カテゴリー「子供の遊び」の16件の記事

2010年5月18日 (火)

『出張お茶会!』(^o^)/ (今現在)

私達が住んでいます、駿東郡清水町の北隣には、同じく駿東郡の長泉町と言う町があります。

同じ駿東郡同士ですので、10年程前までは、一緒に『駿東地区』と言う地区を構成していました。

私が思いますには、『駿東地区』は、とても仲良しだったと思っています。

その好もありましてか、『ボーイスカウト長泉第2団』から、『出張お茶会』の依頼を受けました。

その『長泉第2団』ですが、長泉町下土狩にあります、『割狐塚稲荷神社』を、活動の拠点としています。

今回は、その場所で、ビーバー隊と、カブ隊のスカウトに対しまして、『お茶会』を行なう事になりました。

この『お茶会』でありますが、過去に2度、開催をしています。

一回目は、4年前に、行いました。

ただ、残念ながら、その時の写真は残っていません。

二回目は、2年前でした。

Img_3293

どちらも、八重桜が満開の時で、天気にも恵まれ、とても素晴らしい『お茶会』が展開できたと思っています。

この『出張お茶会』の目的ですが、ビーバースカウトの入隊式・進歩記章授与式、また、カブスカウトの入隊式・上進式・進歩記章授与式に合わせて、お祝いのお茶会を開いて欲しいとの事でした。

ただ、私共としましては、ベンチャースカウトのプロジェクト展開の一環として、また、ローバースカウトも含めました奉仕活動の一環として、展開をさせて頂いておりました。

従いまして、写真には、多くの、ベンチャースカウト、ローバースカウトの姿が写っております。

今回の『お茶会』の開催時期ですが、第15回日本ジャンボリーの事前行事と重なりまして、予定がずれてしまい、残念ながら、八重桜が満開の時期とはなりませんでした。

と言う事で、長泉第2団としましては、『純粋に、お茶を楽しみたい。』と言う事でありました。

ところがここで、大きな問題が起きてしまいました。(^^;

それは、私共の話でありました。

と言うのは、『奉仕をする、スカウトがいない!』と言う事でありました。

『出張お茶会』の依頼は、『きゃさりん副長。』が受けてくれました。

そこで、自隊のベンチャースカウトのプロジェクトの為にも、是非とも、『出張お茶会』を行いたいと考えていた様でありました。

また、『技能章』の、『茶道章』の取得にも繋げたいと、目論んでもいた様です。

ところが、現実問題としまして、ベンチャースカウト達からは、

『部活で、出られない。』

そして、ローバースカウト達からは、

『ジャンボリーの、参加事前訓練で、そちらの奉仕に行く。』

と言う、何とも、希望が持てない返事が返って来てしまった様でした。

隊長の私としましては、

・過去に2度、開催をしている。

・長泉第2団では、既に、保護者に案内を出してしまっている。

・受けてしまったものを、今更、断る訳にもいかない。

それにも増して、『お茶会』を楽しみにしているスカウト達の事を考えますと、これは、行わない訳にはいかないと、そう考えざるを得ませんでした。(^^;

と言う事で、早速、『きゃさりん副長。』と、話しを詰めてみました。

話しを聞いていきますと、今回は、ビーバースカウトが、10名以上も、入隊をしたらしいことが判りました。

ビーバー隊に入隊をしたばかりのスカウトは、小学校1年生の児童です。

そして、勿論、保護者の皆様や、幼い兄妹も、付いて来るはずです。

そうなりますと、軽く見積もっても、20人は、軽く超えてしまいます。

また、隊指導者の皆様もいらっしゃいますし、カブ隊もいる訳です。

そうなりますと、なかなか統制を取るのが難しくなり、てんやわんやの様相が、想像されてしまいます。

どうしてこうも、奉仕者の人数が少ない時に限って、参加対象者が多いのかなぁと、いつも思ってしまいます。

過去の経験上、その様な組合せが、とても多く観られたからです。(^^;

本当に、参ってしまいました。

こちらの戦力と言えば、『きゃさりん副長。』と、『きゃさりん副長。』のお茶のお仲間の方。

そして、『IPPEI副長』と、たったの3人でありました。

勿論私は、何の役にも立ちません。

たったの3人で、本当にできるのか?

『きゃさりん副長。』曰く、『大丈夫! 何とかなるさ!』

本当に、能天気と言いましょうか、お気楽と言いましょうか、何も気にしないと言うのか、天性の楽天的考えと言うのか、『きゃさりん副長」。』には、脱帽をしてしまいます!(^^;

本当に、深く考えないと言うのか、逆境に強いと言うのか、とても感心をしてしまう部分があります。

ですが、そう、能天気な事も言ってはいられなかったので、実際、何人の人間が必要なのか?

どの様な、役回りができれば良いのかを、聞いてみました。

ビーバーやカブの、スカウト達の指導やおもてなしは、『きゃさりん副長。』と、『助っ人』の方で、何とか間に合うとの事でした。

その『助っ人』の方には、2年前にも、お手伝いを頂いておりまして、勝手が判っているので大丈夫と言う事でした。

問題は、『水屋』と、『資材の運搬』でありました。

『水屋』は、多ければ多いほど、好いと言う事でしたが、少なくとも、4人程度は必要の様でした。

『資材の運搬』ですが、2年前には、車を3台出した覚えがありました。

ところが今回は、車を出せたとしましても、私の乗用車1台だけです。

とてもではありませんが、資材の全部などを、運ぶ事はできません。

『お茶』の『お道具』は、とても量が多いのです。

本当に、厳しい話でありました。

そこで、『きゃさりん副長。』に、『団委員長に、連絡をしなさい!』と、申し付けました。

通常なら、『隊長が、やってよぉ。』と言うところですが、流石に今回は、自らが行なうと言う事で、連絡を取っていた様でありました。

私の方ですが、スカウトに、再度確認を取ったり、他の隊の指導者の皆様に、お願いをしてみたりしたのですが、やはり、応援は得られませんでした。

そこで、いつもは、お祭りにしか出て来ない、いや、忘年会も出て来ますが、その様な団委員の皆様に、駄目元でいいやと思いながら連絡をしてみましたら、お二方から、『良いよ!』と言う返事が頂けました。

どうやら、『お茶会』と言う言葉に惹かれて、返事を頂けた様でありました。

とにかく、『資材の多さ』も、『水屋の大変さ』も、何度も観ている事です。

『きゃさりん副長。』に聞きましたところ、『資材の運搬』は、団委員長のワゴンで行ってくれるとのことでありました。

いやいや、実際、冷や冷やものでありました。

私は、かなりの晴れ男でありまして、天候のことなどは、全く気にはしていませんでした。

とにかく、『人』の確保ができて、『資材の運搬』ができれば、後は、『お茶』の経験者でなくても、それはそれで、何とかなると思っていました。

とにかく、見切り発進の様でしたが、『出張お茶会』は、動き始めました。

但し!

そこに、ベンチャースカウトの姿が見られないと言うのは、本当に残念な話でありましたが・・・。(^^;

まぁ、何年も行っていれば、その様な時も、きっとあるのでしょうね。(^-^)/

(つづく・・・。)

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2010年3月 9日 (火)

『ご訪問。』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅦ)

小学校3年生も、終わりに近付いて来た頃、川口先生に、

『家に遊びに来ない?』

と、突然、誘われてしまった。

私は、一体全体、どの様に対応をしたら良いのか、本当に、解らなかった。

先生は、何人かの児童に、声を掛けた様であった。

日頃、えこひいき、などをする様なお人では無かったが、それでも、声を掛けられた児童は、極、少人数であった様である。

私は、詳しくは、掌握はできなかったが、元々は、何人かの女子が、先生の所に遊びに行きたい、と言い出したのが、始まりの様であった。

それならばと言う事で、先生が、日頃気になっていた児童に、声を掛けた様であった。

私は母親に相談をしてみたが、母親の方も、戸惑っていた様であった。

一体全体、どの様な服装をして行ったら良いのか?

何か、お土産を、持って行かなければならないのか?

母親も私も、あれやこれやと思案をしてみたが、結局、何も良い考えは、浮かんでは来なかった。

母親は、様々なお宅と、連絡を取ってくれていた様であった。

結局私は、母親に、何かを持たされたのであったのであるが、今となっては、その記憶が無い。

ひょっとすると、野菜でも、持たされたのであろうか?

先生のお宅に伺った日、みんなで、何処かに集まって、一緒になって、行ったと言う、その記憶も無い。

私は先生から、

『もう、沼津は、判るわね?』

と言われて、ご自宅の場所を書いた、簡単な手書きの地図を渡されていた。

母親からは、バス代を貰い、一人で沼津に向かったと思った。

初めて、一人で向かった、沼津駅。

とにかく、沼津駅までは、行かなければならなかった。

そこから、今度は、西に向かう。

と言っても、大きな通りを、西に向かうのではなくて、細い路地を西に向かうのであった。

そこは、全くの初めての路であった。

沼津駅のロータリー。

そこを横目で見ながら、細い路を探した。

多分、この辺りだろうと思っていたが、なかなか見付からないでいた。

若干の、人の流れがあった。

それにつられる様にして、歩いて行った。

先生の、手書きの地図上では、途中で、北側の線路側に、鋭角に曲がって行く事になっていた。

しかしながら、その鋭角の路地が、また、判らない。

私は、何回か、その路地を見過ごしていた。

何往復ぐらい、したであろうか?

ふと見ると、『テーラー川口』と言う文字が、眼に飛び込んで来た。

(かわぐち・・・。)

私は、ひょっとしてと思い、そちらに歩を進めた。

(テーラー?)

私にとっては、全く意味が解らなかったが、地図からすると、確かにその方向になる。

線路の直ぐ脇である。

クリーム色の、3階建ての建物であった。

大きなガラス張りの、部屋が、1階部分の、半分位を占めていた。

中を覗いてみると、男の人が、アイロンを掛けていた。

どうやら、違うようだなぁ、と思っていたら、その男の人が、手招きをした。

そして、大きなガラス窓を開けて、

『清水小学校の子?』

と聞いてきた。

私は、思わず頷いた。

するとその男の人は、

『こっち、こっち。こっちへ回って!』

と、建物の東側の方へ、行く様に、手を振った。

私は促されて、その方向に向かった。

すると、引き戸が開けられ、中から、川口先生が、顔を出した。

『いらっしゃい! よく来たわね。さぁ、どうぞ!』

と言って、家の中に、招き入れてくれた。

そこは、アイロンの独特の臭いと共に、洋服の臭いも充満していた。

川口先生のお宅は、紳士服のオーダーメイドのお店であったのである。

眼の前には、小さな靴が、沢山並んでいた。

もう既に、多くのクラスメイトが、来ているらしかった。

玄関、と言う訳ではなく、仕事場とお店と、居間とが、一緒になっている様な感じであった。

ガラスの障子戸が開けられると、そこには、炬燵に入った、多くの女子達がいた。

男子は?

