カテゴリー「柿田川」の9件の記事

2017年1月15日 (日)

『ささやかなお礼。』(^^;

(# 九州―46(特:追記))


おはようございます!(^o^)/


【ささやかなお礼。】(^^;


(※注:平成28年6月の記憶です。)


九州訪問から、戻って来まして、『きゃさりん副長。』には、お土産を、届け捲ってもらっていました。

その間に、

「ねぇねぇ。
 九州で、お世話になった人達への、お礼は、しなくていいのぉ?」

と、『きゃさりん副長。』が、私に、聞いてきました。

そこで、

「そうだなぁ。
 贈り物は、何かある?」

と、聞いてみたところ、

「え゛~?
 干物?
 あとはぁ、わさび漬け?
 お茶は、持って行っちゃったし。
 安倍川餅は、静岡だし。
 うなぎパイは、浜松だしぃ。
 こっちには、目立ったお菓子はないし。
 ここって、名物みたいなものが、何も無いよねぇ。」

私も、

(確かに、何も無いよなぁ。
 名物らしきものが。)

と、思っていました。

そうして、二人で、話し合った結果、

「やっぱり、お酒?」

と、『きゃさりん副長。』が言うので、地元のお酒を贈ることにしました。

私の同級生が、酒店の店主をしているのですが、地元の『緑米』を使用し、富士山の湧水で、地元の蔵元が、醸造したお酒です。

早速、同級生に頼んで、贈って貰ったところ、先輩諸氏や、同期生達から、即、反応がありました。 Photo
『きゃさりん副長。』は、九州の皆さんからの、返礼のメッセージや、写真を観て、

「あ~、良かった!
 みんな、悦んでくれているみたいだね。
 これで、やっと、九州訪問が、終わったって、感じだね。」

と、言っていました。 Photo_2
そして、私も、

(あぁ、確かに、そうだよね。
 やっと、終了って感じかなぁ。
 それにしても、九州の皆さんの対応は、とっても、嬉しい限りだね。)

と、思っていたのでした。(^o^)/



(本当に、おしまい!)(^-^)/



皆様、今日も、好い一日をお過ごしくださいませ!(^-^)/

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2016年12月15日 (木)

『当然の登校日。』(・・?

(# 九州―28)


おはようございます!(^o^)/


【当然の登校日。】(・・?


(※注:平成28年5月6日(金)の記憶です。)


『1945.8.9  11:02am』 Img_4545
そこには、無残にも変形し、時を止めたままの、時計がありました。

私と『きゃさりん副長。』は、その時計の前で、ただただ、佇むしかありませんでした。

じっと、その時計を見つめ、言葉を失い、何も語ることはありませんでした。

その、『時を止めた時計』だけでも、私達には、かなりの衝撃でした。

展示室内には、私達以外にも、かなりの見学者がいたのですが、静まり返り、誰も、一言も発することはありませんでした。

皆さん、私達と、同様の想いだったのだと思います。 Img_4548
順路に従って進んで行くと、室内には、原爆投下前の、長崎市内の活気溢れる、多くの写真が、展示されていました。

江戸時代に、唯一、開かれていた街。

その流れを汲んで、国際色豊かな、街並みの様子などが伺えました。

そうして、その街並みの姿が、どの様に変わり果ててしまったのか。 Img_4549
次の展示は、原爆投下後の惨状でした。

『三菱長崎製鋼所』の、グニャグニャになってしまった鉄骨アングルや、火の見櫓など。

また、礎石だけになってしまった橋。

それらの、建造物が、どれだけ、いとも簡単に、破壊されてしまったのか。 Img_4551
そして、『浦上天主堂の惨状』。

説明書きを、覚えようと思ったのですが、無理の様でしたので、写真から、文章に起こします。 Img_4555
『16世紀後半より、キリシタン布教の地として歴史を持つ浦上地区。

1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴史に耐え、1873年(明治6年)禁制の解かれる日を迎える。

信仰の灯を守りとおした人々は、レンガを一枚一枚積み上げ、20年の歳月をかけ、浦上天主堂を1914年(大正3年)に、その後双塔を1925年(大正14年)に完成させた。

双塔の高さは26メートル、東洋一の壮大さを誇っていた天主堂であったが、原子爆弾により、鐘楼ドームは吹き飛ばされ、わずかに側壁を残しただけで、無惨に崩れ落ちた。』 Img_4557
私達の正面には、再現された、浦上天主堂の側壁や、天使像、ロザリオなどが、展示されていました。 Img_4556
私は、それらの展示物を観ながら、

(全てだ!

 命だけではない。

 心の拠りどころ。

 信仰心。

 それまでも、奪われてしまう。

 そして、過去も、歴史も、未来も!

 何もかもだ!

 それも、一瞬にしてだ。

 何と言う、愚かなことだ。

 その上、2発も投下するとは!

 投下された方も、投下した方も、どちらも、結局は、何もかも失ってしまうんだ。

 悲しいだけじゃないか!)

などと、想いを巡らせていました。 Img_4558
そうして、次の展示室に入る前に、『S氏』が、

「おれ、知らなかったんだよ。

 『少年工科学校』に、入るまでさ。

 みんな(全国でも)、8月9日は、登校日だと思ってた。

 小学校の時も、中学校の時も、8月9日は、登校日だった。

 みんな(児童・生徒)が、登校してさ。

 11時2分に、黙祷して。

 それが、当たり前の、当然のことだと思ってた。

 それがさぁ、『少年工科学校』に入ったらさ。

 みんな(同期生)に聞いたら、違う(登校日じゃない)って言うし。

 あれには、驚いたよなぁ。

 まさか、長崎県だけだとは思わなかった。」

その話を聴き、私と『きゃさりん副長。』は、逆に、大いに驚いてしまったのでした。

(え゛っ!
 そうなんだ!
 全く、思いも寄らなかった!)

と、私が驚いていると、

「長崎県民ならば、『1945.8.9 11:02am』と言う数字は、小さい子でも、みんなが知ってる。

 子供の頃から、何回も、何回も、教わってさ。

 だから、原爆のことは、身近で、(原爆や戦争の)知識も、自然と、身に付いちゃうんだろうなぁ。」

と、『S氏』は、言っていました。

その話しを聴いた私は、

(何てこったい!

 私のところでは、幼少期からの、戦争についての教育や、話などは、全く無い!

 小学校でも、中学校でも、何も教わっていない。

 多分、高校でも、同じことだろう。

 それでは、憲法の、三大原則の『平和主義』なんてものが、身に付くはずがない。

 ましてや、戦争や原爆などは、他人事と思っているに違いない。

 この差は、一体全体、何なんだ。

 長崎県や、広島県だけのことなのか?

 確かに、北方領土や、竹島、尖閣諸島などの問題もある。

 だけれども、私達、静岡県人にしてみれば、同じ国内のことなのに、遠くて離れている話になってしまう。

 これでは、本当に、平和ボケだ!

 それも、ボケボケだ!

 そんなことで、本当に良いのか?)

そして、更に、

(私の住んでいる地域は、爆撃を受けたことが無い。

 戦争について、語る人も、誰もいない。

 おまけに、大きな自然災害にも、直面していない。

 東海地震は、確かに、起きては困るが、幸いにして、起きてはいない。

 大涌谷(箱根山)で、火山活動はあったものの、落ち着きを取り戻した。

 富士山は、噴火の兆候はない。

 そして、川の氾濫もない。

 土砂崩れもない。

 落石もない。

 落雷もない。

 竜巻もない。

 でっかい雹も、降っては来ない。

 台風被害もない。

 水は、富士山の雪解け水が、豊富に湧き出ている。

 あるのは、停電ぐらいかぁ?

 何だぁ?

 何にも、襲われていないってことかぁ?

 これでは、『平和』とか、『安全』とか、それらについて『考える力』は、何も身に付かないではないか。

 防災訓練は、確かに行っている。

 でも、それと、『考える力』は、別物だと思う。

 最後には、耐えること、粘ることができる、『人間力』だと思う。

 そのためにも、知識や知恵を身につけて、それを糧に、『考える力』を、涵養していくべきだ。

 何だかなぁ。

 とっても残念!)

と、打ち拉がれていたのでした。(・_・;)



(つづく・・・。)(^^;



皆様、今日も、好い一日をお過ごしくださいませ!(^-^)/

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2010年11月 9日 (火)

(Ca#22) 『ちょっと、悪戯!』(^^; (今現在)

『きゃさりん副長。』が、

『あとは、若い人達に、任せよう!』

と、言ったのかどうなのかは、さっぱり覚えてはいませんが、とりあえず、

『富士スカウトは、富士スカウトが育てる!』

と言う鉄則に則りまして、私と『きゃさりん副長。』は、明日の準備をしようと言う事で、ちょっと、悪戯を始めました。(^^;

Img_1469

ですがまぁ、悪戯と言いましても、れっきとした準備でありました。

今回は、技能章の、『野営管理章』と『環境衛生章』を取得する事になっていましたが、インストラクターの、学習の場であり、自己研鑽の場でもありました。

そこで、インストラクターの『タケ』ちゃんが、

『簡易濾過器って、本当に、綺麗になるんすかぁ?』

と聞いて来ました。

私が、一体全体、今更、何を言っているんだ? と思いまして、『タケ』ちゃんの話を聞いてみましたら、

『技能章取得の時は、「簡易濾過器を製作した経験がる」と言う事だったんで、確か、ボーイ隊の頃に作った経験があったから、「経験がある」と答えたんですけど、実際に作ってみたら、何にも綺麗にならなかったんすよぉ! 本当に、綺麗になるんすかぁ。』

と、言って来ました。(^^;

本当に、あ~あ、であります。(^^;

