱ぎ捨てる事が、できた事である。

その開放感。

祖母からの開放と、ズボンとパンツを、脱ぎ捨てて行く事のできる開放感。

それは、何とも言えない、至極の快感であった。

ある日、幼稚園から戻り、催した。

いつも通り、廊下に向かい、ズボンを脱ぎ、パンツを走りながら、ずり落とさせ、そしてしゃがんで、用便を足した。

次の日の朝、祖母が、私に言う。

『あんた、名札が無いじゃないの!』

確かに、名札が無い。

年少時代には、白いハンカチに、住所と、電話番号と、名前を、墨で書いて、それを、安全ピンで、左胸に留めていた。

年長時代になって、『まつ組』の私は、濃緑色のビニールの、名札をしていた。

だけれども、それが無い!

とにかく、無い!

家中を探してみたけれども、何処にも見当たらない!

祖母は、もしや!と、思ったのであろう。

懐中電灯を持って、便所に向かった。

名札が見つかったのか、それとも見付からなかったのか、それは定かではない!

『幼稚園に行ったら、先生にちゃんと言うんだよ! 無くしちゃったって。』

私はうな垂れて、幼稚園に向かった。

鼻の横にほくろのある先生は、特に気にもせず、直ぐに新しい名札を私にくれた。

その頃の安全ピンは、あまり品物が良くなかったらしい。

名札を無くす事は、多々、あったようである。

私は、安堵はしたのであるが、それから、とにかく、名札の事が、気になって気になって、仕方が無かった。

とにかく、いつも左胸にあるのかどうなのか?

右手で触っては、何時も確認をしていた。

それからである。

とにかく、私が、全裸に、と言っても、靴下は履いているのだが、それで、用便をするようになったのは、である。

祖母が、懐中電灯を片手に、便所に向かった事。

その事は、脳裏に焼き付けられてしまった。

それからは、どんなに緊急でも、緊迫した状態でも、焦っていても、お尻と太ももをよじっていても、全裸になるまでは、我慢をし続けた。

しかしながら今度は、全裸になって、用を足すことが、段々と、爽快感に変わってしまっていったのである。

その後、幼稚園で、催して、しまった事がある。

私は、我慢をし過ぎて、お腹が痛くなってしまった。

鼻の横にほくろのある先生が、もう、園長先生になっていたであろうか?

心配をして駆け付けてくれた。

私は何とか、話をしたのであろう。

トイレに連れて行ってもらった。

だけれども、用便をする事ができない。

先生は、ズボンは下げてくれるのであるが、それ以上は、何もしてくれない。

とにかく私は、全てを脱ぎ捨てた。

とにかく、裸になった。

そうして、トイレの中は、田舎の香水とでも言うべき香りが、充満してしまう事になるのである。

先生は、優しかった。

幼稚園のトイレの扉の高さなど、たかが知れてる。

大人であれば、上から、覗き込むことなど、簡単である。

その扉に、先生は、服を掛けてくれた。

私は、要領を、覚えてしまった!

とにかく、中に入る。

扉を閉める。

そうして、着ている物を、扉に掛ければ良いのである!

アンモニア臭も無い!

ハエも蚊も、ましてや、ムカデもいない!

そして、祖母も居ない!

私は、そこでも快感と、爽快感を覚えてしまったのである。

ただ、暫く、相当、暫く、続いた事がある。

私の、『あだ名』、である。

みんなから、

『ウ○チ! ウ○チ! ウ○チ!』 、

と、呼ばれ続けたのである。

でも、私は、特に、気にはならなかった。

家の便所に比べたら!