と、見回してみたが、見当たらない。

あれっ?っと思っていたが、まぁ、仕方が無い。

とりあえず、炬燵の隅に、入れて貰った。

川口先生は、直ぐに、紅茶とケーキを運んで来てくれた。

みんなは、既に、頂いた、後らしかった。

後から遅れて来て、直ぐにケーキを頂くと言うのも、何となくと言うか、随分と、恥ずかしいものであった。

それに注目もされている。

なかなか、厄介であった。

そんなにも、こちらを見なくったって、良いだろうにと、思っていた。

『いいのよ。ゆっくり食べてね。寒かったでしょ? それにここは、判り辛かったでしょ?』

と、先生は聞いてきた。

私は、ショートケーキを、どの様にして食べようかと、必死になっていたが、そこに質問を受けて、かなり焦っていた。

結局、先生の質問には、答えることは、できなかった。

女子達は、盛んに何かを話していたが、良くは覚えてはいない。

ただ、先生のアルバムや、初心などを見せて貰って、それで盛り上がっていた様であった。

男子が一人と言うのは、どうにもやり辛い。

何をして良いのか?

何を話したら良いのか?

まるで、見当が付かないのである。

仕方無く、キャピキャピ言っている、女子達を、見守るしか無かったのであった。

そんな時に先生が、

『ねぇ、トランプでもやろうか?』

と、言ってくれた。

ババ抜き・7並べ・神経衰弱などをやっていたが、先生が、

『セブンブリッジをやらない?』

と言い出した。

私は、叔父から教わっていたが、多くの子は、知らない様であった。

先生がルールを説明し、とりあえず、やってみる事になった。

人数が多かったので、見学に回る子もいた。

段々と、みんなが慣れて来ると、かなりの盛り上がりを見せた。

『トランプの中でも、セヴンブリッジが、すきなのよねぇ。』

そう、先生は言っていた。

それに、

『一人じゃできないし、こうして、みんなと一緒に、トランプをやるのが、夢だったのよねぇ。』

とも、言っていた。

楽しい時間は、当然の如く、あっと言う間に過ぎてしまう。

段々と、夕暮れが近付いて来た時、

『寿子、そろそろ、子供達を返してやらんと、暗くなっちまうぞ。』

と、先生のお父さん、あの、紳士服に、アイロンを掛けていた男の人が、障子の間から、顔を出した。

一瞬ではあるが、先生も含めて、誰もが、止めたくないと思った、と感じた。

それは本当に、何れやって来る事とは解っていながらも、来ては欲しくない、言っては貰いたくない事であった。

ちょっとした、沈黙があった。

先生は、流石だった。

『あと1回で、終わりにしましょう。』

と、区切りを付けた。

楽しい、本当に、楽しかった『ご訪問』は、いとも簡単に、終焉を迎えてしまった。

あっという間の、出来事の様であった。

何をしたと言う訳でもない。

とにかく、先生のお宅で、遊んだだけである。

だけれども、とにかく、楽しかった。

いとこ達と遊んでいるよりも、叔父に、遊んで貰っている時よりも、全く違った感覚で、本当に、楽しかったのである。

私達は、後ろ髪が、惹かれっ放しの状態であったが、それでも、お礼を言って、家路につくこととなった。

先生も、その先生のお父様も、

『また、遊びに来てね!』

『また、いらっしゃい!』

と、私達には、声を掛けて下さったが、残念ながらそれ以降、先生のお宅には、遊びに行く事は無かった。

最初で、最後の事であった。

その後、先生のお宅は、引越しを、余儀なくされてしまう。

それは、駅前の、区画整理の為であった。

小学校3年生の時は、本当に、様々な出来事が、多過ぎた!

もっともっと、色々な事が、あったのかも知れないが、とにかく、面倒な事もあったけれども、かなり、印象の強いことが、多かったと思う。

それに、一番の大きなことは、『優しさ』。

川口先生の、『優しさ』に、触れたことであったろう。

その事が無かったら、どうなっていたのだろうと、ふと、思ってしまう。

川口先生は、私の1回目の結婚披露宴には、大喜びで、ご出席して下さった。

本当に、有り難かった。

年賀状も、欠かした事は無い。

本当に、児童思いの、優しい先生であったと思う。

今年の年賀状であったろうか?

『大平幼稚園を最後に、定年退職、致しました。』

とあった。

最後は、幼稚園の園長先生を最後に、その、教諭人生に、幕を引かれた様である。

誠に、お疲れ様でした。

そして、ありがとうございました!

今となっては、川口先生に出会っていなかったらと思うと、ぞっと、してしまう!

ただただ、『感謝!』の言葉に、尽きる。

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2010年3月 8日 (月)

『スポーツ万能?』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅥ)

旧家の庭の、西側に引っ越して来た、三女の叔母の旦那様は、結構な、『スポーツマン』であった様である。

野球は、本当に良く知っているし、野球以外でも、ゴルフなど、様々なスポーツを、堪能している様であった。

また、職場でも、自らが企画・計画をして、みんなを、引っ張って、連れて歩いていた様であった。

叔母は?

と言うと、何となくではあるが、運動と言うものには、縁が無かった様な、そんな気がした。

その叔父であるが、ウィンタースポーツもご他聞に洩れず、スキーやスケートを、軽く、こなしていた様であった。

考えてみたら、大体、私の父は、運動が、まるっきり、駄目である。

苦手、と言うか、その域ではない!

運動音痴、と言った方が、適切である。

かろうじて、『剣道』をやっていたと豪語していたが、持っていた木刀は、素振りの為ではなく、私達兄妹の、脅しに使っていたのであるから、全く、信用はできない!

次男坊は、ソフトボールとか言っていたけど、あの動きは、どうにも怪しい。

三男は、これまたソフトボールと言っていたが、こちらは、企業チームに入っていたので、まぁ、信用ができる。

四男は、野球。

一応、高校球児でもあったし、試合も観ているので、大丈夫である。

長女・次女・三女の、叔母達だよなぁ~。

こちらは、誰にも聞いてはいないし、看た事も無いし、どうにも信用ができないよなぁ。

母方の方は、と言っても、今回は、叔母の関係であるから、特には、関係が無いであろう。

それにしても、父方の方で、『スポーツマン』と言ったら、誰が、該当するであろうか?

家の中には、『運動をする』とか、『スポーツをする』と言った、そう言う風潮は、まるで無かった様に思った。

従って私も、『走る』事に関しては、そこそこであった様に思ったが、『体育』全般に関しては、全く、自信が無かった。

跳び箱とか、鉄棒とか、かろうじて、人並みにはできた様に思ったが、特にこれと言って、得意なものは、無かった様に思った。

『運動』ができる子は、とにかく、目立つ。

そして、人気者になる。

それは、私からしたら、とても羨ましい事だらけであった。

私は、休日になると、未だ子供が居なかった、叔母と叔父の所に、よく遊びに行く様になっていた。

その叔父は、遊び人、と言う訳では無かったが、とにかく、『遊ぶ事』は、とてもよく様々な事を、知っていた。

とにかく、何を聞いても、応えてくれたのである。

私にとっては、全てが新鮮であり、全てが、憧れ、であった。

『トランプ』から始まって、『花札』や、『将棋』。

メンコだって、ビー玉だって、付き合ってくれた。

それに、話が上手いし、その話が、とても面白かった。

『野球』は、NHKで、パ・リーグの試合をやっていても、それを、面白く、解説をしてくれた。

多分、オープン戦か、何かだと思った。

その頃の『野球』は、大体が、『巨人軍』主体で、まず、『巨人』以外は、テレビで観ることは無かった。

全てが、『ジャイアンツ』、いや、『王』・『長嶋』、中心で、回っていた様に思った。

第一、『巨人・大鵬・卵焼き』、と言う言葉さえ、生まれた位である。

『巨人』以外の球団を、知らなくたって、それが、当然であったと思う。

逆に、パ・リーグのチームを知っているなんて子供がいたならば、相当、マニアックだったと思う。

でもまぁ、大体が、父親などの、影響を受けていたとは思う。

その叔父は、知識も豊富であった。

『阪急の山田の投げ方は、アンダースローって、言うんだよ。』

とか、

『南海の野村は、苦労をして、三冠王を獲ったんだ。』

とか、その三冠王について、解り易く、説明もしてくれた。

この選手は、何処の出身だとか、何処の高校だとか、甲子園はとか、多少、私が、付いて行けない部分も多かったが、それでも、かなりの事を、教えてくれた。

家には居なかったタイプの、全く新しいタイプの人間である。

私は、結構、叔父に、のめり込んで行った様にも思った。

『野球』については、話が、途切れなかった。

話は、打撃法とか、特に、『王貞治』と『長嶋茂雄』の話は長くって、あれには、参った。

投球法は、『村山実』のザトペック投法とか、スタルヒンの話や、それも、終いには、訳が解らなくなって、少々、嫌気が差していた。

最後には、ルールの話であった。

結局、話し相手が居なかったのか、叔母と、遊びに行く事も無かったので、誰か相手をして欲しかったのか、それは判らないが、とにかく、延々と話が続いて、流石の私も、参ってしまった。

叔父の話が、段々とつまらなくなり、そこに通うのが、億劫に成り出した頃に、『スケート』の話が、いきなり、飛び込んで来た。

『すけーと?』。

その頃の私にとっては、ウィンタースポーツなどは、全くの、『無縁』であった。

第一、『スケート』自体を知らない。

ただこの頃、『冬のオリンピック』が開催をされ、多少は、盛り上がっていたらしい。

そこで、『スケート』は、一つのブームに、なっていたらしかった。

その当時は、今とは、気候が全く異なり、冬になると、とてつもなく、寒かった。

氷は、毎日の様に張り、霜柱は、かなり固い土でも、持ち上げた。

私達は、通学の時に、水溜りに張った氷を、こぞって足で踏み割り、霜柱を、踏み潰した。

それに、通学途中に、大きな工場の社宅があったが、そこの防火水槽に、氷が張る。

結構な、厚さであったと思った。

それをまた、割って歩いて行くのである。

それがまた、通学時の、楽しみでもあった。

柿田川からは、湯気が沸き立ち、その水温と気温との差を、その湯気の量で、私達に、知らせてもくれていた。

また、周辺の湖、と言っても、近くでは無いのであるが、箱根の芦ノ湖や、そして、富士五湖などには、氷が張った。

何cm、氷が張った。

スケートができる。

ワカサギ釣りができる。

などのニュースが、テレビからも流れていた。

今から、40年ぐらい、前の話である。

叔父は、

『山中湖に行こう!』

と、話を持ち掛けて来た。

(やまなかこ?)