ボーイ隊の指導者達は、一体全体、何をやっていたんだろうと、思わず考え込んでしまいました。

スカウティングにおける、様々なスカウト技能の基盤は、ボーイ隊の頃に、作り上げておかなければなりません。

ボーイ隊では、とにかく、できるだけ多くの技能を、スカウトに持たせてあげなければなりません。

ボーイ隊のスカウト達は、その身に付けた技能を持って、ベンチャー隊に上進をして来ます。

ベンチャー隊では、その様々な技能を駆使して、よりダイナミックなプログラムを展開する事になります。

ベンチャー隊では、高度な野外活動などを通して、その技能に、益々、磨きを掛ける事になるのです。

ですが、その磨くべき技能を持っていないと言うのであれば、話は全く変わって来てしまいます。

Img_1470

スカウティングは、年代別の部門としては、5つの部門があります。

ですが、それらが、全く別々の活動を行っているのではありません。

私達は、よく『一貫したプログラム』と呼びますが、年代ごとに、また段階的に、スキルを引き上げて行かなければなりません。

ですので、小学校入学前の9月に、ビーバー隊に入隊をしますと、そこからが、全ての始まりとなります。

今回の様に、『水を綺麗にしたい。』と言う事であれば、

・綺麗な水を知る。

・綺麗な水で、水遊びをしてみる。

・汚水を知る。

・どうして、綺麗な水が汚れてしまうかを知る。

・上水道を知る。

・下水道を知る。

・水の循環を理解する。

・水の製造を理解する。

と、言う様な段階を、何年も掛けまして、学習をし、知識を積み上げて行きます。

そうして、水の有り難さを充分に理解した上で、

・綺麗な水を、得る方法を理解し、実践をしてみる。

と言う事になります。

これは、俄かの知識や、一時的な体験では、本物にはならないし、また、絶対に身に付かないと言う事なのです。

ですので、スカウティングでは、幼年期からの、知識と体験の積み上げを、とても重要視する訳なのです。

Img_1471

さて、悪戯?の方も、随分と佳境に入って来ました。(^-^)/

『タケ』ちゃんのご要望に応じまして、『簡易濾過器』を、第2日目に作ってみる事にしていました。

そのための、準備を、『きゃさりん副長。』と一緒に行っていました。

『簡易濾過器』の中には、『砂』を入れます。

ですが、実は一番汚れているのが、その『砂』であります。

その他にも、小石や、砂利なども入れますが、それらは、バケツの中などに水と一緒に入れまして、棒などで掻き回します。

それを何回か繰り返していますと、段々と、綺麗になって来ます。

ですが、一番厄介なのが、この『砂』なのです。

今回は、流水で、洗浄をしました。

ですが、何時間ぐらい、流したのでしょうねぇ。

初めの、泥水から比べましたら、確かに見た目は綺麗になりました。

しかしながら、『砂』の汚れはこんなものではありません。

とにかく、とことん綺麗にしませんと、濾過器を作りましても、泥水しか出て来ません。

本当に、手間隙が掛かってししまいます。

ですが、インストラクターの『タケ』ちゃんの要望でありました。

ここは、インストラクターに恥を掻かせる訳にはいきません。

ベンチャースカウト達に、

『流石は、インストラクター!』

と、言って貰わねばなりませんでした。(^^;

Img_1476

ここでちょっと、私の昔話を、少々。(^^;

私達のスカウトハウスは、東洋一の湧水量を誇る、『柿田川湧水群』の直ぐ傍にあります。

スカウトハウスですが、私の自宅の北側にあります。

そんな位置関係で、幼い頃は、柿田川や、その湧水群などが、私達の遊び場でありました。

豊富な富士山の雪解け水が、年間を通じて、平均15℃の水温で、どんどんと湧き出して来ます。

その湧き場でありますが、丁度、写真の様な姿をしています。

実際は、もっともっと、でっかいのですが。(^^;

写真では、水道水が上から注がれていますが、実際は、当然の如く、全く逆の姿になります。

富士山の溶岩流の末端と言う事もあり、火山礫などが、湧水と共に噴き上げられています。

沸き場の、その火山礫は、とっても綺麗です。

そしてまた、柿田川の川底の小石なども、とても綺麗です。

柿田川湧水と柿田川は、悠久の時を経て、自浄されて行ったのでしょうね。

とにかく、そんな素晴しい大自然の中で、私達は、思う存分、遊ぶ事ができました。

しかしながら現在は、ナショナルトラスト運動の対象となりまして、湧水群は勿論のこと、柿田川にも入る事ができなくなってしまいました。

いつ頃からだったのかは、記憶にありません。

とにかく、柿田川に入る事ができなくなった。

その事を聞いた時には、途轍もない、ショックを受けました。

『私達の柿田川が奪われた!』

そう思ったものでした。

ボーイスカウトの組織の中の、中学生年代の『隊』を『ボーイ隊』と呼びます。

私が、小学校5年生の時に、ボーイスカウト清水町第2団に入団し、仮入隊をした頃は、『ボーイ隊』とは呼ばずに、『少年隊』と呼ばれていました。

私が、その『少年隊』の頃ですが、やはり、様々な山野に、キャンプに出掛けました。

その頃は、キャンプと言ったかなぁ。(^^;

どちらかと言いますと、『野営』と呼んでいたかと思います。

その野営では、河川の水を使用していました。

今現在の様に、川が汚染をされていることは、まずありませんでした。

そこで、川の水などを、まず、晒しで濾しまして、煮沸をして使用をしたものでした。

ただ、雨が降ったりした場合などは、川の水は、当然の如く、濁りました。

特に酷かったのが、雨が上がった後でした。

その様な場合に登場したのが、『簡易濾過器』でありました。

その濾過器でありますが、抜群の威力を発揮しました。

とは言え、私自身は、全く作ってはいませんでした。

そこは、『水は命を繋ぐもの』として、隊指導者の皆さんが養生に当たっていました。

随分と、前置きが長くなってしまいましたが、その『濾過器』に使用をされていたのが、湧水群の『砂』であり、柿田川の『小石』であった訳なのです。

指導者の皆さんは、野営が近くなりますと、湧水群や柿田川から、それらの材料を集めて来ました。

当然、もう、洗浄の必要は無い訳です。

そのまま使用しても、構わない位でした。

しかしながら、一応は、天日干しを行っていたそうでした。

私が、中学校2年生となった時に、突然の、隊指導者の皆さんの解任劇がありました。

それと共に、中学3年生の先輩達が、みんな辞めていってしまいました。

そこで、私が、少年隊の上級班長を任命される事となってしまいました。

私は、新しい隊長と共に、様々な事に挑戦をしました。

ですが、新しい隊長は、保険屋さんであり、野営技能は全くの素人でありました。

ここはもう、私が、準備をするしか無い。

そう思いまして、柿田川湧水群から、辞めていってしまった指導者の皆さんから教わった通りに、材料を集めて来たものでした。

その頃は、未だ、柿田川には入る事ができました。

児童用の公園まであった位ですから。(^^;

本当に、見様見真似でありましたが、そこで初めて、『簡易濾過器』を製作した訳でした。

そしてまた、『そなえよつねに』のモットーのもと、『簡易濾過器』の材料は、常にストックをしておきました。

『シュロ』・『小石』・『砂』の3点セットは、常に用意をしていたものでした。

しかしながら今現在は、柿田川には入る事ができません。

そしてまた、湧水群は、遠くから眺める事しかできないのです。

残念な事に、今現在のスカウト達は、柿田川も湧水群も知りません。

そして、大自然が自浄した、『砂』も『小石』も、全く知らないのです。

この事は、柿田川湧水群の直ぐ傍で生活をしている者だと言うのに、とっても悲しい事だと言わざるを得ません。

本当に、残念で、悲しい事だと思います。

スカウト達は、『砂』や『小石』の、本当に美しい姿を、全く知りません。

従って、『簡易濾過器』も、その『形』だけしか作れないのです。

それが、当然であって、当たり前だと思います。

常に、本物を観る事。

その眼があり、経験があってこそ、本物を作る事ができるのだと思います。

そして、本物を得る事ができた者だけが、『綺麗な水』を得る事ができるのだと思います。

私と『きゃさりん副長。』は、そんな事を話しながら、『砂』の準備を行っていました。

さぁて、スカウト達は、どの程度の『綺麗な水』を手に入れる事ができるのでしょうねぇ。(^^;

かなりの、楽しみでありました!(^o^)/

(つづく・・・。)

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2010年8月 3日 (火)

(きゃ#59) 『ベンチャー隊の奉仕作業!』(^o^)/ (今現在)

私達のベンチャー隊では、継続的な、奉仕作業を行っています。 ↓↓↓

http://bs-shimizucho1.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/o-2836.html

と言う事で、再び、その時期が訪れてしまいました。(^^;

前回は、ベンチャー君自身の分と言いましょうか、100枚を折り込みました。

実は、手作りの地図は、2種類あります。

それは、ベンチャー君が作ったものと、女子スカウトが作成したものとの2種類です。

ですので、いつもは、それぞれ自分が作成した地図を、100枚ずつ、折り込む様にしていました。

しかしながら、女子スカウトは、部活等で忙しかったために、折り込み作業ができずにいたのです。

この時期と言いましょうか、観光シーズンが訪れますと、『案内地図』は、かなりの速さで消費をされて行ってしまいます。

結局、在庫が無くなってしまったと言う訳です。

その状態で、いつ活動に参加をしてくれるのか判らない女子スカウトを待って、折り込み作業を行ってもらう事を、期待している訳にもいきません。

そこで、ベンチャー君にお願いをしまして、本当に、申し訳が無かったのですが、女子スカウトの分についても、折り込み作業を行ってもらう事に致しました。

ちなみに今回は、前回の『評価・反省』を踏まえまして、隊集会の前に、奉仕作業を行なう事と致しました。

と言うのも、隊集会終了後に奉仕作業を行いますと、奉仕作業が、何時終るとも判らず、とっても疲れてしまう事が、判明したからでありました。(^^;

さて、早速でありますが、作業に取り掛かってもらいました。

Img_0756

まずは、A3の白地図の中の、『現在地』の部分に、マーカーペンで、色付けをします。

『地図』は、とにかく、『現在地』が判りませんと、何も判らず、動きが取れません。

特に最近は、『読図』ができる方が、極端に少なくなっている様に思います。

それは、カーナビと言う便利なものが、大変、普及をしてしまいまして、自らが『地図』を見なくても、勝手に、お喋りをしてくれるからであります。

それが、好いのか悪いのかが判りませんが、『地図を判読する』と言う、醍醐味を味わえないのは、何となく、淋しい様な気も致します。(^^;

とにかく、『100枚』は、とっても大変であります。(^^;

Img_0758

まず、マーカーペンでありますが、本当に、マーカーペンで、塗っても塗っても、まだ終らないと言う、とても辛い、単純作業であります。(^^;

たかが100枚、されど100枚。

本当に、馬鹿にはできません!