そこは、パラダイス! 天国であった。

おまけに、トイレットペーパーと言う、この世の物とは思えない、柔らかい、グッズも揃っていたのであるから。

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2009年12月 1日 (火)

『祖母の戸棚』(>_<)! (幼稚園年長時代 Ⅵ)

旧家の、居間と、食堂兼台所の間には、10畳ほどの、板の間があった。

そこでは、石臼で、豆を挽いたり、蕎麦をうったり、様々な作業が行われた。

ただ、とても薄暗く、戸棚などは、全部、黒色であった。

そして寒い。

だから私達兄妹は、その部屋には、あまり近寄らなかった。

実際、その部屋には何が置かれていたのかと言うと、乾物類や、らっきょう、干し柿など、保存の利く食材が、置かれていた様に思う。

また、石臼や、木槌、木鉢、延し棒や、延し板などの道具類。

それに、お膳や、重箱、木のお茶碗、盃、徳利、その他の食器類など。

お盆や正月など、親戚が大挙して押し掛けて来た時などは、その部屋は、女の人達で、ごった返していたものである。

父親の兄妹は7人。

母親の兄妹は、4人。

父方のいとこは、最終的には、私を含めて13人。

母方のいとこは、11人にも膨れ上がってしまった。

その子供達だけでもたいそうな数に上るのに、それに、そのいとこ達の親が加わると、とんでもない人数になってしまっていた。

お盆前か正月前か、忘れてしまったが、ある日、祖母が、いつもは開くこともない戸棚を開け、何かしら、片付けをしていた。

ただ、私達から、何かを隠そうとしていた事だけは、理解ができた。

『ここは開けては駄目だよ!』

と、祖母は言う。

少し前までならば、きちんと、言う事を聞いていた。

しかしながら、幼稚園に通い、何かしらの知恵を付けて来てしまった私には、もう、それは、通じることはなかった。

祖母が居なくなったことを見計らい、妹達と、その、戸を、開けてしまったのである。

まるで、パンドラの箱を開けるように!

すると、私達の眼の中に飛び込んで来たのは、今まで眼にもした事が無い程の、お菓子の山であった。

かりんとう。

柿の種。

金平糖。

芋菓子。

おせんべいの山。

さきいか、などなど。

そして、みかんや、りんごや、ももや、その他のフルーツの缶詰。

缶詰は、さばや、さんまや、鮭、コンビーフなど、その他の缶詰も、山の様に、積まれていた。

とにかく、驚愕の瞬間であった。

そこは、祖母の、いや、平出家の、食糧庫であったのである。

とにかく、物凄かった。

その他には、お出汁だとか、かつお節、コンブなども、数え切れないほどに、詰め込まれていた。

しかしながら結局、それらは、お盆と、お正月に、殆ど、消費をされてしまう。

結果、戸棚の中は、また、空っぽになってしまう。

そしてまた、祖母は、コツコツと、食材を蓄えるのである。

まるで、『アリとキリギリス』ではないか!

とにかく、本家の宿命と言うべきものなのであろうか?

何人もの食い扶持を、用意しなければならない。

そして、宴会を催さなければならない。

それは、祖母にとっては、年中行事の中でも、とても苦心し、苦労し、重大な責任であったのであろう。

私達兄妹は、日頃、全く近寄ってはいなかった、薄暗い、板の間に、近付く様になっていた。

どうにも、あの、お菓子達が、忘れられないのである。

あのような物が、家の中に、あったとは!

本当に、信じられない、光景であった。

忘れられない。

そしてうろつく。

だけれども、戸棚を開けることは、二度とできなかった。

祖母のお灸と、父親のびんたが、とても恐ろしかったのである。

ただある時、宴会の準備をしていた時であったろうか?

一人の叔母さんに、

『あなた達、これ食べる?』

と、おせんべいを差し出された。

私達は、当然、戸惑った。

祖母の顔色を覗う。

だけれども、祖母は、こちらを向かない。

私達は、まるで、犬や猫が餌を貰い、それを持って逃げ去るかのように、板の間を出た。

そして3人で、こっそりと、醤油味のおせんべいを、堪能したのである。

その様な事があってから、祖母はたまに、お菓子を与えてくれるようになった。

ほんの少しではあるが、お菓子の残りなど、お零れに預かる事はあった。

ただ私は、どうしても、『さきいか』が、食べたかった。

何かの拍子に、叔父さん達から、与えられたのであるが、その味が、どうしても忘れられないのであった。

祖母に、哀願してみた。

すると祖母は、

『これは、ともよし達に食べさせるものだから、駄目!』

と言う。

お盆だったと思う。

いとこの『ともよし』達がやって来た。

すると祖母は、木の器に、様々なお菓子を盛り付け、勿論、『さきいか』も、入っている。

それを、『ともよし』達に、差し出したのである。

私達兄妹も、そのお零れに与ろうと、木の器を取り囲んだ。

だけれども、

『あなた達は、いつも食べているから、いいでしょ!』

と、祖母は言い、私達を、その場から引き離した。

何と言う、理不尽なことであろうか?