私は、まだまだ、周辺の事が良く解っておらず、大体、富士山自体が、どの位の高さがあるのかさえ、知らずにいた。

その富士山の向うに、何があるのかさえ、知らずにいた。

その、富士山の、向こう側に、行こうと言うのである。

話は、母親の元に、届いた。

私は、ワクワクして、母親の、許可が下りるのを待っていた。

しかしながら、母親からは、許可が、下りる事は、無かった。

とにかく、『遠い』、と言うのである。

それに、母親が、付いて行ければ良いのであるが、そうもいかないと言う。

出掛ける時刻も早く、帰って来る時刻も遅い。

それに対応が、できないと言うのである。

そんな理由であったが、一番の心配は、『湖』、と言う事にあったらしい。

その当時の山中湖は、軽く、20cm以上は、結氷していたらしい。

それでも、氷の厚さ自体は、湖全体では、一様ではなく、厚さは、まちまちであったらしい。

母親は、『割れたら?』と言う事と、男児が、私一人だけである。

祖母から、何と言われるか?

どうやら、それが、一番の、嫌がる理由であった様である。

私が、諦めかけていた時であったが、叔父が、今度は、別のカードを抜いて来た。

今度は、『強羅』だと言う。

(ごおら?)

私は、その場所も、全く知らなかった。

『箱根の、強羅だよ。』

と、叔父は、言っていた。

私は、またまた、ちんぷんかんぷんであった。

まぁ、良いや、と思って、地図を見る気にもならずにいた。

どうせ、母親は、許してはくれないであろう。

そう、思っていたからである。

しかしながら意外なことに、今度は、母親の許可が下りた。

どうやらやっぱり、地上の上であれば、良かったのであろう。

私は、喜んで、叔父に、連れて行って貰った。

しかしながら、行きのバスも、帰りのバスも、眠りこけていて、何処をどの様に行って来たのかは、全く覚えてはいない。

かなり、楽しみにしていたのである。

車窓から、景色が、どんどんと変わって行くのが、本当に、一つの楽しみであったのである。

だけれども、残念な事に、眠りこけてしまった。

何も、覚えてはいない。

富士山の横を通って、富士山が、とても綺麗に見えると聞いていたのに。

実際のスケートは、と言うと、叔父は何と!

マイ、スケート靴を持っていた。

それで、腰を屈めて、優雅に滑って行くのである。

その上、私を肩車して、それでも、滑る事ができたのであった。

私は、初めての体験に、ただただ、驚くばかりであった。

氷の上を滑る。

自由にならない体を、何とか、維持をしようと思ってみたが、どうにもならないでいた。

その内に、体中、びしょびしょに、なってしまった。

叔父は、私の着替えを、持って来てくれていた。

それで私を着替えさせ、休ませてくれた。

結局、私の、初めての『すけーと』は、それで、終ってしまった。

借りたスケート靴が、びしょびしょになり、とても履ける状態では無かったのである。

靴紐も緩まず、そのせいで、足が入らない。

私は、再び濡れるのが嫌だったので、いとも簡単に、諦めてしまった。

その後の私は、スケートは好まなかった。

足は痛くなるし、顔面から氷面に、突っ込んだ事もある。

スケートは、やらなくなってしまった。

その分、スキーに、夢中になってしまった。

その後の叔父であるが、その当時、導入をされたばかりの、コンピュータ関係の業務を、行っていた様であった。

仕事の帰りも遅く、私へのお誘いも、段々と、少なくなってしまった。

その結果、胃潰瘍を患ってしまった。

無理をして、仕事を続けていたせいであろう。

最後には、入院。

そして、手術となってしまった。

叔父が退院をしてきた時、別人、かと思ってしまった。

頬はこけ、あんなに、筋骨隆々だった叔父が、別人の様になってしまった。

体が衰えると、気力も、衰えるのであろうか?

その後の叔父は、遊びに出かける事は、少なくなってしまった。

私は、まだまだ、色々な事を、教えて欲しかった。

様々な体験を、してみたかった。

だけれどもその願いは、叶う事は無かった。

ただ、世の中には、本当に、様々な物や事があると言う事は、その叔父によって、知らされたのかも知れない。

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2010年3月 7日 (日)

『借家?』(^^; (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅤ)

私達の、格好の遊び場所と化していた、旧家の、広くなっていた庭も、何時までも、そのままで、と言う訳にはいかなかった。

ある日のこと、多量の木材が、運ばれて来た。

それらが、どんどんと、組立てられていった。

それが、家の形になってしまうのには、本当に、時間が、掛からなかった。

本当に、あっと言う間の、出来事であった様に思った。

今まで、納屋が有った場所に、それぞれ1軒ずつ。

また、お餅でも撒くのかなと思っていたが、全く、違っていた。

お餅などは、撒かず、何もしなかった。

それでも、とにかく、ちゃんと人が住む、家だと言う。

こんなにも簡単に、家が建てられるものなのかと、それに、こんなにも小さくて、良いものかと思っていたが、その2軒の家の住人は、もう既に決まっていた。

建てられた2軒のうち、西側に建てられた家には、三女の叔母夫婦が、入る事になっていた。

もう一軒は、下の段のお爺さんの、戦跡筋が、入る事に、なっていた。

何と!

何と早い、話であった事だろうか?

本当に、話が、とんとん拍子で、進んでいた。

尤も、私如きに、話をしても、何も始まらないのであるのだが。

実は私は、少々、嫌であった。

何れ、私達は、ここから、新築の家に引っ越す。

とは言え、またあの叔母に、会うのである。

卵を独り占めされ、ラーメンもろくに分け与えてくれなかった、あの叔母が、再び、戻って来ると言うのである。

幾らなんでも、それは無いだろうと、本当に、心が痛かった。

また、あの叔母が帰って来る。

それだけでもう、日々、憂鬱であった。

一体全体、何時になったら、新しい家に、行けるのであろうか?

それと、何時になったらあの叔母と、縁が切れるのであろうか?

そんな場かな事ばかり、考えていた。

そうこうしているうちに、東側の家に、先に、とある一家が引っ越して来てしまった。

それは本当に、あっと言う間であった。

親子4人。

女の子と、男の子であった。

女の子は、私より、一つ下であった。

男の子は、上の妹より一つ下。

私達兄妹の間に、すっぽり入ってしまう、年齢であった。

私は、何となく、ウキウキしていた。

まるで、兄妹が増えたかの様で、これでまた、しっかりと遊べると、そう、思っていた。

それに、男の子である。

その子を連れて、柿田川に行ったり、木登りをしたり、色々な遊びができそうに思えた。

とても楽しみに思っていた。

女の子も、可愛らしくって、仲良くなれそうに、そう思っていた。

だけれども、現実は違っていた。

何かが違っていた。

どうしてなのか、ちっとも、歯車が、合わなかった。

その二人の子供達は、どうしてか、何故か、遠慮がちと言うのだろうか?

私達兄妹を避けていた。

それに、お父さんにしてもお母さんにしても、何となくではあるが、私達兄妹にでさえ、やたらと、丁寧な言葉を使っていた。

私は、本当に、不思議に思っていた。

折角、お隣同士で、仲良く遊べるのにと思っていたのであったのであるが、どうにも、残念でならなかった。

そんな事を思っている内に、今度は、三女の叔母夫婦が、やって来てしまった。

私は、この世の終わりだと、そんな風にさえ、思ってしまっていた。

ところが今度は、こちらの状況も、全く、違ったのであった。

叔母が、随分と、大人しいのである。

あんなに口煩くって、本当に、煩わしいと思っていた叔母が、若干ではあるが、静かになっていたのである。

それに、こちらの母屋にも、あまり、出入りをしない。

どうしてなんだろうと、本当に、不思議に思っていた。

それに、叔母の旦那様は、とても温厚な方で、言葉遣いも丁寧で、とっても優しかった。

私は、全ての予想が外れ、何だか、不思議な気分で一杯であった。

叔母の旦那様は、休みの日になると、よく、私を誘ってくれた。

『こっちに遊びにおいで。』

と。

それで、野球を一緒に観たり、トランプや、花札などを教えてくれた。

そうして、一緒に、遊んでいてくれた。

妹達も、呼んでくれた。

それでみんなで、遊んだりもした。

不思議な事に叔母は、妹達に、一度もした事が無かった塗り絵の方法や、折り紙なども教えていた。

人がこんなにも変わるものかと、随分と、不思議に思っていた。

一方、東側の家の兄妹は、外に出て、遊ぶ事が、少なかった様に思った。

だけれども、家の玄関の前には、その男の子のおもちゃが、沢山、散乱していた。

当時としては、大変高価だったと思ったが、GIジョーの人形や、ジープや、その類のおもちゃが、片付けられもせずに、玄関前に、転がっていたのである。

女の子は、特に、体が弱いと言う訳でもなく、きちんと、小学校にも行くし、ただ、口数は、少なかった様に思った。

母親に、その兄妹の事を、少し、聞いてみた。

すると母親は、

『転校が、多いみたいだからねぇ。』

とだけ、言っていた。

私は、

(そうか。転校生か。)

と、一人合点をしていたが、やっぱり、どうしても、納得が行かないでいた。

小学校でも、確かに、転校生は、とても多かったと思った。

だけれども、大体が、仲良くなっていっていた。

私はまたまた、

(そうか! 学年が違うからなんだ!)

と、勝手に思っていた。

とにかく、私の予想は、全く、逆であった。

東側の子供達とは、仲良くできて、西側の叔母夫婦とは、上手く行きそうにも無い!

それが全くの、真逆であったのである。

まぁ、仕方が無い。

そんな想像しか、できないのであるから、仕方の無い、話なのである。

ある日、祖母も外出してしまって、誰もいない時に、東側の家のお母さんが、茶色い封筒を持ってやって来た。

誰も居ない事を告げると、出直して来ると言った。

でも、直ぐそこなのに、何だろうと思っていた。

祖母が帰って来たので、その事を告げると、

『帰って来たと、言いに行っておいで!』

と言う。

私は、そのお母さんを、迎えに行って来た。

そると祖母は、私を、家の奥に追い遣った。

それでも声は、聞こえて来るものである。

『○○分の家賃を・・・。』

(やちん? やちんって何だぁ?)