若いからできるのでしょうね。(^^;

それが『きゃさりん副長。』でしたら、

『もう嫌! もう飽きた! もう止める!』

と、言っているでしょうね。(^^;

本当に、ベンチャー君は、粘り強く、作業を行ってくれます。

ですがやはり、途中で、

『手が攣る!』

と言っては、休憩を取ります。

そりゃそうです。

私も行ったことがありますが、本当に、疲れてしまうのです。(^^;

さて、マーカーペンで『現在地』に、印を付け終えましたら、今度は、A3の地図を、四つ折にして行きます。

Img_0760

この作業も、結構、かったるいものです。(^^;

ただ、ベンチャー君が、マーカーペンで印をしている間は、『きゃさりん副長。』が、四つ折り作業を行っています。

ですので、ベンチャー君が、手作りの地図を折り始める頃には、若干ですが、量は減っています。

それでも、協働して行わないと、地図は、減って行ってはくれません。

そこで、ベンチャー君が、手作りの地図を折り始めますと、今度は、『きゃさりん副長。』が、町から貰っている、『柿田川公園』の、『案内パンフレット』を、折り始めます。

Img_0765

この時の、阿吽の呼吸と言いましょうか、とにかく、見事なものがあります。

どちらかが、何かを言うという様な訳ではなくて、自然と、流れが決まっていて、言葉を発しなくても、本当に、流れる様に、作業は進んで行きます。

ですが、本当に、結構、大変なんですけれどもね。(^^;

ベンチャー君は、『手作りの地図』を、そして、『きゃさりん副長。』は、公園のパンフレットを、それぞれ、ただ、ひたすら折ります。

そうして、それらが折り終わりまして、整いますと、今度は、それら二つの組み合わせに入ります。

Img_0768

手作りの地図の中に、公園のパンフレットを差し込んで行きます。

これも、簡単そうに感じますが、行ってみますと、結構、厄介な作業なのであります。(^^;

地図が、二枚重ねになっていたり、公園のパンフレットも二枚重ねになっていたりと、どうしても、『焦り』の痕が出て来まして、面倒な事もあります。

それに、指の脂と申しましょうか、段々と、紙が捲れなくなってしまいます。

指を、舐める訳にも行きませんし、本当に、厄介なのです。

これならば、新聞販売店で、働けるのではないのかと時々思ってしまう事がありますが、どうやら、レベルが、全く違う様でありました。(^^;

さて、作業の方は、佳境に入りつつありました。

Img_0770

ベンチャー君の手元には、地図は、残り少なくなっていました。

ですが、よくよく観てみますと、パンフレットが、まだまだ、多量に残っているではないですか!

あれっ?と、思いまして、『きゃさりん副長。』の方を観てみましたら、何と!

まだまだ地図が、多量に残っているではないですか!(^^;

そりゃぁ、そうです。(^^;

Img_0771

過去の話をしても、何にも始まらないのですが、いつもは、大体、スカウト2名、指導者2名の、合計4名で作業を行っていました。

ですので、作業の流れも、とても速かったのです。

ですが、それが、今は、スカウト1名の、指導者1名です。

要は、半分の労力なのであります。

ここまで、約1時間の作業時間でありました。

過去の状態であれば、既に、終っている頃でありました。

ですが、この作業は、もう少し、続きそうでありました。(^^;

何もする事ができない私にとりましては、せめて、記録写真を撮っている程度の事しかできませんでしたが、『煩い!』と、言われないだけ、まだ増しだと思いまして、その作業の様子を、見守っておりました。

こんなにも、苦労と努力を重ねているのですが、残念ながら、団の皆さんにも、そして、観光客の皆様にも、何も伝わってはいません。

特に団からは、あまり好ましい『評価』は、頂いてはおりません。

そこで、ついつい、悔しくなりまして、物申してやろうと思うのですが、ボーイスカウト日本連盟の、初代総長、『後藤 新平』の言葉が、どうしても邪魔をしてくれまして、物を申すことができなくなります。(^^;

その言葉とは、『自治三訣(じちのさんけつ)』と呼ばれています。

   『 人のお世話にならぬやう

       人のお世話をするやう

          そしてむくいを求めぬやう 』

という言葉です。

流石に、この言葉の前では、何も申すことができなくなります。

とにかく、ベンチャー君と、『きゃさりん副長。』には、ただただ、感謝であり、『ありがとう!』と、申し述べるだけです。

二人とも、いつもいつも、本当に、『ありがとう!』(^o^)/

(つづく・・・。)

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2010年5月17日 (月)

『一人では・・・。』(>_<)! (今現在)

『IPPEI副長』は、孤軍奮闘で、ローバー隊の中でも、一人で頑張っていてくれました。

そして、指導者型のローバー隊の実践としまして、隊指導者訓練の定型訓練にも、積極的に、参加をしてくれました。

『ボーイスカウト講習会』。

そして、『ウッドバッジ研修所ベンチャースカウト課程』。

また、『ウッドバッジ研修所ボーイスカウト課程』にも、参加をしてくれました。

本当によく、自己研鑽を積み、自己研修も行ってくれました。

ですが・・・。

この頃になりますと、ローバー隊は、『IPPEI副長』を含みまして、4名にまで、クルーメンバーが減少をしていました。

一学年上の先輩達は、大学卒業後、2名の者が、この運動から離れて行ってしまいました。

そして、残りの2名も、ローバーの活動には、めっきり姿を現さない様になっていました。

それから、『IPPEI副長』の同級生のローバーも、同様に、ローバー活動には、全く姿を現しませんでした。

要は、『IPPEI副長』は、独りぼっちだったのです。

それでも『IPPEI副長』は、一人でも頑張っていてくれました。

団の広報が、全く行われていないと知ると、広報用のパンフレットを用意し、それを配布してくれたりもしてくれていました。

団委員会が、ベンチャーの活動に協力的で無い事を知りますと、積極的に、運転手もしてくれました。

ですがここで、大きな問題が出て来てしまいました。

一つは、隊指導者訓練への参加です。

今現在、ローバー隊では、『ボーイスカウト講習会』及び、『ウッドバッジ研修所』への参加を義務付けています。

これは、過去に、指導者養成を何も行って来なかった、団の非常に好ましくない、苦い経験からであります。

とにかく、若い溌溂とした指導者は、この運動(スカウティング)には、絶対に欠かせないものです。

それを怠っていた団は、とんでもない『団』だったのです。

『IPPEI副長』は、それを理解し、納得して、定型訓練コースに参加をしていてくれました。

しかしながら、『IPPEI副長』以外の3名はと言うと、あれやこれやと、様々な理由をこじつけて、結局、『ボーイスカウト講習会』しか、参加をしませんでした。

それも、『I君』に至っては、2回もドタキャンをしました。

その上、『ボーイスカウト講習会』で頂いた、折角の資料を、何と!スカウトハウスに放置をしてあるのです。

『G君』は、『ボーイスカウト講習会』の当日、約束の時刻に、スカウトハウスに現れませんでした。

慌てて自宅まで迎えに行きまして、危うく、敵前逃亡を阻止する事ができました。

しかしながら、『ウッドバッジ研修所』は、参加申し込みをしたのに、わざと仕事を入れまして、到々、逃げ切ってしまいました。

『IT君』は、『IPPEI副長』とは、同級生であります。

『ボーイスカウト講習会』への参加は、『IPPEI副長』と一緒でした。

ところが、その後です。

『IT君』は、逃げ回りの人生を選択してしまいました。

とにかく、逃げ回るのです。

電話には出ない!