(僕達は、食べていない!)

でも、祖母の見栄には、敵わなかった。

私達は、ただ単に、それを見ているだけであった。

本家としての宿命。

本家としての見栄。

そして、それを維持する為の、日頃の、超貧弱な、食事。

子供心に、何となくではあるが、合点がいったような気もした。

だけれども、どうしてそこまでするのか?

日頃を我慢して、見栄を張らなければならないのか?

無言の食事が、楽しいのか?

お盆が過ぎ、親戚の出入りも無くなる。

そうすると、私達は、梅干。

祖母は、金山時味噌の食生活に、また、戻るのである。

お盆や、お正月は、親戚が沢山集まって、確かに楽しかった。

父親も、怒らなかった。

母親も、賄には追われたが、それでも野良仕事よりは、ましだったようである。

平出家のパンドラの箱。

それには、本家の見栄と、意地も、詰っていた様である。

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2009年11月30日 (月)

『食事!』(>_<)!(幼稚園年長時代 Ⅴ)

旧家の、台所兼食堂には、大人が軽く、12人程度は囲む事ができる、それはそれは、とても大きなテーブルがあった。

黒光りをしていて、とても重く、ちょっとやそっとでは、決して動かない。

そのテーブルの上には、いつも置いてあった物が、幾つかあった。

お櫃。

お盆の上に、伏せて置かれたお茶碗。

同じく、湯呑み。

箸立て。

急須と、茶筒。

自家製の、梅干、らっきょう、金山時味噌。

沢庵などの、漬物類。

佃煮。

のりたまの、ふりかけ。

調味料、などなど。

とにかく、百姓屋であったため、何時、誰が来ても、直ぐに食事を摂る事ができるように、準備がされていたようである。

ただ、私には、『朝食』を、摂った覚えがまるでない!

とにかく、朝食を食べたのか、食べなかったのか、まるっきり、覚えが無いのである。

朝、起こされて、直ぐに、着替えをさせられ、そして、幼稚園に送り出されていた様に、思う。

だから、歯磨きも、しなかったのでは無かろうか?

私達兄妹の面倒は、祖母が看ていた。

母親は、野良仕事に追われ、私達の面倒を看る事は、まず、無かった。

祖母は、3人の子供の面倒を、果たして、きちんと看ていたのであろうか?

とにかく、朝食をまともに摂った覚えは、まるっきり無い。

結局、その悪癖は、中学時代まで、続いてしまうのである。

では、昼食は?

と言うと、これもまた、はっきりとした、覚えが無い。

ただ、小さなランドセルの中には、いつも、何かしら入っていた様に思う。

そして、幼稚園でも、何か食べていたように思う。

覚えているのは、鼻の横にほくろのある先生が、牛乳を、毎日温めて、私に与えてくれていた事である。

私は、牛乳には、とても弱い。

だから、直ぐに、お腹に来てしまう。

そんな記憶もあるので、幼稚園では、何かしら、昼食を摂っていたと思う。

お弁当と、給食の、複合であったのだろうか?

その辺りは、定かではない!