その夜、またまた、母親に聞いてみた。

『そりゃぁ、借家だからねぇ。家賃は、貰わないとね。』

(しゃくや?)

とにかく、不思議な言葉に、包まれてしまっていた。

『叔母さんの所からも、貰っているんだよ。』

私は、この時になって、初めて、

(家を貸している。それが借家であって、それで、お金を払うんだ。)

と、やっとではあるが、何となく、理解をしたのであった。

それにしても、牛舎であったり、納屋の跡に建てたりした家に、住まわなければならないなんてと思っていたが、

『どっちも、新しい家を建てるまでだからね。うちと同じだよ。』

と、母親は、言っていた。

『うちと同じ。』

ただ、この言葉の奥底には、もっと複雑な、深い意味があった。

実は、その母屋が建っている場所も、長屋が建っている場所も、そのまた、借家が建っている場所も、全て、『借地』であったのである。

要は、自分達が持っている土地で、田畑に使える所は、全て田畑に使い、他の人の持っている土地で、とても田畑に使えなさそうな所を借りる。

そうしてそこに、家を建てて、住まう。

何とも、物凄い、目論見であった。

要は、『借地』をして、家を長屋を納屋を牛舎を、建てていたのであった。

母親が言いたかったのは、

『借家を持って、それを貸して、いくら家賃を貰っていても、自分の家が、借地であれば、当然、賃借料を支払う訳で、どちらも、同じ事。どちらも、同じ立場!』

その様な事を、言いたかったのであろう。

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2010年3月 6日 (土)

『勝負師!』(^-^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅣ)

新しい家が建てられ、旧家の納屋が取り壊された跡は、とてつもない、『広場』に、変身をしてしまった。

子供達にとっては、ちょっとした、遊び場に、なってしまっていた。

その頃は、公園や、広場などと言う、きちんとしたものは無く、車も、非常に少なかった為に、『道路』で遊んでいたり、ちょっとした『空き地』などで遊んでいた。

それか、『幼稚園』まで行って、そこで遊んでいた。

昔は、遊び場が、きちんと整備をされていなかったので、『幼稚園』や『小学校』は、そのグラウンドが、開放、とまではいかなかったが、ある程度は、遊ぶ事が、許されてはいた。

但し、怪我などについては、勿論、全部、自分持ちであった。

旧家の中を、次第に整理をしていったら、叔父に急に、呼び出された。

『いいか! これを、今からお前にやるけど、これは、俺達が、頑張って勝ち取った物だから、絶対に取られるなよ! 逆に頑張って、増やせ!』

と言われた。

一つは、柿の種の、空き缶に入っていた。

もうあとの二つは、焼き海苔の、平たい、金属の空き箱に入っていた。

『柿の種』の中身は、『メンコ』、であった。

それも、とてつもなく古くって、何だか良くは判らなかったが、灰色の、あまり程度の良くない厚紙の上に、絵を描いた薄い紙を、貼ってある様な物であった。

その絵は、その当時では、全く、通用しない様な『絵』ばかりであって、恥ずかしくて、使える様な物では無かった。

その頃はもう、ウルトラマンなどの写真が、プリントされている物ばかりであった。

その上、あまり使わなかった、『角メン』も、多量に入っていた。

ただ『角メン』は、殆どが、長嶋や王や、プロ野球選手の、物ばかりであった。

小学校には、『メンコ』は、持って行ってはいけなかったので、小学校で遊ぶとすれば、『牛乳メン』であった。

牛乳のビンの蓋を、平らにして、乾燥をさせるのである。

それで、小学校では、遊んでいた。

『焼き海苔』の平たい缶であるが、それは、片方は、『ビー玉』であった。

もう片方には、『ベーゴマ』が、わんさかと、詰っていた。

とにかく、父親や叔父達が、遊んでいた物の、遺物であった。

メンコや、ビー玉、ベーゴマなどは、その当時の、駄菓子屋さんにも、置いてはあった。

ただ、メンコは、直径が5cmぐらいの、50銭メン。

10cmぐらいの1円メン。

15cm程度の、2円メン。

それらが主体であった。

直径20cmぐらいの5円メンもあったが、それは、『煽り』と言う、戦いに、用いられていた。

メンコの遊びは、『嘘っ気』と言う、勝ても負けても、元の持ち主に返す方法と、『本気』と言う、勝ったら、そのメンコをそのまま貰えると言う、二通りの方法があった。

やり方は、『いき(いかす)』と言う、裏返しにすれば、勝ちと言う方法。

『箱出し』と言う、枠や、台の上から、相手のメンコを、はじき出す方法。

『煽り』と言って、大きいメンコで、小さいメンコを煽って、裏返しにしてしまう方法などがあった。

叔父がくれたメンコは、様々な細工がされていた。

メンコの裏側に、ろうそくのろうを垂らして、重くした物や、メンコを張り合わせて、厚くした物。

もっと酷いのは、鉄板を、挟み込んだものまであった。

それらは、『嘘メン』とか、『偽メン』とか、『いんちき』と言われ、使用が禁じられた。

私達は、大体が、『嘘っ気』であったが、『箱出し』は、結構、『本気』でも戦っていた。

みんなが、メンコが入った、それぞれの、お気に入りの『箱』を持って来る。

そこで、ご自慢のメンコを見せ合う。

それで欲しいメンコがあったりすると、1枚対5枚とかで、交換もした。

だけれども、それではつまらなかったので、相手の持っているメンコの中で、欲しい物を、お互いに指定する。

それを賭けて、10番勝負などをやっていた。

当時は、部落部落で、ルールも、随分と違っていたので、ルールをきちんと確認しないと、よく喧嘩が起こった。

大喧嘩になる事もあった。

だけれども、幸いな事に、私の家の、下の段の家には、器用で、様々な遊びを知っている、お爺さんが住んでいた。

そのお爺さんが、よくやって来てくれて、私達の面倒を、看ていてくれた。

だから、あまり大きな喧嘩は無かった様に思ったが、それでも、小さないざこざは、沢山、あった様に思った。

メンコは、とにかく、主流であった。

だけれども、そのお爺さんのお陰で、ベーゴマも、よくやった。

子供だけでは、とにかく、樽に、土俵を作れないのである。

布を、と言うか、キャンバス地の布を、きちんと、張れないのである。

それを、お爺さんが、作ってくれた。

それからビー玉。

これは、『当て球』だとか、『遠当て』とか、『野球』とか、そんな遊び方を、教えて貰った。

『当て球』は、自分と相手と陣地を作り、そこに、適当にビー玉を散らばせる。

自分の陣地内からビー玉を弾き、相手のビー玉に当たれば、ビー玉を貰えると言うもの。

『遠当て』は、ある程度の距離の所にビー玉を、幾つか出しておいて、それを遠くから、当てると言うもの。

ビー玉が弾けて、幾つかに当たれば、当たったビー玉が、みんな貰えると言うもの。

まぁとにかく、旧家の地面は、メンコにも、ビー玉にも、本当に良く、適していた。

てとても良く、聖地をされていたので、まず、石ころが無かった。

それに、竹箒で掃けば、直ぐに、綺麗な面が出て来る。

本当に、最高であった様に思った。

それ以外に、『釘刺し』の陣地取りもやったし、放棄で掃いて、溜まった砂で、棒倒しなどもやって、遊んでいた様に、思った。

そう言えば、妹達、女の子達も、よく遊びに来ていた。

ゴム跳びや、ゴムのテニスボールで、素手でやる、ハンドテニスなどもやっていた様に思った。

何せ、柿田川の辺にある、柿田川児童公園に続く道の、途中に有る、家である。

みんなが、気が付かない訳が無い。

一時期は、本当に多くの子供達が、遊びに、来ていた様に思った。

それに、下の段のお爺さんの所には、竹とんぼや、竹鉄砲や、弓矢や、凧や、そんな物の作り方を教わりにも、来ていた様であった。

そんな賑わいを見せていた場所であったが、何時の間にか、その場所も、結構知れ渡り、知らない者と言うか、あまり近所では、顔を見かけない者も、出没する様になっていた。

そ奴等は、『メンコ』が、滅法、強かった。

一人の場合もあれば、何人かで来る事もあったのであるが、とにかく、強かった。

ルールも守り、いんちきも、決してしなかった。

だけれども、少々、粗暴で、強引な所は、あった様に思った。

近所の小さい子達は、結構、餌食になっていた様であった。

私も、結構、やられていた。

だけれども、仕方が無かった。

本当に、強いと思った!

奴等は、『勝負師!』と呼ばれていた。

(しょうぶし?)

私は、その意味が、良くは解ってはいなかったが、メンコが強い者の事を、そう呼ぶのだと思っていた。

実際は、学年が、上の様であった。

それで、良い戦いの場があると、そこまで出掛けて行って、戦いを、挑んでいた様であった。

なんともはや、逞しい奴等が、いたものであった。

ただ、何となく、ではあるが、果たして、清水町内の子供で、あったのであろうか?

町内であれば、大体の人間が、柿田川で、顔を合わせている事になる。

だけれども、知らないと言う事であれば、町外か?

それとも、柿田川で、遊んでいなかった、子供達なのか?

ただ、何れにしても、とても逞しい『勝負師』達は、存在を、したのである。

それからもう一つ。

あの、一生懸命になって集めた『メンコ』・『ビー玉』・『ベーゴマ』の類。

一体全体、何処に行ってしまったのであろうか?

私が、この家を離れていた10年余り。

その間に、姿を消してしまった。

できればもう一度、お目に掛かりたいものである。

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2010年3月 5日 (金)

『ゴジラ!』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅢ)

川口先生が、母親に頼んだもの。

それは、とても、多くのものがあった様だ。

とにかく、世間知らずだった私達に、少しでも、多くのものを見せてあげて欲しいと言う事。

ちょっとでも良いから、『街』、と言うものを知ること。

『買い物』を知ること。

『お金』、と言うものを知ること。

『本』などに、触れること。

『音楽』に、触れること。

『自然』や、『観光』、その様な事を、『楽しむ』と言うこと。

などなど、とにかく、とても多かった様に感じた。

とにかく、川口先生が、自宅に家庭訪問に来てからと言うもの、様々な事が、劇的に変わってしまっていたからである。

多分、であるが、『芸能』、と言う事についても、お願いをしてくれていたのではなかったろうか?