居留守は使う。

やばいと判断をしたならば、自宅から、逃亡を図る。

そして、行き先知れずになってしまう。

その様な状況を見ていました『IPPEI副長』は、当然の如く、私に文句を呈して来ました。

『隊長の、指導が悪いんじゃないですか?』

『僕、一人だけ参加して、何だか損をしている感じがします。』

『僕、一人だけ、苦労をしているみたいで、馬鹿みたいです。』

『どうして、他の人は、参加をしないのでしょうか? 教えて下さい。』

とまぁ、苦言は呈しますが、彼の優しさがどうしても出てしまうようでして、彼は、それ以上は、私を追及する事はありませんでした。

ですがやはり、その我慢も限度を迎えてしまった様でありました。

その3名の、のらりくらりとした姿。

また、真摯に立ち向かおうとしないその姿。

そして、ローバー隊を、見習ローバーのままで、去って行ってしまった事。

そして、何も研修を積まないでも、自分と同等に、一端の指導者として扱われている事。

などなど。

そしてその3名が、ボーイ隊で、のらりくらりと過ごしている姿を見ましたら、確かに私でも、相当、頭に来ます。

そしてその事を、ボーイ隊の指導者達が、許してしまっている事。

実は、『IPPEI副長』以外の3名は、ボーイ隊に引き取って貰いました。

と言うのも、ボーイ隊が、かなりの低レベルであるからです。

隊指導者を始めとしまして、『お遊び』の伝統が残ってしまったボーイ隊は、どうし様も無い位に、レベルが低下をしてしまっています。

そこであれば、彼等3人も、この運動から、とりあえずは逃げ出す事は無いと思ったからでありました。

員数合わせでは無いのですが、居れば何かの役には立つかなと、思ったのでした。

ですがそれが、とんでもない、逆効果だった様でありました。

『IPPEI副長』にとりましては、

『気に入らない!』

ただ、その一言に、尽きると思いました。

そして、今回の、『実修所』の『基本訓練』への参加でありました。

彼は、今回の参加は、頑なに拒んでいました。

本当に珍しく、頑なでありました。

それと言うのも、やはり、

『自分だけ? 独りだけ? どうして、僕だけが、研修をしなければならないの?』

と言う、気持ちが強かったに違いないと感じています。

ですが、実際には、本人に聞いてみない事には解らない話であります。

ただ、私がそれを強要してしまったこと。

その事が、大きな引き鉄になっていることは、間違いが無いと感じています。

『IPPEI副長』の反乱、とも言える、彼の今までに無かった言動。

彼の心の中は、穏やかでは無い事は、確かだと感じました。

それから・・・。

やっぱり、『独りぼっち』は、好くない様であります。

『IPPEI副長』と同級生の『IT君』ですが、彼は、ボーイ隊の副長と、とっても仲良しです。

プライベートで、一緒にボーリングに行ったり、一緒に食事に行ったりと、とても好く一緒に行動をしています。

その事が、『IPPEI副長』にとりまして、羨ましいのかどうなのかは判りませんが、確かに、気にしている事だけは確かであります。

かなり頻繁に、『IPPEI副長』の口から、『IT君』の話も出て来ます。

実は、『IT君』は、私の手元に置いておきたかったのです。

しかしながら、現実は、そうは上手くは行きません。

『IT君』と『IPPEI副長』で、ペアを組ませて、切磋琢磨をお願いしたかったのですが、脆くも画策は、崩れ去りました。

そして、『IT君』は、ボーイ隊に逃亡をし、『IPPEI副長』は、私の下に、置き去りにされてしまった訳なのです。

それにまた、その事に、追い討ちを掛けてしまう事があります。

ボーイ隊副長は、とっても器用な人間であります

また、やり手の営業マンでもあります。

その為か、また、会社社会でもまれたのでしょうか。

お酒は嗜みませんが、『遊び』に関しましては、ピカイチなのであります。

麻雀・ゴルフ・将棋やトランプ・・・、などなど。

どれをとっても、何をさせても、私達は、誰も敵う事ができません。

そして、『I君』や『G君』、『IT君』達を集めては、食事に行き、麻雀をし、夜中まで『遊び』に付き合ってあげています。

特に、『I君』や『G君』などは、ボーイ隊の活動には、顔も出さないのに、ボーイ隊副長の呼び出しには応じ、そして、遊び捲くっているのです。

また、『I君』の場合は、21時まで仕事だと言います。

ボーイ隊副長は、わざわざ『I君』の都合に合わせて、21時過ぎに集合を掛け、食事に行き、会議を行い、それから遊ぶのです。

一見すると、ボーイ隊の指導者達は、とても仲良しに見えます。

ですが、私に取りましては、本当に、『眼の上のたんこぶ』なのです。

やってはいけないこと。

そして、『I君』達の、ご機嫌取りにしか、思えないのです。

『IPPEI副長』の場合は、昼間から、ベンチャー達と一緒になっての活動です。

当然、夜中までは、お付き合いができなくなります。

ですが、『IPPEI副長』の様子を観ていますと、やはり彼も、遊びたいのでしょう。

そして、同年代の仲間達と、一緒になって、遊びたいのだと思います。

ですが、それができない。

そして、『研修所』も『実修所』も、経験をしてしまっている現在、僅かながら、疎外感も味わっている事だと思います。

その葛藤たるものは、かなりの辛酸を味わっている事だと思います。

片や、スカウティングも何も展開をせず、そして『遊び』が中心となってしまっている集団。

片や、『富士スカウト』を誕生させようと躍起になっている、初老の隊指導者・・・。

どちらが好いのか、どちらを選ぶのか。

その様なことは、全く解り得ぬところであります。

ただ、『IPPEI副長』の眼には、一体全体、何が映っているのか。

楽しい事を、欲している事だけは、確かな様な気がします。

『IPPEI副長』は、どうやら、大きなストレスを抱えてしまった様であります。

そして、ボーイスカウトのダークサイドが、光り輝いて、観得て来てしまった様であります。

苦しく、辛くなってしまったら、人間、どうしたって、楽しく、楽に観得るものの方に行きたくもなります。

また、苦言を呈し、反抗をし、反乱も起こすのだと思います。

『IPPEI副長』が、『実修所』の『基本訓練』から戻って来てからの、私に対して吐き出した、数々の暴言。

一応、危険信号と受け取ったのですが、やはり、根本的な原因が掴めていません。

ですが、『IPPEI副長』は、私に対しまして、反乱を起こす事になってしまいます。

今現在は、彼との通信は途絶えています。

とっても悲しい事であります。

ですが、今の状況では、彼は戻って来そうにもありません。

その仔細に付きましては、また後日、記載をしたいと思います。

今回は、とりあえず、ここまで!

(一時中断。)

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2010年3月 4日 (木)

『泉御殿? 成金御殿?』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅡ)

新築の家は、その全貌が、段々と、見え始めていた。

瓦を、やたらと多く使った、本当に、日本家屋の代表的な様な、形をしていた。

その周囲には、目立った家屋は、あまり無かった。

その上、二階建ての家も少なく、とても目立つ、建物になってしまっていた。

私は、随分と、恥ずかしく思っていた。

その家を、良く言ってくれる方々は、『泉御殿』と呼んだ。

逆に、あまり良く思わなかった人々は、『成金御殿』と呼んだ。

その家の東側には、祖父の温室と畑しかなかった。

南側には、魚安と言う魚屋さんと、工場ぐらいしかなく、これは、遠目に見ても、良く目立った。

西側は、諸に、拓けていた。

田んぼが、ずうっと続き、国立病院まで、これと言った、建物は無かった。

北側には、住宅があったが、2階建ての建物も無く、とにかく、四方八方から、本当に、目立つ建物になってしまっていた。

まぁ、一つの、目印の様な建物になってしまっていたが、やはり、何となくではあるのだが、私自身にとっては、『成金御殿』の様な気がしてならなかった。

それでも、祖父や祖母にとっては、自慢の家だったのだろう。

小学校3年生の、秋ぐらいには、ほぼ、出来上がっていたであろうか?

だけれどもその家には、直ぐには、入居をする事ができなかった。

内装の、問題である。

その頃の家の内装は、その様になっていたのかは、よくは判らない。

漆喰であったりとか、壁紙が貼られていたりとか、その様な感じであったのだろうか?

ところが、その新築の家には、新しい、内装材が、使われていた。

とにかく壁に、新しい内装材を、接着剤で、くっ付ける、と言う物であった。

それが、なかなか、乾燥をしないでいた様であった。

それにその接着剤が、どうやら、体には、良くなかったらしい。

それで、その接着剤が、安定をするまで。

そして、その接着剤が、人体に影響を及ぼさない様になるまでは、入居ができなかったのであった。

新しい家は、建っている。

だけれども、何時まで経っても、住人は入居をしない。

周囲の人々は、随分と、不思議に思ったらしい。

それ以上に、私達兄妹も、不思議に、思ったものであった。

新しい家があるのに入る事ができない。

それは子供にとっては、本当に、不可思議でならなかった。

周囲の人々の、悪い噂は、増々、色々と、広がって行った。

『見せびらかしている。』

とか、

『何処かに、欠陥がある。』

とか、

様々な、憶測を呼んでいった。

最後には、

『お金が足りなくって、家を引き渡して貰えない。』

などと言う、話までになって行った。

まぁ、それはそれで、随分と、面白かったのでは、無かろうか?

結構、周囲の人々を、楽しませたのでは無かろうか?