何れにしろ、昼食は、しっかりと摂っていたのであろう。

まぁ、昼食はともかくとして、夕食は、酷かった。

とにかく、酷かった。

祖母は、私達3人が揃わないと、食事を始めさせてくれなかった。

それも、3人並んで、きちんと正座をして座るまで、それを許さなかった。

そして、そのままの姿勢で、お茶碗に、ご飯を盛るのである。

姿勢を崩しては、いけなかったのである。

私達は、のりたまを、ご飯にふりかけて、食べてみたかった。

だけれども祖母は、

『それは、叔母の物だから、食べては駄目!』、

と言う。

私達は、梅干から、ご飯を食べなくてはいけなかった。

それに、家の鶏達が、毎日産んでくれる、新鮮な卵達は、私達には、決して回って来る事は無かった。

それは、社会人として働き始めた、叔父と叔母の、胃袋の中に、納まっていた。

たまに、そのお零れが回って来たとしても、炒り卵であり、それを、3人で分け合って、食べなければならなかった。

主食の米は、山ほどある。

それは幾ら食べても、構わなかった。

だけれども、副食は、一体全体、何があったのであろう?

何も、記憶が無い。

覚えているのは、たまに、魚肉ソーセージが出て来たこと位である。

それも、一人、3切れ程度であったと思う。

ロースハムが、出て来たこともあった。

ただ、私が、1枚。

妹達に至っては、一人、0.5枚。

それに、そのハムに、ソースをかけてもみたかったが、それも、許しては貰えなかった。

仕方が無いので、ご飯に、塩や、醤油をかけて、ご飯を食べたこともあった。

ボールを持って、買いに行った、豆腐や、魚達も、何処に行ってしまっていたのであろうか?

本当に、記憶が無い。

戦時中をくぐり抜けて来た祖母達にとっては、それが当り前であったのであろうか?

当時は、家族揃っての、食事など、一切無かった。

家族団欒、などと言うものは、全く無かった。

それに、食事の際には、無言で、食事をしなければならなかった。

それが、祖母の躾、そして、躾の方針であったのであろうか?

とにかく、私達兄妹は、そんな生活を送っていた。

それと、もう一つ。

食事が終ってからの片付けは、妹が、台所の流しで、お茶碗を洗うのである。

『男は、そんな事はやっては駄目!』。

それも、祖母の、言い付けであった。

何とも言い様の無い、食事であった。

ただ、その祖母の躾によって、得たものも、多かった様にも思う。

特に、箸の持ち方である。

そして、箸の使い方である。

結局、裁縫針などの小物まで、つまめる様に、なってしまった。

それに、姿勢。

とにかく、肘をついての食事などは、考えられなかった。

あとは、お茶碗に口を付けて、ご飯を口の中に掻き込む『犬食い』。

そんな事は、とんでもない事であった。

なので、お箸で、米粒を、一つ一つ、つまんで、食べる様になってしまった。

とにかく、作法だけは、身に付いていった。

ただ、食事のその食材の内容は、とても酷かった様に思う。

だけれども、今、こうして生きている。

だから、そんなには、問題にもならなかったのであろう。

とにかく、そんな、食事でも、人間、生きて行く事ができるのである。

ただ気になるのは、祖母が、本当に、躾を施したのか?

それとも、単に、面倒臭かったのか?

それは、あの世に行って、聞いてみない事には、解らない。

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2009年11月29日 (日)

『SKと言う女の子。』(^o^)/ (幼稚園年長時代 Ⅳ)