『長崎屋』には、かなり、出掛ける様にはなっていた。

だけれども、そこでの『ラーメン』も、飽き始めていた頃であった。

いつもの様に、『沼津駅』行きの、バスに乗っていた。

私達兄妹は、『大手町』で、バスを降りる準備をしていた。

ところが母親は、

『今日は、沼津駅まで行く。』

と言う。

私は、到々、『その時』が、やって来た!

と、思っていた。

噂で聞いていた、デパートの地下。

フロアーは広くて、エスカレーターも広くて大きい。

階数も、比べ物にならない。

そして、でっかいエレベーター。

そこには、車掌さんの様な、女の人が乗っている。

そんな事を、始めて味わえるのだと、心が躍っていた。

ところが、である。

バスを降りて、本来ならば、『東』に、向かうはずなのに、母親は、『西』に向かっていた。

それも、どんどんと、『西』に向かって行く。

路を縫って、やや広い、通りまで出た。

そこで母親は、何かを探していたが、突然、立ち止まった。

その、通りを、渡ると言う訳ではない。

その通りの反対側の建物を見て、その建物の正面で、立ち止まっていた。

通りの反対側の建物には、やたらと大きな看板が、幾つも、取り付けられていた。

絵が描いてあったり、でっかい文字が書いてあったり、それに、やたらと人が、多く居た。

『ここじゃないのかしら?』

母親は、何かを言っていたが、結局は、その場を、離れる事になってしまった。

私達は、母親に連れられて、またまた、元の場所まで、戻る事になってしまった。

まるで、やり直しをするかのようにして、母親は、もう一度、今度はゆっくりと、歩いて行った。

母親は、とにかく、何かを探していた。

それは、私達が期待をしていた、デパートではなかった。

何だか、判らずにいたのであるが、とにかく、全くの、初めての場所である事だけは、確からしかった。

母親は、ある、ビルの前で、立ち止まった。

『ここで良いかしら?』

と言っていたが、私達には、何の事だか、さっぱり判らなかった。

だけれどもそこには、『ゴジラ』の文字があった。

怪獣映画の『絵』があった。

私は、『えいが』を、観るのか?

と思って、内心、驚いていた。

『えいが』。

そんなものを、観ても大丈夫だろうかと、また、祖母に、ぶつぶつ、言われやしないかと、そちらの方ばかりが、気になっていた。

『えいが』。

全くの、初めてであった。

母親は、切符を買った。

それで、階段を、上がっていった。

大きな厚い扉を開けると、そこには、大きな画面と、大きな音で、大きな画像が、映し出されていた。

私は、興奮をした。

とにかく、こんなものは、初めてである。

だけれども、『席』が空いていない。

よくよく見てみると、前の方の席が空いていた。

私達は、そこに座った。

私にとっては、見上げる様な感じであったが、何とかちゃんと、観る事はできた。

母親は、

『首が痛い。』

そう、言っていたのを、覚えている。

とにかく、物凄い、迫力であった。

私は、途中から観たので、母親に、もう一度、ちゃんと観たいと言った。

すると母親は、私達を連れて、急いで、後の席に移動をした。

『映画はね。後ろの方が、観易いのよ。』

どうやら母親は、映画を観た、経験があった様だった。

『ゴジラ』。

どうして、『ゴジラ』だったのか?

母親は何かを間違っていたらしかった。

その当時は、沼津にも、三島にも、映画館は、多くあった。

まず、三島だったのか?

それとも、沼津だったのか?

それと、映画館の場所である。

母親は、誰かに聞いて、出掛けたらしかった。

だけれどもそれが、はっきりとしないまま、出掛けてきてしまったようであった。

『ゴジラ』は、流石に、妹達にとっては、『不評』であった様であった。

母親は、『文部省推薦』の、『何か』を、観させたかった様である。

それも、『怪獣物』でもないし、『特撮物』でも、無い様であった。

あの当時と言えば、何だったのだろう?

『みなしごハッチ』とか、そう言う類のものだったのだろうか?

とにかく、『漫画』だと、母親は言っていたが、今となっては、誰の記憶にも残ってはいない。

その後、、何回か、映画には出掛けたと思った。

だけれどもその後は、『怪獣』を、映画館で観る事は、無かった様に思った。

ただ、今思うと、川口先生の言った『芸能』からすれば、『ゴジラ』は、『芸能』であったのだろうか?

単なる、『娯楽』だったのでは、なかったのではあるまいか?

しかしながら、始めて『映画』を観た事には、変わりは無い!

また一つ、人生の上での楽しみを、知った時だと思った。

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2010年3月 4日 (木)

『泉御殿? 成金御殿?』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅡ)

新築の家は、その全貌が、段々と、見え始めていた。

瓦を、やたらと多く使った、本当に、日本家屋の代表的な様な、形をしていた。

その周囲には、目立った家屋は、あまり無かった。

その上、二階建ての家も少なく、とても目立つ、建物になってしまっていた。

私は、随分と、恥ずかしく思っていた。

その家を、良く言ってくれる方々は、『泉御殿』と呼んだ。

逆に、あまり良く思わなかった人々は、『成金御殿』と呼んだ。

その家の東側には、祖父の温室と畑しかなかった。

南側には、魚安と言う魚屋さんと、工場ぐらいしかなく、これは、遠目に見ても、良く目立った。

西側は、諸に、拓けていた。

田んぼが、ずうっと続き、国立病院まで、これと言った、建物は無かった。

北側には、住宅があったが、2階建ての建物も無く、とにかく、四方八方から、本当に、目立つ建物になってしまっていた。

まぁ、一つの、目印の様な建物になってしまっていたが、やはり、何となくではあるのだが、私自身にとっては、『成金御殿』の様な気がしてならなかった。

それでも、祖父や祖母にとっては、自慢の家だったのだろう。

小学校3年生の、秋ぐらいには、ほぼ、出来上がっていたであろうか?

だけれどもその家には、直ぐには、入居をする事ができなかった。

内装の、問題である。

その頃の家の内装は、その様になっていたのかは、よくは判らない。

漆喰であったりとか、壁紙が貼られていたりとか、その様な感じであったのだろうか?

ところが、その新築の家には、新しい、内装材が、使われていた。

とにかく壁に、新しい内装材を、接着剤で、くっ付ける、と言う物であった。

それが、なかなか、乾燥をしないでいた様であった。

それにその接着剤が、どうやら、体には、良くなかったらしい。

それで、その接着剤が、安定をするまで。

そして、その接着剤が、人体に影響を及ぼさない様になるまでは、入居ができなかったのであった。

新しい家は、建っている。

だけれども、何時まで経っても、住人は入居をしない。

周囲の人々は、随分と、不思議に思ったらしい。

それ以上に、私達兄妹も、不思議に、思ったものであった。

新しい家があるのに入る事ができない。

それは子供にとっては、本当に、不可思議でならなかった。

周囲の人々の、悪い噂は、増々、色々と、広がって行った。

『見せびらかしている。』

とか、

『何処かに、欠陥がある。』

とか、

様々な、憶測を呼んでいった。

最後には、

『お金が足りなくって、家を引き渡して貰えない。』

などと言う、話までになって行った。

まぁ、それはそれで、随分と、面白かったのでは、無かろうか?

結構、周囲の人々を、楽しませたのでは無かろうか?

それにしてもその家は、遠くから本当に良く見えた。

秋の夕日に映えて、良く見えたものであった。

友達の家に遊びに行っても、よく話題になった。

だが実際には、家の内部の事は、良く知らなかったのである。

『中はどうなっている?』

とか、

『部屋は幾つある?』

と聞かれても、応え様が無かった。

何せ、家の中には、入っていないのである。

家の中が、どの様になっているのかなんて、全く判らずにいた。

今思うと、本当に、おかしな話である。

家の西側の田んぼは、長沢部落と言った。

その長沢の、広大な田んぼは、稲刈りが終ると、私達の、特大の遊び場となっていた。

稲叢を、次から次へと渡り歩き、よく荒らしたものである。

その都度、追い掛け回され、とことん、お仕置きを食らったものであった。

時に、何をすると言う訳でも無かったが、稲叢の周囲は、とにかく暖かい。

秋の日は、つるべ落としと言うが、日が翳ってくると、急に冷え込んでくる。

そんな時でも、稲叢の周囲に居れば、それはそれで、暖かく、何とか過ごせたものであった。

今考えてみても、何をして遊んでいたのかと思うと、ろくに思い出せはしない。

ただただ、走り回って、いただけであったのかも知れない。

遊び飽きて、そして、また日が翳って、家に戻ろうとする時に、新しい家を、よく観ていた。

だけれども、実際に戻るのは、その家では無かった。

坂の下の、坂の途中にある、旧家の方であった。

確かに、新しい家は、光っていた。

西日を浴びて、眩いばかりに光っていた。

その姿を観れば、確かに、その当時としては、『御殿』にも、見えたかも知れない。

柿田川の、泉水源地の直ぐ脇に立つ『御殿』。

だからなのだろう。

それで皆さんが、『泉御殿』と、呼んでくれたのであろう。

だけれども私にとっては、その『御殿』に戻る訳でもないし、その家の、中身さえ知らない。

まるで、他人事の様であった。

確かに、遠くからよく目立つ、建物ではあった。

だけれども、私にとっては、自分の家とは、自分の家だとは、到底、思えずにいたのであった。

だからなのかも知れない。

『成金御殿』と言われても、何とも思わなかった。

そして、引越しをして、入居するまでには、相当な時間が掛かったと思った。

その間の時間が、その長い間の時間が、私にとっては、新しい家に対しての、愛着を、生じさせなかったのかも知れない。

今は、この家の周りには、とても多くの建物が立ち並び、また、高い建物も多くでき、この家は、何処からも、勿論、四方八方から見ても、何も目立つ事は、何もない。

大きな建物の陰に隠れてしまって、とても、『御殿』などとは、呼べる代物ではない。

『土地成金』も、『成金御殿』も、そして、『泉御殿』も、時代の流れと共に、消え去ってしまった。

やっとかな?

きっと、やっと、だろう。

祖父達が、作った、作り上げてしまった虚像から、今は、やっと開放をされた気分である。

本当に、やっと、開放をされた、そんな気持ちである。

ただ、本当に、疲れた。

金持ちでもなく、貧乏な家なのに、虚像を作り、虚勢を張っていなければならなかった。

それが、本当に辛く、とてつもなく、嫌であった。

この家には、あまり、楽しい思い出は、残ってはいない。

逆に、嫌な思い出の方が、多いかも知れない。

それが私を、自衛官への道へと進ませる、一つの要因になった事は、間違いが無い!