それにしてもその家は、遠くから本当に良く見えた。

秋の夕日に映えて、良く見えたものであった。

友達の家に遊びに行っても、よく話題になった。

だが実際には、家の内部の事は、良く知らなかったのである。

『中はどうなっている?』

とか、

『部屋は幾つある?』

と聞かれても、応え様が無かった。

何せ、家の中には、入っていないのである。

家の中が、どの様になっているのかなんて、全く判らずにいた。

今思うと、本当に、おかしな話である。

家の西側の田んぼは、長沢部落と言った。

その長沢の、広大な田んぼは、稲刈りが終ると、私達の、特大の遊び場となっていた。

稲叢を、次から次へと渡り歩き、よく荒らしたものである。

その都度、追い掛け回され、とことん、お仕置きを食らったものであった。

時に、何をすると言う訳でも無かったが、稲叢の周囲は、とにかく暖かい。

秋の日は、つるべ落としと言うが、日が翳ってくると、急に冷え込んでくる。

そんな時でも、稲叢の周囲に居れば、それはそれで、暖かく、何とか過ごせたものであった。

今考えてみても、何をして遊んでいたのかと思うと、ろくに思い出せはしない。

ただただ、走り回って、いただけであったのかも知れない。

遊び飽きて、そして、また日が翳って、家に戻ろうとする時に、新しい家を、よく観ていた。

だけれども、実際に戻るのは、その家では無かった。

坂の下の、坂の途中にある、旧家の方であった。

確かに、新しい家は、光っていた。

西日を浴びて、眩いばかりに光っていた。

その姿を観れば、確かに、その当時としては、『御殿』にも、見えたかも知れない。

柿田川の、泉水源地の直ぐ脇に立つ『御殿』。

だからなのだろう。

それで皆さんが、『泉御殿』と、呼んでくれたのであろう。

だけれども私にとっては、その『御殿』に戻る訳でもないし、その家の、中身さえ知らない。

まるで、他人事の様であった。

確かに、遠くからよく目立つ、建物ではあった。

だけれども、私にとっては、自分の家とは、自分の家だとは、到底、思えずにいたのであった。

だからなのかも知れない。

『成金御殿』と言われても、何とも思わなかった。

そして、引越しをして、入居するまでには、相当な時間が掛かったと思った。

その間の時間が、その長い間の時間が、私にとっては、新しい家に対しての、愛着を、生じさせなかったのかも知れない。

今は、この家の周りには、とても多くの建物が立ち並び、また、高い建物も多くでき、この家は、何処からも、勿論、四方八方から見ても、何も目立つ事は、何もない。

大きな建物の陰に隠れてしまって、とても、『御殿』などとは、呼べる代物ではない。

『土地成金』も、『成金御殿』も、そして、『泉御殿』も、時代の流れと共に、消え去ってしまった。

やっとかな?

きっと、やっと、だろう。

祖父達が、作った、作り上げてしまった虚像から、今は、やっと開放をされた気分である。

本当に、やっと、開放をされた、そんな気持ちである。

ただ、本当に、疲れた。

金持ちでもなく、貧乏な家なのに、虚像を作り、虚勢を張っていなければならなかった。

それが、本当に辛く、とてつもなく、嫌であった。

この家には、あまり、楽しい思い出は、残ってはいない。

逆に、嫌な思い出の方が、多いかも知れない。

それが私を、自衛官への道へと進ませる、一つの要因になった事は、間違いが無い!

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2010年3月 3日 (水)

『どうぶつ、たち。』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅠ)

新しい家の、大騒ぎの建て前が終ってから、古い家の方では、ボチボチと、変化が出始めていた。

まずは、庭の東側にあった、牛小屋を改良して使っていた、納屋が、壊されてしまった。

と、同時に、その中で飼っていた、山羊が、居なくなってしまった。

山羊は、虚弱の私のために、母親が、農家仲間から、譲り受けてきたものであったが、その姿が無くなってしまった。

小学校から、戻って来た時であった。

流石に、餌を与えたり、面倒を、多少は看ていたのであるから、それは寂しいものであった。

母親に聞くと、山羊は、新しい家には、連れて行けないと言う。

仕方の無い事であった。

ただそこで、驚いてしまったのが、その納屋の建てられていた場所であった。

無くなってしまった建物の跡を見てみると、そこは、崖、ギリギリに、建てられていた。

崖に近付いてみてみると、軽く、5m以上はあったであろうか?

そんな場所に、どうやって建物を建てたのであろうか?

いくら高い所が好きだからといても、その時は、本当に、恐ろしく思えた。

西側の納屋は、未だ残ってはいたが、そこも様子が、変わっていた。

納屋の前には、様々な動物を入れてあった籠が置かれていたが、その数も、減っていた。

うさぎやアヒル。

ガチョウもいたであろうか?

それに数々の鳥達。

叔父や叔母が、面倒を看ていた動物達である。

まずは、鳥達が、姿を消して行った。

行き先は、解らなかった。

そして最後に残ったうさぎ達。

それも何処かに、消えてしまった。

不思議なものである。

実は私は、その動物達には、あまり愛着は無かった。

とにかく、面倒を看るのが、本当に、面倒臭かったのである。

それに、イタチやテン。

ハクビシンもいたであろうか?

それらに襲われてしまう事もあったし、それを守るために、一々、板で覆ったり、納屋の中にしまったり、とても面倒であったのである。

それに、籠の掃除もしなければならなかったし、一時期は、

(こんなもの。みんな死んでしまえばいいんだ!)

ぐらいに、思っていた時もあった。

それが、いざいなくなってみると、とても物悲しいのである。

本当に、不思議であった。

十姉妹とか、インコもいたであろうか?

とても煩かった。

だけれども、いなくなってしまうと、淋しいと思ってしまうのは、どうしてなのだろうか?

ただ、流石に、鶏だけは、そのまま、残されていた。

それらの小動物がいなくなった後、西側の納屋も、取り壊された。

すると今度は、大きな壁が、現れた。

それも5mぐらいの高さがあったであろうか?

その壁には、やたらと、筋が入っていた。

その旧家を、その家を建てる時に、どの位の労力を要したのであろうか?

要は、斜面になっている部分を、ひたすら削って平らにし、そこに家を建てたと言う事である。

そこまでして、家を建てなければならなかったと言うのは、少しでも、耕地面積を増やす為に、平らな所には、一切、家を建てなかった、と言う事であろう。

それにしても庭は、とてつもなく、広く、なってしまった。

バレーボールのコートが一面、入る位の広さが、出来上がってしまった。

それから暫くして、今度は、大きなトラックが、家の中に、入って来る様になった。

一体全体、何をするのかと思っていたら、庭の西側に、植えてあった木々を、移し変える、作業であった。

家の西側には、大きな木が、多くあった。

その木々が、強烈な、季節風の西風を、防いでいてくれた。

その木々を、新しい家の方に、移し変えると言う事であった。

それで、その為に、広い場所が必要だったのと、納屋が、邪魔であったのだった。

それに、その納屋にいた、動物達も、同時に邪魔に、なってしまったのである。

ただ、あの動物達。

どう考えても、新しい家の方には、居場所は無かった様に思った。

だけれども、何処に連れられていかれたのであろうか?

一番、可愛がっていたのは、父親であった。

父親は、私達には、とてつもなく、厳しく当たったが、動物達には、本当に優しかった。

動物に対する笑顔は、満面の笑みであったが、その様な笑みは、私達には、見せた事が無かったのである。

全く、理不尽なものであった。

庭の木は、次々と、移し変えられていった。

まずは、一番高かった、槙の木から、運ばれて行った。

ただ、相当、根が張っていたようで、とても大変な作業であった様である。

次に、ヒバ。

それから、松。

段々と、座敷の南側が、明るくなっていってしまった。

こんなにも、明るかったのかと想うほどに、太陽の日差しが、厳しかった。

考えてみれば、座敷の南側は、ジャングルに近かった。

そこが、納屋が壊され、高木が無くなって行けば、当然、光はどんどんと、差し込んで来る。

当然の、結果である。

でもそうなると、不思議なもので、その庭にも、座敷にも、愛着が湧いて来るのである。

ここを、この家を離れるのかと思うと、何となく、物悲しくなったものである。

それはそうと、あとは、梅の木。

それから、南天や、つつじ。

百日紅も、あっただろうか?

とにかく、家の南側の木は、ことごとく、運ばれて行った。

但し、杉と、檜は、残されてしまった。

その他にも、一旦は、移植の準備はされたが、そぐわないと言う事で、処分をされてしまった物も、あった様であった。

ただ、私が、とっても気になっていたのは、家の南側の木ではなくて、北側の、家の裏の、木達であった。

ニッキもあったし、枇杷もあった。

桃だって、夏みかんだって、柿だってあった。

ところが、それらには、一切、手出しがされなかった。

とにかく、何もされないでいた。

私は、本当に不思議になって、祖父に聞いてみた。

『出せないんだよ。裏から木は、出す事ができないんだよ。持って行けない。』

そうなのであった。

木々が、あまりにも大きくなり過ぎて、運び出せないのである。

それに、作業をするのにも、あまりにも狭過ぎた。

人が、3人も入れば、一杯になってしまう。

とにかく、裏の木は、諦めざるを得なかった。

祖父は言っていた。

『接ぎ木か何かを、試してみるから。』

しかしながらそれは、叶わなかった。

旧家の庭が、すっかり綺麗になった所で、庭にあった、『池』の全容が、顕わになった。

こんなにも大きな池だったのか!

それが、まず、最初に思った事であった。

池は、東西に、二つに分かれていた。

池の中央には、人も渡れる、石橋まで付いていた。

それまでは、東側と言うか、半分と言うのか、池のその片割れしか、確認をしていなかったのである。

何と言う事であろうか。

随分と、皮肉なものである。

この家を去ろうとした時に、その真相が、見えて来るとは。

本当に、何とも言えない、郷愁感にも包まれてしまった。

その『池』であるが、新しい家には、『池』は、作らないと言う。

と言うか、新築をする場合には、『池』は、作らないのだそうである。

その理由は、定かではないが、祖父も父親も、口を揃えて、言っていた。

旧家の『池』には、鯉や鮒などなど、かなりの魚が棲息をしていた。

それをどうするのかと思っていたら、四男の叔父が、

『明日、池ざらいをするぞ。』

と、言って来た。

池ざらい?

何だろうと思っていたが、池を、空っぽにすると言う。

とにかく、池の水を、全部、さらってしまうとの事であった。

池ざらいには、私達兄妹が、狩り出された。

家にありったけの、たらいや、バケツ。

柄杓に、空き缶。

などなどを持って来て、池ざらいは、始まった。

叔父の話によれば、

『水をかい出せば、後は、魚は、手掴みで取れる。』

との事であったが、とんでもない話であった。

手掴みなんかで、捕獲できる代物では無かった!