幼稚園に行く時は、近所の仲間と通園をしていた。

帰りも、暫くの間は、その仲間達と、帰っていた。

だけれども、暫くすると、『まつ組』の、仲の良くなった仲間達と帰る様に、いつの間にかなっていた。

私は、遠回りをして、帰る様になっていた。

何時の間にか、そうなっていた。

幼稚園から出て、国道1号線のバイパスを渡る。

そうして、旧道を渡るのが、私の通常のルートであったが、その旧道を渡らずに、旧道沿いを歩くか、その裏道を歩くようになっていた。

それも、家のある方向の、南東を目指すのではなくて、南西を目指す様になっていた。

何人かは、いたと思う。

手を繋いで、仲良く帰っていたように思う。

当初、私は、途中でみんなと別れ、見通しの良い場所を選んで、旧道を渡り、そして、田んぼの中の一本道を、東に向かって歩いたと思う。

そして、自宅に戻っていたと思う。

だけれども、ある日から、八幡神社(源頼朝と義経の対面石がある)の方にまで、行く様になってしまっていた。

そこまで行くと、あともう少しで、黄瀬川に出てしまう。

そうすると、もう、沼津市である。

そんな遠くまでは、行った事も無かった。

だけれども、何故かそうなってしまったのである。

結局は、欲望の趣くままに、行動をしたと言う事である。

何人かの、帰りの仲間達の間には、勿論、女の子もいた。

『うめ組』の先生が大好きだった私は、同年代の女の子に、興味は、あまり示さなかった。

だけれども、実際は、そうではなかった。

帰りの仲間達は、段々と、寄り道をするようになっていた。

何人かの家も、知る事ができた。

そして、その家に、上がり込む事もあった。

そうして、その寄り道の距離が、段々と、遠くなって行ったのである。

最初は、床屋さんの家に。

次は、八幡神社の、周囲の家々に。

そして、最後に残ったのが、『SKと言う女の子』の家だったのである。

最初は、結構、みんな付いて来た。

家に、小さなランドセルを放り投げ、そして、手ぶらで付いて来た。

よくよく考えてみると、その女の子は、最後の一人で、帰り道に、一人別れ、二人別れて行くと、結局、最後は、その子、一人だけだったのである。

その淋しさからだったのかも知れないが、その子の家では、大歓迎をしてくれた。

ところがその家は、その当時には珍しい、鉄筋コンクリートの2階建ての家で、真っ白で、庭もとても綺麗に手入れをされており、とにかく驚いたのは、全く知らない、外国の大きな車があったことである。

それに、もっと驚いたのは、玄関がとっても広くて、廊下がピカピカ光っていて、玄関の天井は、2階の天井になっていて、部屋に入ってみると、畳などは、何処にも無かった。

おまけに、幼稚園の講堂にあった大きなピアノと、同じ様な大きなピアノが、置いてあったのである。

絨毯。

ふかふか。

ソファー。

ふかふか。

そして、その子のお母様は、長い、長い、スカートを履いていた。

とても信じられない光景であった。

お皿の上に、コップ(カップ)が載っている。

スプーンも付いている。

橙色の飲み物であった。

サイコロの様な砂糖を入れる。

牛乳(ミルク)も入れる。

クッキーと言う、お菓子も出してくれた。

滅多な事では、食べる事などできなかったケーキまで、出て来た。

その子は、ピアノを弾いた。

何と言う事であろうか?

ピアノを、弾いたのである。

とてもとても、信じられるものではなかった。

その日を境に私は、毎日、その子の家まで、行く事になった。

そこ子を、家まで送って行くと言う訳ではない。

とにかく、何かにあり付きたかった。

とにかく、卑しかったのである。

食い物目当て、飲み物目当てであったのである。

何とも、卑劣で、卑怯な奴だったことか!

でも、そう、毎回毎回、家に上げて貰える訳が無い。

玄関で、バイバイ、と言う事が多くなった。

それでも私は、卑しい心を押さえ付けられずに、お零れに預かろうと、その子を、家まで送り続けた。

そんなある日の事であるが、その子は、『ありがとう!』と言って、突然、私のほっぺたに、チューをしてくれたのである。

『チュウ』。

初めは、それが何だか良くは解らなかったが、血が頭に昇り、股間もおかしくなってしまった。

とにかく、チュウ、なのである。

私は、今度は、それに、眼?頭?が眩んだ!

とにかく、その変な気分に浸りたいが為に、その子の家まで行った。

そして最後には、唇と唇とで、チュウを果たしたのである。

とにかく、昇天も、良いところである。

私は、『悦』に入っていた。

だけれども、その子のお母様が、

『○○ちゃん、もう、およしなさい!』

『だって、お父様と、お母様も、しているでしょ?』

その日を限りに、その子の家には、私は行けなくなった。

途中まで、一緒に帰る事はあっても、家まで行く事は、無くなってしまった。

勿論、『チュウ』も、何もかも、全て消え去ってしまった。

その子の家には、それ以来、未だに、近付いていない。

後で知ったことであるが、その子と『チュウ』を果たした園児は、数え切れなかったと言う。

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