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2010年3月 3日 (水)

『どうぶつ、たち。』 (小学校3年生 ⅩⅩⅩⅠ)

新しい家の、大騒ぎの建て前が終ってから、古い家の方では、ボチボチと、変化が出始めていた。

まずは、庭の東側にあった、牛小屋を改良して使っていた、納屋が、壊されてしまった。

と、同時に、その中で飼っていた、山羊が、居なくなってしまった。

山羊は、虚弱の私のために、母親が、農家仲間から、譲り受けてきたものであったが、その姿が無くなってしまった。

小学校から、戻って来た時であった。

流石に、餌を与えたり、面倒を、多少は看ていたのであるから、それは寂しいものであった。

母親に聞くと、山羊は、新しい家には、連れて行けないと言う。

仕方の無い事であった。

ただそこで、驚いてしまったのが、その納屋の建てられていた場所であった。

無くなってしまった建物の跡を見てみると、そこは、崖、ギリギリに、建てられていた。

崖に近付いてみてみると、軽く、5m以上はあったであろうか?

そんな場所に、どうやって建物を建てたのであろうか?

いくら高い所が好きだからといても、その時は、本当に、恐ろしく思えた。

西側の納屋は、未だ残ってはいたが、そこも様子が、変わっていた。

納屋の前には、様々な動物を入れてあった籠が置かれていたが、その数も、減っていた。

うさぎやアヒル。

ガチョウもいたであろうか?

それに数々の鳥達。

叔父や叔母が、面倒を看ていた動物達である。

まずは、鳥達が、姿を消して行った。

行き先は、解らなかった。

そして最後に残ったうさぎ達。

それも何処かに、消えてしまった。

不思議なものである。

実は私は、その動物達には、あまり愛着は無かった。

とにかく、面倒を看るのが、本当に、面倒臭かったのである。

それに、イタチやテン。

ハクビシンもいたであろうか?

それらに襲われてしまう事もあったし、それを守るために、一々、板で覆ったり、納屋の中にしまったり、とても面倒であったのである。

それに、籠の掃除もしなければならなかったし、一時期は、

(こんなもの。みんな死んでしまえばいいんだ!)

ぐらいに、思っていた時もあった。

それが、いざいなくなってみると、とても物悲しいのである。

本当に、不思議であった。

十姉妹とか、インコもいたであろうか?

とても煩かった。

だけれども、いなくなってしまうと、淋しいと思ってしまうのは、どうしてなのだろうか?

ただ、流石に、鶏だけは、そのまま、残されていた。

それらの小動物がいなくなった後、西側の納屋も、取り壊された。

すると今度は、大きな壁が、現れた。

それも5mぐらいの高さがあったであろうか?

その壁には、やたらと、筋が入っていた。

その旧家を、その家を建てる時に、どの位の労力を要したのであろうか?

要は、斜面になっている部分を、ひたすら削って平らにし、そこに家を建てたと言う事である。

そこまでして、家を建てなければならなかったと言うのは、少しでも、耕地面積を増やす為に、平らな所には、一切、家を建てなかった、と言う事であろう。

それにしても庭は、とてつもなく、広く、なってしまった。

バレーボールのコートが一面、入る位の広さが、出来上がってしまった。

それから暫くして、今度は、大きなトラックが、家の中に、入って来る様になった。

一体全体、何をするのかと思っていたら、庭の西側に、植えてあった木々を、移し変える、作業であった。

家の西側には、大きな木が、多くあった。

その木々が、強烈な、季節風の西風を、防いでいてくれた。

その木々を、新しい家の方に、移し変えると言う事であった。

それで、その為に、広い場所が必要だったのと、納屋が、邪魔であったのだった。

それに、その納屋にいた、動物達も、同時に邪魔に、なってしまったのである。

ただ、あの動物達。

どう考えても、新しい家の方には、居場所は無かった様に思った。

だけれども、何処に連れられていかれたのであろうか?

一番、可愛がっていたのは、父親であった。

父親は、私達には、とてつもなく、厳しく当たったが、動物達には、本当に優しかった。

動物に対する笑顔は、満面の笑みであったが、その様な笑みは、私達には、見せた事が無かったのである。

全く、理不尽なものであった。

庭の木は、次々と、移し変えられていった。

まずは、一番高かった、槙の木から、運ばれて行った。

ただ、相当、根が張っていたようで、とても大変な作業であった様である。

次に、ヒバ。

それから、松。

段々と、座敷の南側が、明るくなっていってしまった。

こんなにも、明るかったのかと想うほどに、太陽の日差しが、厳しかった。

考えてみれば、座敷の南側は、ジャングルに近かった。

そこが、納屋が壊され、高木が無くなって行けば、当然、光はどんどんと、差し込んで来る。

当然の、結果である。

でもそうなると、不思議なもので、その庭にも、座敷にも、愛着が湧いて来るのである。

ここを、この家を離れるのかと思うと、何となく、物悲しくなったものである。

それはそうと、あとは、梅の木。

それから、南天や、つつじ。

百日紅も、あっただろうか?

とにかく、家の南側の木は、ことごとく、運ばれて行った。

但し、杉と、檜は、残されてしまった。

その他にも、一旦は、移植の準備はされたが、そぐわないと言う事で、処分をされてしまった物も、あった様であった。

ただ、私が、とっても気になっていたのは、家の南側の木ではなくて、北側の、家の裏の、木達であった。

ニッキもあったし、枇杷もあった。

桃だって、夏みかんだって、柿だってあった。

ところが、それらには、一切、手出しがされなかった。

とにかく、何もされないでいた。

私は、本当に不思議になって、祖父に聞いてみた。

『出せないんだよ。裏から木は、出す事ができないんだよ。持って行けない。』

そうなのであった。

木々が、あまりにも大きくなり過ぎて、運び出せないのである。

それに、作業をするのにも、あまりにも狭過ぎた。

人が、3人も入れば、一杯になってしまう。

とにかく、裏の木は、諦めざるを得なかった。

祖父は言っていた。

『接ぎ木か何かを、試してみるから。』

しかしながらそれは、叶わなかった。

旧家の庭が、すっかり綺麗になった所で、庭にあった、『池』の全容が、顕わになった。

こんなにも大きな池だったのか!

それが、まず、最初に思った事であった。

池は、東西に、二つに分かれていた。

池の中央には、人も渡れる、石橋まで付いていた。

それまでは、東側と言うか、半分と言うのか、池のその片割れしか、確認をしていなかったのである。

何と言う事であろうか。

随分と、皮肉なものである。

この家を去ろうとした時に、その真相が、見えて来るとは。

本当に、何とも言えない、郷愁感にも包まれてしまった。

その『池』であるが、新しい家には、『池』は、作らないと言う。

と言うか、新築をする場合には、『池』は、作らないのだそうである。

その理由は、定かではないが、祖父も父親も、口を揃えて、言っていた。

旧家の『池』には、鯉や鮒などなど、かなりの魚が棲息をしていた。

それをどうするのかと思っていたら、四男の叔父が、

『明日、池ざらいをするぞ。』

と、言って来た。

池ざらい?

何だろうと思っていたが、池を、空っぽにすると言う。

とにかく、池の水を、全部、さらってしまうとの事であった。

池ざらいには、私達兄妹が、狩り出された。

家にありったけの、たらいや、バケツ。

柄杓に、空き缶。

などなどを持って来て、池ざらいは、始まった。

叔父の話によれば、

『水をかい出せば、後は、魚は、手掴みで取れる。』

との事であったが、とんでもない話であった。

手掴みなんかで、捕獲できる代物では無かった!

鯉の大きい奴なんて、50cm位もあり、とてもではないが、子供の手に、負えるものでは無かった。

それに鮒だって、ゆうに20cmぐらいはあった。

『何だぁ、こいつら。何時の間にか、こんなにでかくなりやがってよ!』

叔父はそう言っていたが、とにかく、手掴みは、到底、無理であった。

その為、たもを持って来て、それで何とか、たらいに移す事ができた。

本当に、悪戦苦闘の連続であった。

作業をしている途中で、突然、叔父の手が止まった。

何をしているのかと、その視線の方向を観てみたら、何と!『亀』、である。

『かめ』が二匹、体を寄せ合う様にして、じっとして板のであった。

叔父は、亀を見つめながら、

『ひょっとしてこれは、おらが、買ってきた奴か?』

『大社のお祭りで、買って来た、あの、亀か?』

そう、呟き続けていた。

叔父は、

『亀はちょっと、そのままにしておこう。』

と、言っていた。

私達は、リヤカーを持って来た。

それに、魚達が入っている、たらいや、バケツを積み込み、川端へと、向かった。

そこで叔父が、魚達を、柿田川の支流に、離していった。

私は、柿田川の水温は低いし、本当に、大丈夫なのかと、怪訝に思っていたが、叔父は、

『大丈夫さ。ちゃんと、生きて行くさ。あのまま、池の中にいたって、死んじゃうだけだから、この方が、良いのさ。』

と、言っていた。

家に戻ってきて、バケツやたらいを、片付けていた。

でも、今度は、どうしても『亀』が、気になって仕方が無かった。

そこで『池』に行ってみると、そこにはもう、『亀』の姿は無かった。

叔父に聞いてみると、

『あいつらは、自分で生きて行くさ。自分で、生きる場所を、探せるさ。』

と言っていた。

本当に、大丈夫なのであろうか?

叔父は、そんな風に、簡単に言い切っていたが、本当に『亀』達は、大丈夫だったのであろうか?