鯉の大きい奴なんて、50cm位もあり、とてもではないが、子供の手に、負えるものでは無かった。

それに鮒だって、ゆうに20cmぐらいはあった。

『何だぁ、こいつら。何時の間にか、こんなにでかくなりやがってよ!』

叔父はそう言っていたが、とにかく、手掴みは、到底、無理であった。

その為、たもを持って来て、それで何とか、たらいに移す事ができた。

本当に、悪戦苦闘の連続であった。

作業をしている途中で、突然、叔父の手が止まった。

何をしているのかと、その視線の方向を観てみたら、何と!『亀』、である。

『かめ』が二匹、体を寄せ合う様にして、じっとして板のであった。

叔父は、亀を見つめながら、

『ひょっとしてこれは、おらが、買ってきた奴か?』

『大社のお祭りで、買って来た、あの、亀か?』

そう、呟き続けていた。

叔父は、

『亀はちょっと、そのままにしておこう。』

と、言っていた。

私達は、リヤカーを持って来た。

それに、魚達が入っている、たらいや、バケツを積み込み、川端へと、向かった。

そこで叔父が、魚達を、柿田川の支流に、離していった。

私は、柿田川の水温は低いし、本当に、大丈夫なのかと、怪訝に思っていたが、叔父は、

『大丈夫さ。ちゃんと、生きて行くさ。あのまま、池の中にいたって、死んじゃうだけだから、この方が、良いのさ。』

と、言っていた。

家に戻ってきて、バケツやたらいを、片付けていた。

でも、今度は、どうしても『亀』が、気になって仕方が無かった。

そこで『池』に行ってみると、そこにはもう、『亀』の姿は無かった。

叔父に聞いてみると、

『あいつらは、自分で生きて行くさ。自分で、生きる場所を、探せるさ。』

と言っていた。

本当に、大丈夫なのであろうか?

叔父は、そんな風に、簡単に言い切っていたが、本当に『亀』達は、大丈夫だったのであろうか?

私は、未だ持って、『亀』達がどうなったのか、気になって、仕方が無い。

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2010年2月11日 (木)

『肝?知恵?試し!』 (小学校3年生 ⅩⅨ)

柿田川には、『川端』と呼ばれる場所が幾つかあった。

今では、それらは、使用をする事はできないが、最上流部に、一つ。

東岸と、西岸には、2つずつぐらい、あったであろう?

所謂そこが、近所の女性達の井戸端であり、洗濯場であり、野菜を洗う所でもあり、食品を冷しておく場所でもあった。

また、様々な仕掛けも置かれ、もくずがにや、うなぎなどの、自然の恩恵にも、与った場所でもあった。

そんな川端と、泉公園を、往来する和船が、一艘、あった。

誰が保有していたのか、また、何処に係留をされていたのか、私には解らない。

とにかく、その舟は、大きいお兄さん達が、操船をしていた。

舟には何も付いてはいない。

竹竿一本で、舟を操るのである。

下流に向かう時には、舳先に立ち、舟の行き先を決める。

上流に向かう時には、舟の中央部に立ち、竹竿を水底に立て、それで舟を前に押し出して、進むのである。

相当な腕力が、必要であったろう。

私達が遊んでいると、その舟が、軽快に、そして楽しそうに、行き来をする。

そして、子供では、絶対に行けない様な、鮎や、鱒の棲家にもなっている、下流の、大きな湧き場まで行く事もできた。

そこには、とにかく、とても大きな虹鱒もいた。

ちょっと上のお兄さん達は、その大きなお兄さん達にせがんで、舟に乗せて貰い、その遊覧の旅も、楽しんでいた。

しかしながらその舟には、誰でも、彼でも、乗ることができたと言う訳では無かった。

極々、限られた人間しか、乗せて貰える事はできなかった。

結局、幼い私達は、相手にして貰えなかったのと、その頃は、ライフジャケットなどと言う、とっても便利な物も無かった。

舟の安全性を考えると、とてもではないが、『餓鬼』などは、乗せる事ができなかったのであろう。

そこまで、リスクを負う事などは、できなかった様である。

それも一つの、暗黙の、ルールなのであったのであろう。

ある日、泉公園の、大きなプールの東側に、子供達が集まっていた。

同級生もいれば、少し上のお兄さん達もいた。

すると、川下から、ロープを引いて、大きなお兄さんが現れた。

和船を牽いている。

舟の上には、知らない、おじさんが乗っていた。

多分、その方の、持ち舟だったのではあるまいか?

するとどうだろう?

子供達が、順番に、舟に乗せられていく。

そして和船は、何人かの、大きいお兄さん達に牽かれて、上流部へと、上って行った。

そうして、梅花藻の絨毯の上で踵を返し、下流へと、流れ始めたのである。

舟を牽いていたお兄さん達は、その舟の横に掴まったり、後を追う様にして、川に流されながら、舟と共に、柿田川を下って行った。

東岸の、川端の下流の方に、とても大きな、湧き場があった。

そこは、とても深く、そしてとても大きな湧き場であった。

直径は、10m近くもあったであろうか?

それに、大きな古木に、湧き場全体が覆われ、薄暗くもなっていた。

かなり不気味な場所、と言う感じもあった。

柿田川の水底は、通常は、火山礫のお陰で、黒く観える。

だけれども、湧き場だけは違っていた。

そこだけは、とても深い深い、水色をしているのである。

紺色ではない!

そして、青、でもない!

深い水色なのである。

濃い、水色なのである。

その様な湧き場を、私達は、あおどんぶら、とか、あおどんぶり、と呼んでいたが、私の家の近所では、あおどんぶら、と呼んでいた。

単に、訛っていただけかも知れないが。

その和船は、その場を離れると、一気に、川を下る。

そうして今度は、ある場所で、柿田川を横切る。

そして、対岸である、西岸に舟を着ける。

そこはまた、梅花藻の群生地でもあった。

柿田川は、所々で、水深も、そして、流れの速さも、大きく違う。

湧き場がある所では、水深は深くなるが、流れはやや弱まる。

水草が生えている場所では、水深は浅くなり、流れも、然程、速くは無い。

ただ、湧き場も無く、水草の無い所では、流れが急激に速くなる。

それに、支流からの合流や、湧き場からの湧水が加算されると、本当に、大人でも簡単に、足をすくわれる様な、速さになってしまう。

柿田川は、どの場所をとっても、均一、と言う事は無いのである。

とにかく、川に入って、その足で確かめてみなければ、柿田川の顔は、見えては、来ないのである。

西岸に渡った和船であるが、西岸のその岸辺は、結構、浅かった。

浅いと言っても、お兄さん達の、腰位までは、水深はあったと思った。

今度はそこを、お兄さん達が、えっちらおっちらと、舟を牽いて来るのである。

船上では、おじさんが、華麗に、竹竿を操っていた。

途中、水源地からの放水路と、合流をする所があった。

そこは、お兄さん達も、おじさんも、かなりの力の入れ様で、あった様に思った。

それは、2回か、3回か、繰り返されただろうか?

私は、あわよくば、と思い、そこの集団に近付いてみたが、簡単に、あしらわれてしまった。

結局、和船に乗れず、柿田川の遊覧もできなかった私は、近所の、ガキ大将の、お兄ちゃんの所に行ってみた。

すると、お兄ちゃんは、

『明日、来な!』

と言った。

要は、明日、泉公園に、来い、と言う事であった。

私は、何だろうと、とにかく、悶々としていたが、次の日、いつもの様に、柿田川で、遊んでいた。

すると、そのお兄ちゃんが、現れ、

『付いて来な!』

と言う。

そのお兄ちゃんが向かったその方向であるが、上流部の西岸であった。

そこは、アシが生い茂り、水底が、よく確認できない場所である。

また、アシで、体の所々が、傷だらけになってしまう。

その上、アシによって、湧き場が隠され、一種、落とし穴の様にもなっていた。

だからまず、誰も近寄らない様な場所であった。

通常は、中央の、梅花藻の絨毯の上を、みんなは歩くのである。

わざわざそんな、ややこしい所を通らなくても、と思っていたら、いきなり、お兄ちゃんが止まった。

『いいか! ここに、潜れ! それで砂を少しでも持って来たら、合格だ!』

私は、腰まで水に浸かっていたが、こことは、何処?

と思っていた。

するとお兄ちゃんが、いきなりその場に、潜った。

暫くすると、幾つかの火山礫を手のひらに握り締め、水面に、浮き上がって来た。

『こうするんだ!』

私には、全く、水中の様子が判らなかった。

太陽を背に受けている。

水面に反射して、とても眩しかった。

恐る恐る、水面に顔を浸け、水中を覗いてみると、驚いた事にそこには、直径、3mほどの、『あおどんぶら』が、あった。

私は、全く知らなかった。

四男の叔父からは、アシの方には近付くな!とは言われていたが、まさか本当に、こんな落とし穴があったとは!

でもまぁ、他の湧き場と、そんなに変わりは無いだろうと思って、見よう見真似で、潜りに、挑戦をした。

だけれども、全く、潜れない!