私は、未だ持って、『亀』達がどうなったのか、気になって、仕方が無い。

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2010年3月 1日 (月)

『建て前!』(^o^)/ (小学校3年生 ⅩⅩⅨ)

祖父の、温室の、西側の畑に、何かを建てている事だけは、何となく、解っていた。

しかしながらそれが『何なのか』、だけは、解らずにいた。

道路を挟んで、畑の南側には、魚屋の『魚安』が、あった

私はそこの、『やっちゃん』に、聞いてみた。

すると『やっちゃん』は、

『おめぇんちの、家じゃねーのか? 新しく、建てるんじゃねえのか? おめぇこそ、知らねぇのかよぉ?』

と、逆に、言われてしまった。

その場所は、その畑は、家で持っている畑の中でも、一番大きな畑であった、

またそこは、父親の、お気に入りの畑でもあった、

そこに、その場所に、何かを建てている。

私はちょっと、不思議に思っていた。

そんな事をしてしまったら、野菜はもう作れない。

そんな事をしてしまって、本当に良いのだろうかと、思っていた。

工事は、着々と進んでいた。

どうやら、二階建て、らしかった。

それに、随分と、高い建物の様であった。

また、南側の道路に沿って、長屋の様な建物も作られていた。

それがどうやら、物置に、なるようであった。

(新しい、家が建つ。)

その経緯については、この時点では、私は、全く解らなかった。

それに、知らされてはいたのかも知れなかったが、多分、全く理解をしていなかったのであろう。

とにかく、家が建つ事に、なってしまっていた。

私達兄妹は、その作業を、よく観に行った。

トンカン、トンカンと言う響きと、柱が組み上がって行くその様は、結構、物珍しく、面白かった。

それに、二階建てである。

小学生にしたら、見上げるほどの高さである。

多分、口を開けて、ぽか~んと、観ていたのであろう。

とにかく、壮観であった。

ある日の事。

朝から、猛烈に、慌しかった。

お盆でも、お正月でも無いのに、親戚の、女性陣が、家に集まっていた。

それに、年末にしか出されない、石臼や杵も出されていた。

台所では、かまどの上に、蒸篭が積まれていた。

庭には、大きな机が出され、もろ箱も、沢山、積まれていた。

一体全体、何が始まったのだろうと思っていたのであるが、その光景を観てみれば、もう、『餅つき『以外には、考えられない。

私の家の伝統として、餅つきを行う場合には、とにかく、一番初めの一臼。

それら、一番最後の、〆の一臼。

それは、家長が搗くことに、なっていた。

その当時の、家長。

すなわち、祖父であった。

しかしながら祖父は、体が弱く、餅を搗く、と言う感じでは、全く無かった。

と言う事で、父親が、まず、捏ねる。

そうして、餅を搗ける状態になった所で、合いの手の祖母と共に、何回か、杵を振り下ろす。

周りにいた、親戚連中も、その時だけは、手を休めて、みんなでそれを、見守るのである。

『せ~の、よいしょっと!』。

とても勢いが良い!

『せ~の、よいしょっと!』。

だけれどもその掛け声も、2~3回で、終ってしまう。

要は、祖父は、その程度が、限度なのである。

それで、目一杯なのである。

その後は、父親と、母親に、いとも簡単に、交代をしてしまうのであった。

一体全体、何臼ぐらい、搗いたであろうか?

とにかく、座敷が一杯になる位であったから、相当な量であったと思った。

餅は搗き上がると、直ぐに、片栗粉の中に、放り込まれた。

それで、直ぐに、握り拳の半分位の量に引きちぎられ、丸められていった。

但し、最初の何臼かは、大きなお餅が造られた。

まるで、お供えのお餅の様であったが、ちょっと、違っている様な気もした。

私は、私達兄妹は、何時、あんころ餅を作って貰えるのか?

おろし餅は?

きな粉餅は?

と、ワクワクして、それを見守っていたが、結局は、何も出ては来なかった。

出て来たのは、

『あんた達、邪魔! 向うに行ってな!』

と言う、叔母の、罵声だけであった。

白いお餅が、大体搗き上がったところで、今度は、食紅が、投入された。

紅い、お餅を作るのである。

ひな祭りの時に、3色のお餅を作る。

その時の記憶があった。

ただ今回は、紅白のお餅、だけであった。

女性達は、とにかくやたらと、動き回っていた。

お餅を座敷に持って行っては、それを、紅白のペアにして、白い紙の、上に並べて行く。

とにかく、10畳の座敷も、8畳の座敷も、お餅で一杯になってしまった!

本当に、驚きの光景であった。

父親は、と言うと、何時の間にか、竹薮から竹を採って来て、枝を落としていた。

母親は、と言うと、台所で、煮物か何かだったと思ったが、料理を作っていた。

それを叔母達が、手伝っていた。

祖母は何をしていたかと言うと、板の間で、5円玉の穴に、赤いリボンを、付けていた。

私は、おやっ?

っと、思った。

何処かで、観た事があった様な?

祖父は居間で、半紙に、小刀を入れていた。

それでその半紙を折り、雷の形の様な物を、作っていた。

それと何か巻物の様な物に、筆で字を書いていた。

祖父は、書が、達者であった。

その次の日も、やたらと、慌しかった。

叔母達は、紅白のお餅を、透明のビニール袋や、紙の白い袋に詰め、それを紅い紐で、結んでいた。

それを、もろ箱に、どんどんと、並べて行く。

そうして、小さいお餅達を片付け、やっと、大きなお餅の所に、辿り着いた。

そこからがまた、一段と、騒がしかった!

『このままだと、しわが入っちゃう!』

『これじゃぁ、曲がっちゃう!』

とか、

『それじゃぁ、くっ付いちゃうよ!』

など、大騒ぎであった。

その、大きなお餅を、紅白で、どうやって梱包するのか?

それが、一番の問題であったようであった。

母親は、その他の叔母と共に、料理を、お皿などに盛っていた。

それに、いつもはまず使わない様な食器も、多量に、用意をされていた。

それに、多量のお酒。

その他にも、野菜を盛ったかご。

果物が盛られたかご。

などなど、とにかく、食べ物が、やたらと、多量にあった様に、思った。

祖母は相変わらず、板の間で、何かの準備をしていた。

それが解ったのは、私の人生において、ずっと後の事に、なるのであるのだが。

父親は、庭で何かを作っていた。

そこに祖父が、付き添っていた。

何か、大きな弓の様な物が、出来上がっていた。

私はまた、

おやっ?

っと、思った。

これも何処かで、見た事があるぞう?

それ以外にも、何かを作ってあったが、良くは思い出せない。

祖父は、父親が作った物に、飾り付けをしていた。

ただその時驚いたのが、昨日は確か、白い半紙だけであったのであるが、色とりどりの紙が、細工をされ、用意をされていた。

何時の間に?

祖父は、その様な細かな作業と、手際の良さは、かなりのものがあった様であった。

祖父と、父親が、その作業を終えようとしていた頃、紺色のはっぴを着た集団が、家にやって来た。

私達兄妹は、邪魔にされ、遠巻きでしか、観ている事はできなかったが、祖父とか父親とか、祖母・母親・叔母達までもが、家から出て来て、その集団に向かって、やたらとぺこぺこしていたのを、覚えている。

父親が作った工作物は、その紺色のはっぴの集団に、手渡された。

またまた、その次の日の事であった。

今度は、家の中に置かれていた物が、どんどんと、運び出されて行った。

お餅も、料理も、食器も、お酒も、祖母が大事そうに抱えていた木箱も、何もかも、家の中は、すっかり、がらんどうになってしまった!

私達兄妹は、暫くの間、その光景を観て、その家に佇んでいたが、

『あんた達、何をやってるの? 早く来なさい!』

と言う叔母の大声と共に、家が新築されている現場に向かった。

物置は、大体が出来上がっていたが、荷物は、その中に、運ばれていた。

その中から必要な物が取り出され、新築の、2階の屋根の上に、運ばれていた。

屋根の上には、例の弓が立てられ、四方に竹が立てられ、それらに、縄が、張られていた。

そこに、祖父の飾りつけが、施されていた。

私は叔父達に、

『おめぇも、上に行かなきゃ、駄目じゃんか!』

と促され、屋根に続いている、梯子を登ろうとした。

すると、

『おい! ガキ! こっちに来ちゃ、駄目だ!』

と、若いお兄さんに、怒鳴られてしまった。

そうしたら上から、

『お~い! その子は、良いんだ!』

と、声が降って来た。

私は、喜んで、2階の屋根の上まで、駆け上がって行った。

私はとにかく、高い所が、大好きである。

だから、木登りも好きだったし、そのため、自衛隊では、航空科に、行った様なものであった。

屋根の上では、儀式が行われていた。

驚いた事に、祖父がいた。

それに父親もいて、何人かの、男の人がいた。

屋根の上は、意外と広かった。

そして、祖父が書いた、巻物の様な物を、親分の様な人が、読み上げてた。

その後、『塩』が撒かれ、『米』も撒かれた。

湯飲みに酒が注がれ、みんなで乾杯をしていた。

私は、そんな事にはお構いなく、四方の景色を、思いっ切り、堪能していた。

何せ、今居る場所以外に、他に高い物と言ったら、火の見櫓位のものである。

思いっ切り、遠くまで、見渡す事ができた。

沼津の街並みでも、三島の街並みでも、しっかりと、確認をする事ができた。

おまけに小学校が、とても近くに観えていた。

突然、『親分?』の大声が響いた。

すると、下に集まっていた、近所の人達が、一斉に動き出した。

私は下を観て、ぞっとした!

黒い目玉が、滅茶苦茶、こちらを向いているのである。

そして、見えるものといえば、黒い髪の毛と、その脇から伸びてくる、『手!』。

その時は、物凄く、気持ち悪く感じた。

何だか、見てはいけないものを見てしまった様で、変な気分であった。

『親分?』は、大きなお餅を、両手で持って、下に、放っていた。

それは、四つの方向に向かって、行われた。

その後である。

父親も祖父も、そしてそこに居た男の人達も、いきなり、お餅を、下にいる人達に向かって投げ出した。

とにかく、どんどんと、投げて行く。

そして、篭に入っていた『野菜』も投げられた。

『果物』も投げられた。

私は、下の人達が、大丈夫かと思って下を覗き込んでいたが、

『お兄ちゃんも、餅を、しっかりと撒かなきゃいかん。』

と、『親分?』に言われて、幾つかのお餅を、渡された。

もう、投げる物が無くなったのかと思ったら、その時に、さっき怒鳴ったお兄ちゃんが、

『おう! 悪かったな。ここの息子だったんかい?』

と言って、お餅を、運んで来た。

とにかく、物凄い、量だったと思った。

祖父は?

と観てみると、祖父は、木の箱を抱えていた。

でも、よくよく観てみると、それは『枡』であった。

その中には、祖母が用意をしていた、5円玉が入っていた。

それを祖父は、『花咲爺さん』の様にして、撒いていた。

いや、撒いていたと言うのは、言い過ぎであろう。

やはり、放っていたと言うのが、正しいであろう。

その騒ぎは、屋根の上から撒く物が無くなった所で、やっと終焉を迎えた。

それで祖父が、何か挨拶をしていた様に思った。

それで、眼下に居た人々は、霧散霧散して行った。

屋根から降りて来た人々は、1階の、裸電球の下に集まった。

そして、親戚の叔父さんや叔母さん達は、物置の方に集まっていた。

それからは、料理が出され、宴会が、延々と、続いていた様であった。

私達兄妹は、旧家に戻ったが、テレビを点け、家族の帰りを待っていたが、がらんどうになっていた旧家は、何だか、とても、物悲しく思えた。

新しい家を、建築してくれたのは、『御守建設』と言った。

そこの大工の棟梁が、設計、施工までしてくれたそうである。

しかしながら今は、その大工の棟梁も、『御守建設』も、その姿が無い。

残念な事ではある。

当時、木造で、それだけの建物を創る事ができる『腕』を持っている人は、数少なかった様であった。

私の今住んでいる家は、築40年を越えた。

本来であれば、耐震工事をしなければならないのであるが、そのままにしてある。

祖父の想いや、棟梁の想い。

それらが邪魔をしている訳ではないが、何か踏み切れない物があって、そのまま、なのである。

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2010年2月28日 (日)

『べっこうあめ。』 (小学校3年生 ⅩⅩⅧ)

父親や、母親が、私を連れ回す様にして、親戚巡りをしていた時、祖母も負けじと、私を連れ回した。

と言うか、実際は、祖母の鞄持ちであり、また、祖母が、外に出掛ける為の、口実だったのかも知れない。

祖母が、主に出掛けていたのは、長泉町の『古谷』であったが、祖母も、段々と、歩けなくなって来ており、『バス』などに、頼る事が、多くなって来ていた。

この頃、バスも次第に改良をされ、『ボンネット式』のバスは、その姿を、次第に消し出していた。

それに変わって現れ出したのが、『キャブオーバー』のバスであった。

エンジンを、後部座席の下にしまい込み、運転席の前面が平らになり、運転手の視界も拓けていた。

また、私達乗客も、外の景色を、多少は、楽しめる様になっていた。

その上、特に、画期的だったのが、『ワンマンカー』であった。

『ワンマンバス』とも呼ばれた。

現代のバスの、原型である。

それが、現れ始めたのである。

乗車口は、バスの、前方の場合もあったし、後部の場合もあった。

だけれども、降りる時は、運転手の横にある、『運賃箱』にお金を投入し、前方から降りなければならなかった。

また、乗車をする時には、『整理券』を取らなければならなかった。

それで、バスの前方の、中央、上に、表示をされる『運賃表』を確認して、運賃を支払うのである。

まぁ、よくぞ考え出したものである。

数字が読める者であれば、誰でもバスが、簡単に利用できる様になったのである。

それに、車掌さんも要らない。

人件費も、要らないのである。

ただ、女性の車掌さんが、マイクを持ってしていた、車内放送が無くなってしまったのは、かなり淋しく思えたが。

祖母が、

『お山王さんに行く。』

と言い出した。

(おさんのうさん?)

初めて耳にする、言葉であった。

この頃になると、

三島に行く時は、『玉井寺』。

沼津に行く時は、『八幡』。

と、バスの停留所が、決まっていた。

祖母は、『八幡』に向かっていた。

どうやら今回は、沼津に向かうようであった。

ただ沼津と言っても、祖母と、沼津に向かうのは、初めてであった。

祖母が向かう沼津。

そして、おさんのうさん。

私は、またまた、未知の世界に向かうのだと、ちょっとは、期待をしていた。

それに、ひょっとして、初めて、沼津駅まで行けるかも知れない。

そして、未だ知らぬ、『セイブ』や、『フジキュー』などにも、行けるのかも知れないと、随分と期待をしていた。

すると祖母は、

『高村に行くから、平町で、ブザーを押して。』

と言った。

『ワンマンバス』は、降車をする時には、ブザーを押さなければならなかった。

私は、初めて耳にする、『ヒラマチ』と言う響きを頭の中に残し、

(何処だろう?)

と思っていた。

その、『ヒラマチ』は、意外と直ぐに、やって来てしまった。

沼津市内に入り、国道1号線の新道が、2車線から、4車線に変わって、直ぐであった。

とてもではないが、『沼津駅』とは、とてつもなく、掛け離れていた。

私は仕方なく、祖母の後に、付いて行った。

祖母は国道を、北側に渡った。

そしてどんどんと、住宅地の中に、入って行ってしまった。

そこは、随分と、住宅が密集していた。

そうなってしまうと、もはや私にとっては、右も左も判らなくなってしまう。

ただひたすら、祖母の後を、付いて行くしかなかった。

小川の横であったと思った。

祖母が立ち止まり、

『いいかい。

ここは、おじいさんの、お姉さんの・・・・、

・・・・・で、高村って、言うんだよ。

ちゃんと、挨拶をして。』

やはり、親戚筋の、話があった。

だけれども、私の記憶には、全く、留まってはいない。

本当に、申し訳無く、思う。

そのお宅には、ご主人と奥様。

そして、二人のお子さんが居たと思った。

下の方が、息子さんで、私より、若干、年上だった。

しかし実際は、かなり年上であった様である。

お宅に、お邪魔をした。

するとご主人は、

『おぉ、良く来たね! 随分と大きくなって、見違えちゃったなぁ。 段々と、お父さんに似てきたなぁ。』

と言った。

私は心の中で、

(なにぃ?)

と思った。

(あんな父親に、似ているぅ?)

物凄い、ショックを受けた。

勿論、社交辞令であったのかも知れないが、初めて言われた言葉であった。

本当に、びっくりして、あの時の衝撃は、とても酷いものであった。

(父親と似ている・・・。)

その思いは、その後も、随分と、後を引きずった。

おじさんは、

『もう少ししたら、○○が帰って来るから、そしたら、お山王さんに行って来な!』

と言った。

(○○って、誰だろう?)

とにかく、人懐っこいおじさんで、私は、初対面だと思っていたのであるが、随分と、私の自宅の方にも、現れているらしかった。

祖母はと言うと、おばさんと、しきりにと何かを、話していた。

『お帰り! ○○、ちょっと、お山王さんに行って来いや!』

おじさんの声が、響いた。

その少年は、随分と、背が高かった。

と言うよりは、私が、チビだったせいなのかも知れない。

顔立ちがとても良く、利発そうに思えた。

うる覚えではあるが、第一印象は、そんな感じであった。

お山王さんには、祖母も一緒に付いて来た。

そこは、神社であった。

丁度、お祭りが行われていて、沢山の出店が並んでいた。

祖母はお参りを済ますと、お札か何かを、求めていた様であった。

私とそのお兄さんは、出店を観て回った。

お兄さんに、

『何か欲しい物はあるか?』

と聞かれたが、私は、特に何も無かったので、そのまま黙っていると、

『面白い物があるから、こっちに来な。』

と言って、ある場所に、連れて行かれた。

そこには、あま~い、何かの香りが漂っていた。

お店の前には、割り箸の棒に、金色の、透明の、平たく付けられていた、何かが立てられていた。

金魚の形の物があったり、カブト虫の形の物があったり、クワガタや、セミなどもあった。

『へぃ、らっしゃい! 何か欲しい物は、あるかい?』

頭にタオルを巻いたおじさんが、勢い良く、声を掛けてきた。

だけれども私は、お金を持ってはいなかった。

だけれども横にいたお兄さんが、

『これ、面白いんだぜ。頼んだ物を、作ってくれるんだぜ。』

と言った。

『見ててみ。色んな物を、作ってくれるから。』

そう、お兄さんは、言っていた。

頭にタオルを巻いたおじさんは、

『おい、お兄ちゃん、何かリクエストは無いのかい?』

と、私に聞いてきた。

『何でも作ってやるぜ!』

とも言って来た。

だけれどもお金が無い。

そうしたら、親戚?タカムラ?のお兄ちゃんが、

『お金なら、貰って来てあるから、おごってやるよ。』

と言った。

私は思わず、

『ウルトラマン!』と言ってしまった。

そうしたら、タオル鉢巻おじさんが、

『ウルトラマンけぇ。もうちっと、簡単な物はねぇけ?』

と言って来たが、

『まぁ、いいや、何でもできるって、言っちまったもんな。よっしゃ! 見ときな!』

そう言って、黄色い、随分と、粘っている『塊』を取り出した。

『本当は、こんなには、使わねぇが、今日はおまけだ!』

と言って、銀色の金属の板の上に、『塊』を乗せた。

その板は、とても熱かった様であった。

その板の上で、鉢巻おじさんは、色々な道具を使って、その『塊』を、平らに伸ばして行った。

伸ばしては切り、押して広げては切り、形を整えては切りと、鉢巻おじさんは作業を続けて行った。

その作業は、確かに面白かった。

はさみで切ったり、コテで伸ばしたりと、ネバネバしていた物を、自在に操っていた。

だけれども、どうにも違うと思った。

『ウルトラマン』とは、随分と違うのである。

鉢巻おじさんは、

『はいよ! ほらできた!』

と言って、割り箸の棒を、私に渡してくれた。

だけれども、やっぱり何かが違っていた。

鉢巻おじさんは、

『横顔だよ、横顔!』

と言って、誤魔化して、いたのであった。

そのお店の赤い横幕には、『べっこう飴』と、書かれていた。

その後、お兄さんと、金魚すくいなどをして、お宅に戻った。

祖母は既に戻っていて、帰り支度をしていた。

私は、片手に、月光仮面の様な『ウルトラマン』の『べっこう飴』を持っていて、もう片方の手に、『金魚』の入ったビニール袋を持っていた。

どうにも身動きが取れなかった。

祖母は、

『持って帰るの?』

と聞いてきたが、おじさんが、

『金魚は、川に放してやろう。』

と言って、あっと言う間に、窓から、小川に、金魚を放してしまった。

私は何とかして、家の庭の池まで、持って帰りたいと思っていたので、とても残念に、思ってしまった。

だけれども、相当、後であるが、金魚を、持って帰らないで良かったと、理解できる時が、やって来るのであった。

『高村家』に、お伺いをしたのは、後にも先にも、この時だけだったと思った。

そして、そのお宅の近くの神社は、『日枝神社』と言った。

かなり、有名な神社らしいが、そこに行ったのも、その時、だけになってしまった。

祖母がそこに、『お札』を頂きに行ったのは、それなりの理由があったからであるが、それも後々、解るのである。

ただ、高村家であるが、その時のお兄ちゃんは、相当、優秀な人らしかった様で、東京で就職をしてしまった。

地元に戻って来る気配は、全く、無かった様である。

その後、おじさんが、この世を旅立たれた後は、おばさんは、東京の、息子の元に、身を寄せてしまった様である。

今は平町に、『高村家』は、無い。

仕事で、『日枝神社』の前を通る事が、頻繁にあった。

その都度、あの、不格好だった、『ウルトラマン』が、思い出された。

たまには『通過』をせずに、『日枝神社』に、寄ってみたいものである。

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