川の上流部でもあるし、水流も、そんなには速くも無い。

ところが全く、体が、潜って行かないのである。

直ぐに、浮いて来てしまうのである。

要は、湧水の、噴出力に負けてしまって、押し上げられてしまっていたのであった。

お兄ちゃんは、

『それじゃぁ、駄目だな! 頼めねぇや!』

と言っていた。

私は、途方に暮れかかった。

だけれども、もしやと思って、その、あおどんぶらの上を泳いで、上流に回った。

そこから一挙に潜って、絶え間無く吹き上げられている火山礫の幾つかを、指の間に挟んだ。

もう、2~3個しか、残っていなかった。

それでもおにいちゃんは、

『ちったぁ、やるじゃねぇか。』

と、言ってくれた。

それから何日かしてから、お兄ちゃんが、

『水中メガネを持って来いや。』

と、声を掛けてくれた。

泉公園の、大きいプールの東岸に、行く事ができたのであった。

ただ、舟に乗った途端に、おじさんが、

『水中メガネで、水を掻き出せ!』

と言った。

見ると舟は、所々で浸水をしていた。

私達ちびっ子は、必死になって、水を掻き出していた。

すると急に、周りの景色が、横に流れ始めたのである。

川の流れに乗ったのである。

今まで、感じた事も無かった、速さであった。

大きな繁みの下に、舟は着けられた。

『あんまり、身を乗り出すなよ。』

おじさんが、そう言った。

みんなは、水中メガネを付けて、一生懸命になって、水中を覗いた。

勿論、私も覗いてみた。

砂が、火山礫が、やたらと噴出されている。

確かに、深いし、大きい。

でも、ただ、それだけであった。

この時は、虹鱒らしきものは、確認ができなかった。

その後、舟は、西岸の川端に着けられたが、

『今日はこれで帰るから、お前達はここから登って、帰れ!』

おじさんは、そう言った。

私の、柿田川遊覧は、それで終ってしまった。

後にも先にも、それで、その一回だけで、あった。

柿田川は、神秘に満ちている。

どの湧き場、どの場所をとっても、一つとして、同じ顔は無い。

そして、まだまだ、知られていない部分も、多々あるのであろう。

私達は、その柿田川に対して、逆らう訳でもなく、恩恵に与りながら、共生をして来た。

そして、様々な知恵や、知識、精神力なども、多く、貰った。

地域の青少年の、縦社会での交流。

それと共に、作られてきた、ルールと、伝統。

本当に、様々なものを、育んでくれたと思う。

柿田川とその湧水。

それは、ただ単に、飲料水を私達に与えてくれているだけではなくて、心の支えとなるべくもの。

命の水とでも例えたら良いのであろうか?

私達に、心の拠り所も、与えてくれている事は、間違いが無い様に、思う。

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2010年2月 9日 (火)

『く・る・み!』 (小学校3年生 ⅩⅦ)

柿田川は、国道1号線バイパスの、本当に直ぐ脇から、柿田川湧水群によって噴出された湧水によって、いきなり大きな川幅の清流となっている。

ここは、私達の、大事な大事な、遊び場であった。

そして、大切な大切な、教場でもあった。

しかしながら今は、それが奪われてしまった。

誰も、柿田川の中には入っては行けない。

だけれども、たった一人、我が物顔で、入って行く人間がいる。

その人間は、知床半島に端を発した、ナショナルトラスト運動を展開し、金を集め、そして、柿田川の保護を、訴えた。

そして、柿田川の中には、誰も入るなと!

でも本人は、入っている。

自然は、みんなの財産である。

たった一人の、研究の材料の為の物ではない!

とは言え、お一人で、頑張られているのである。

そして、その結果が、立ち入らない方が良いと言うのであれば、従うべきであろう。

また、そのご努力と、ご尽力には、敬意を払わなければならないであろう。

沼津市の泉水源地が整備をされ、その東側の、柿田川の中に、公園が造られたのは、何時頃の頃であったろうか?

川の中央部分から、コンクリートで仕切りがされ、長さ50m程のプールが造られた。

横幅は、広い所で、25mぐらいあったであろうか?

その大きなプールと、水源地の石垣の壁との間には、長さ10mほどで、水深も、50cm程の小さなプールも造られていた。

その南側には、ブランコなどの遊具も備え付けられ、私達の、素晴らしい遊び場となっていた。

プールと言っても、コンクリートで仕切られただけである。

その大きなプールの方であるが、水深は、まちまちであり、50cm~1m50cmもあったであろうか?

柿田川の上流(北側)方向は浅く、下流(南側)に行けば、深くなっていた。

私は、プールの南側では足が着かず、恐ろしくて、とてもではないが、近付くことはできずにいた。

プールの底は、勿論、火山礫だらけであった。

気を付けないと、それで足を切ってしまう。

それに、所々に、湧き間があった。

プールの中でも、水が湧いていたのである。

おまけに、水草もが生えていた。

それに、足を取られてしまうこともあった。

また、『はや』などの魚もいた。

プールの南側の深い所では、釣りをしているお兄さん達も、沢山いた。

要は、プールと言っても、天然のプールであって、ただ単に、コンクリートで、仕切りをしたものであった。

実際には、その、『仕切り』の中で遊ぶ者は、本当に、少なかった。

遊んでいる者と言えば、ボートなどのプラモデルを作って来て、それで競争をさせたりと、そんな程度の遊びだけであった。

『仕切り』の中で泳ぐ者など、まず、いなかった。

何せ、水温が、年間を通して、15℃程度なのである。

とてもではないが、水の中になど、入ってはいられない!

30秒とは持たない。

水の中に入ると、まず、体が固まる。

筋肉が、硬直するのである。

そして、次には、体に震えが来る。

そうして、おちんちんが、いきなり、股間に吸収されてしまう。

陰も形も、無くなってしまうのである。

それでも頑張っていると、今度は、段々と、唇が、紫色になってきてしまう。

恐ろしく、冷たい水なのである。

それでも我慢をしていると、段々と、水の冷たさにも慣れてくる。

体を震えさせながら、唇を紫色にしながらも、水の中にいたのである。

しかしながらそんな状態でも、子供達は、また少年達は、大勢の者が、その場所には、集まっていた。

では、一体全体、何をして遊んでいたかと言うと、結局は、川の様々な場所で、思い思いに遊んでいたのである。

川を遡って、上流まで行く者。

そこから、タイヤチューブの、黒い浮き輪などに乗って、下流まで流されてくるのを楽しんでいる者や、エアーマットに乗り、川の流れの弱い所で、漂っている者もいた。

新しい湧き場を探すべく、川の辺を、歩き回っている者。

川を東西に、川の流れに逆らって、何回も何回も、横切っている者。

沸き場の中に、身を沈めて、這い上がり、また身を沈めて、また這い上がったり、そんな事をしている者。

川の辺の大木に、ロープを縛りつけ、川の中に飛び込んで行く、ターザンごっこをしている者。

水中眼鏡をして、片手に『たも』を持って、魚を追い掛け回している者。

沸き場の中に、竹竿を突っ込んで、湧き場の深さを測ろうとしている者。

等々、本当に、様々な、自然を相手にしての遊びが、展開をされていた。

大きいお兄さん達は、一体全体、何をしていたかと言うと、何処から持って来たのかは、判らないが、和船を持って来て、それで柿田川を、上り下りしていた。

それで下流に行っては、大きな湧き場に船を着け、そこで、銛を持って、水中に潜り、虹鱒などを捕っていた。

ただそこには、絶大な、絶対的な、暗黙のルールがあった。

とにかく、浅い所は、それは、川の上流部分であるが、そこは、50cm程度の水深しかなく、そこは、小学生の中学年程度までの、遊び場であった。

その上流部分には、絶対に、舟は、乗り入れる事は無かった。

それにそこでは、釣りや、銛を使っての魚獲りは、行ってはいけなかった。

大きいプールの周りであるが、プールの東北の角の部分が、川の中に出っ張っており、そこがやや、川幅が狭くなっており、そこは流れが急に速くなる。

そこには、幼い子供は、近付いてはいけなかった。

そこは、大きいお兄さん達が、飛び込みの練習や、急な流れに逆らっての、クロールなどの練習場所に充てられていた。

小さいプールの南側には、水源地の、遊水池からの放水路があった。

そこは、とても浅い場所であったのであるが、また、沢蟹などもいたので、ついつい近付いてしまう。

そうすると大きいお兄さん達がやって来て、いつ、水が放水をされるか解らないので、近付くなと言ってくれた。

逆に、放水が終れば、1時間位は安心だからと、一緒になって沢蟹を捕まえたり、釣りの餌にする、川虫などを、獲っていた。

その放水路の流れの、そのまた南側は、更に浅くなっていたが、そこには、『アシ』が、生い茂っていた。

また、プールの上流部分の、西側にも、『アシ』が生い茂っていた場所があった。

だが実は、そこは、とても危険な場所でもあった。

『アシ』に隠された、大きな湧き場が、沢山あったのである。

小学校の、集団登校の成果ではないのだろうが、とにかく、その様な場所は、大きい、お兄さん達が教えてくれた。

それに、暗黙のルールも、指導をしてくれたのである。

釣りを行なうならば、大きいプールの南側。

小さい子は、銛を使ってはいけない。

大きいお兄さんの指示には、絶対に従う。

それは誰であろうと、言う事を聞く事。

そんな自然な伝統が、何時の間にか出来上がっていた。

大きいプールの東側は、川幅も広がり、流れもやや緩やかになる。

しかしその先は、大きな湧き場もあって、急激に流れが速くなっている所もあった、

その近辺は、大きなお兄さん達の遊び場で、私達は、近付くことは無かった。

逆に、お兄さん達がいることによって、幼い私達は、護られていたのかも知れない。

だが、何時までも、川の中に入っている訳にもいかない。

何分かすると、みんなぞろぞろと、プールの周りに、水から上がって来る。

大きいプールの周りには、1mほどの通路があった、

そこに横たわり、冷えた体を温めたのである。

上流の浅い部分や、流れのやや弱い部分には、黄緑色の、とても柔らかい、足がそれに包まれると、とても温かく、気持ちが良い、水草が生えていた。

上流部分は、殆どが、その水草に、覆われていた様にも思った。

そこに横たわると、とても気持ちが良かった。

白い花を付ける。

私達はそれを、金魚草、と呼んでいた。

だが実際は、それは『みしま梅花藻』と呼ばれる、希少植物であった。

川の中や、プールの中には、その気持ちの良い水草以外にも、多くの水草が生えていた。

だけれどもそれらは、茶褐色や、赤茶けていて、梅花藻に比べたら、とても汚く見える物であった。

プールの南東に陣取っているお兄さん達は、よくそれらの水草を、川の中から、引き抜いていた。

但し、梅花藻だけは、絶対に、手を出さないでいた。

それは、所々にある梅花藻は、川の中での、休憩地点だったからである。

梅花藻の中に足を入れ、そこで休憩をし、また、火山礫の川底を歩く。

当然、足は裸足である。

梅花藻は、みんなにとって、大事な大事な、水草であった。

では、茶褐色や赤茶けた水草はどうなのかと言うと、まず、滑るのである。

それに、下手をすれば、足を切ってしまう事もあった。

梅花藻は、清流に良く映える。

従って、水深も、確認がし易い。

けれども他の水草は、水上からは、黒く見えてしまう。

結構、厄介な物であった。

その、引き抜いた水草達を、お兄さん達はどうしていたかと言うと、プールの、南側の、コンクリートの通路の上に並べていた。

プールの南側の外側は、結構、流れがきつかった。

だからそこには、殆ど、誰も近寄らなかった。

だからかも知れないが、まるで、ワカメや昆布を干すようにして、広げていた。

それが乾燥をすると、山積みにする。

それからが、お兄さん達の、醍醐味だったのであろう。

それに、火を点けるのである。

乾燥させた水草を、燃やすのである。

そうすると、下流に居た和船が戻って来る。

舟からは、竹笹を、鰓から口に通された虹鱒が、投げられる。

それをお兄さん達は、焼くのである。

また時には、ただ単に、暖を取るために、燃やされていた時もあった様である。

幼い私達は、それを、最初は遠巻きにして観ていたが、その内に、顔見知りになると、その特別な場所に、私達も、呼んでくれた。

とにかく、暖が取れることが、何よりも嬉しかった。

真夏に、体が震えている。

それを焚き火によって、体の震えを止める。

何とも、おかしなものであった。

それに、焼き魚のお零れにも与ることもできた。

毎回毎回では無かったが、それでも嬉しい、おやつであった。

ある時、近所のガキ大将と言うか、お兄ちゃんが、とにかく、『たも』を持って泉に来い!と言う。

私は、何が何だか解らなかったが、とにかく、『たも』を持って、泉の公園に向かった。

すると、大きなプールの北東の角に、多くの人間が集まっていた。

そのプールの角の対岸を見てみると、一本の大木の上に、2人ぐらいであったろうか?

大きいお兄さん達が登っていた。

その大木の根元にも、何人かのお兄さん達がいた。

そこは、川の流れが、とても急な場所である。

大木の根元と、プールの東北の角とは、ロープで結ばれていた。

そのロープを使って、お兄さん達は、川の中を、行き来していた。

私達は何を命ぜられたかと言うと、その下流の、やや流れが弱くなった所で、陣取れと言われた。

幼い者達は、流れが弱まった、やや浅い部分に、横になって並んだ。

『いいか、お前達! 流れて行った物を、取り逃がすんじゃねえぞ!』

『おっし! 始めるぞ!』

大木の上に居た、お兄さん達は、枝に付いていた何かを、しきりと、叩いたり、枝を切ったりして、下に落としていた。

大体は、大木の下にいたお兄さん達が、キャッチをしていた。

それを今度は、プールの通路の上に運ぶ。

その作業は、大木の上の方で、また下の方で、また、右だったり、左だったり、様々な場所で、行なわれた。

私達は、川下で待っていた。

だけれども、流れて来るのは、葉っぱばかりで、特に何が流れて来るというものでもない。

何をしていたら良いのだろうと思っていたら、私より、かなり東側にいた子が、水面の上で、ずるずると木の枝を引きずって、持って来た。

私は、何だろうと思って、

『何?』

と聞いたら、その子は、

『実が付いてんだよ!』

と言って、プールの縁の方に持って行った。

結局、私の所には、何も流れては来なかった。

『おっし! 良いぞ! 上がれ!』

一人の、大きいお兄ちゃんの号令で、やっと私達は、川から上がる事ができた。

体は、冷え切っていた。

プールの通路を見てみると、大きく山積みされた水草が、二か箇所ほどあった。

それにお兄さん達が、またまた火を点けた。

私達はそれに群がり、とにかく、体を温めた。

だけれども、大きいお兄さん達は、プールの北東の角で、何か作業を続けていた。

そして何かを、しきりと、籠の中に入れている。

要らない葉っぱは、柿田川の中に投げ込んでいた。

お兄さん達は、体も温めないで、作業をし続けていた。

そのうちに、

『おっし! お前ら、こっちに来い!』

一人のお兄さんに呼ばれた。

行ってみると、木の枝が積まれていた。

さっきの、あの大きな籠は?と思ったら、既に、小さなプールの、南側の広場に、運ばれた後だった。

『今日はな、お前ら頑張ったからな、褒美をやるぞ。もって帰れ。』

そうして私達は、木の枝を、一本ずつ貰って、家路についたのであった。

と言っても、私の家は、本当に、直ぐ近くであった。

とぼとぼ歩きながら、枝を見てみると、5つ位の、黄緑色の実が付いている。

だけれども、何の実か解らないし、どうやって食べるのかも解らなかった。

その大作業に参加した何人かは、途中で、その枝を捨ててしまった。

それで、走って帰ってしまった。

私が川端を、通り過ぎようとしたら、『れーこちゃん』のお母さんが、川端にいた。

『あら、採って来たの?』

と言う。

私は、みんなも捨てちゃったし、どうしようかなぁと思っていたら、

『そのままでは、食べられないのよ。それじゃぁ、まあちゃん家じゃ、少ないわね。おばちゃんが、貰ってもいい?』

と、聞いてきた。

私は、さっき、他の仲間が、貰った物を捨てた事を伝えると、

『あら、勿体無い!』

と言って、おばさんは、捨てた物を探しに行き、見事に、見つけて来た。

『これはね。今直ぐには、食べる事ができないんだよ。食べられる様になったら、おばちゃんが、家に呼んであげるから。』

と言った。

それから、どの位の日が流れたであろうか?

『れーこちゃん』が、家に私を、呼びに来た。

私はすっかり、そんな事は忘れていて、その時は、どうでも良いと思っていた。

『れーこちゃん』の家の中に招き入れてもらい、居間のテーブルの横に座ったが、テーブルの上には、何も無かった。

何も無いじゃん、と思っていたら、『れーこちゃん』のお母さんが、いきなりガラス窓を開けた。

そこには、橙色の網目の袋が提げられていた。

何だ、みかんを入れる網じゃないかと思っていたら、お母さんがそれを外して、テーブルの上に持って来た。

そして、梅干の種が大きくなった様な物を、ガラガラと、テーブルの上に、転がし始めた。

その、しわしわの姿を観て、私は一瞬、気持ち悪いと、ひるんでしまった。

すると、

『これ、知らない?』

と、『れーこちゃん』のお母さんが言う。

そして、何か、鋏のでかいような物を持って来て、梅干の種の大きなものを、がちんと、割った。

すると中から、何か、実の様な物が出て来た。

『これはね。クルミって、言うんだよ。』

そしておばさんは、胡桃を、どんどん割って、私に食べさせてくれた。

それに、胡桃を入れたクッキーも、食べさせてくれた。

『おばさんはね、クルミが、大好きなんだよ。』

私が生まれて初めて、胡桃を、口にした瞬間であった。

この胡桃採りは、伝統的なものであったらしい。

野生の胡桃が、柿田川の、それも辺に、一本だけ生えていた。

それに、流れも、かなり急な場場所である。

川の流れに、土も根も、浚われやしないかと思うが、そうではないらしい。

とても古い木で、昔から、多くの若者が、手入れをして、守って来たのだそうである。

そしてそれが、延々と、受け継がれて、来た様である。

しかしながら残念な事に、今はその様な事は行われていない!

何せ、柿田川の周辺には、誰も入る事ができないのであるから。

数年前に、泉水源地の屋上から、その胡桃の木の方向を、観てみた。

ジャングルである!

私達が、柿田川で遊んでいた頃には、不必要な蔓は、切ってしまった。

下草も刈った。

枝打ちもしていた。

とにかく、柿田川の中だけでなく、辺に生えている木々も、若者達の手によって、手入れをされていたのである。

例えそれが、遊びのためであっても、遊びの延長であっても、である。

だけれども、今の柿田川は、柿田川ではない!

ただの、ジャングルである。

美しさも何も、感じる事ができない!

自然と人間の共生。

私達の時代には、それがあった。

柿田川の恩恵を受けるからには、柿田川にも、お返しをしなければならない。

それが、下草刈りであり、枝打ちであった様な気がする。

今の柿田川は、悲惨なものである。

例の胡桃の木も、つるが捲き付き、昔の、堂々たる大木の、面影などは、全く無い!

他の大木達も、幹に、随分と、苔むしていた様である。

幹が緑色の大木などは、見た事も無かった。

残念である。

本当に、残念である。

ジャングルになってしまった柿田川。

苔に覆われてしまった大木達。

そして、つるに締め付けられてしまっている、胡桃の木。

それらが朽ち果てて、倒木となってしまったら、どうなるのであろう?

次の大木は、古木は、何時の時代になったら、誕生するのであろうか?

柿田川の両岸の、緑地帯は、非常に狭い。

また、斜面も、急峻である。

古木や、大木が倒れてしまったら・・・。

どうなってしまうのであろうか?

果たして私達は、次の世代に、何かを、残せてあげられるのであろうか?

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